5.聖女、初めての瀉血
目が覚めたら、アーシャは不思議な空間にいた。
「アーシャ!!」
まず目に入ってきたのは、安堵したゼンの顔。
そしてその背後に広がる、白を基調とした部屋。
「………ゼン?」
目を開いた時、まだ夢の中にいるような気がしたが、彼の名前を呼ぶと、ギュッと抱きしめられ、現実である事がわかった。
「………?」
それでは天井からぶら下がっている、布製の球体や、壁に描かれている、やたらと色鮮やかな抽象画、見たこともないような配色の家具も現実のものなのだろうか。
アーシャは内心首を傾げた。
ゼンに支えられながらアーシャは起き上がる。
どうやら彼の膝の上で眠っていたらしい。
「アーシャ、錘粉阜灘禅繍稜兄竪鍔?」
突然の人事不省で随分心配をかけてしまったようで、ゼンの眉毛が不安そうに垂れている。
こんなに今まで心配してくれる人なんか居なかったから、素直に嬉しい。
アーシャは自分を支えてくれている大きな手を握りしめる。
笑ってみせると、ゼンも安心したように笑った。
アーシャはゼンに支えられたまま、荒唐無稽な子供の夢が、そのまま現実に現れたような部屋を見回す。
天井からは赤、水色、黄色、水色と緑色、橙色、茶色、黒色と、様々な色の球体が吊り下がっており、それぞれヒレがついていたり、輪がついていたりして面白い。
特に水色と緑色の球体には、何やら可愛らしいお人形がくっついている。
「朕手辛逢佐園?」
じっと見ていたら、ゼンが抱きあげて、触らせてくれる。
抱っこされたら丁度人形が触れる位置にくる。
人形は色々な服を身に纏っており、中にはアーシャの知っている民族衣装に似た服を着ている者もいる。
細やかで愛らしい作りに、思わずアーシャは笑みが溢れる。
目に入る壁には、やたらと線と色のはっきりした絵が書かれている。
全体的に可愛らしい感じで書いてあるのだが、一体何の絵かわからない。
(………フォルネウス………?)
何に似ているかと聞かれると、ある教団が召喚した悪魔に似ている。
ヒレと呼ばれる、体のサイドにある鋭い突起と、足が別れておらず、流線型なのが、奴を彷彿させる。
人語を操り、人心を惑わせる手強い相手だった。
(何で悪魔がこんな……愛らしい感じの壁画に?)
よく意図が掴めない。
グルリと部屋を見回すと、アーシャ達がいる扉側と反対の、奥の方に子供達が固まっている。
「………?」
そこには何だか不思議な物が沢山ある。
小さな屋台のような物、小さな机、そして片方が真っ直ぐな板になっている不思議な形の脚立。
「アーシャ、温年峻兼及緋?」
観察していたら、ゼンが行っておいでとばかりに、下におろしてくれる。
「……………」
サイズ的には一緒だが、向こうは人間の子供だ。
ゴブリンが混ざるのは、いかがな物だろう。
魔物が混ざったら、ヨチヨチと遊ぶ子供達はパニックの
少し考えて、アーシャは首を振って、ゼンの足に掴まり、ここにいる意思表明をする。
ここが如何なる目的の為の空間なのかわからないが、幼児達の平安を乱したくはない。
等と、格好良いことを思っていた、その時だった。
視線の先の幼児が、ヨチヨチと謎の脚立を上り始めた。
そして一番上まで行くと、板になっている方に足を投げ出して座る。
「!!!!」
すると幼児はスーッと板の上を、滑り降りる。
滑り降りた幼児は、とても楽しそうにキャタキャタと笑っている。
(何あれ!!面白そう!!!)
坂を転がり落ちた経験はあるが、あんな風に滑って降りた経験はない。
一気に興味が芽生えたアーシャの前で、幼児は再び脚立を上る。
そしてまた楽しそうに笑いながら滑り降りるのだ。
(まぁ、ゴブリンと言っても?とても小ぶりで、拳で粉砕できるレベルの小物だし?害はないのは一目瞭然じゃない?)
頭の中にそんな言い訳が浮かび、ジリジリと足に力が入る。
「桜窯藁幸い剰」
そんなアーシャの背中を、ゼンが優しく押す。
足は一歩出ると、もはや止まらない。
カサカサと脚立に近づき、胸を躍らせて脚立に足をかける。
(これも
ささくれ一つない踏み板は、とても素足に心地良い。
しかも丁度そこにあったら助かるなという位置に、絶妙に握りやすい手すりがある。
胸を高鳴らせながら、板に尻を下ろすと、スルスルと体が板の上を滑って、あっという間に下に到達する。
「ふふふふっ」
斜めの板を滑り降りる。
たったそれだけのことなのに、何と愉快な事か。
チラッとゼンの方を見たら、小さく手を振ってくれる。
アーシャも大きく振り返して、もう一度脚立を上る。
上から下へ滑り降りる。
たったこれだけの事がこんなに楽しいなんて、誰が発見したのだろう。
神々は中々娯楽にも力を入れているようだ。
先程滑っていた幼児が、この脚立に興味を失っているのを良い事に、アーシャは何度も板を滑り降りる。
そして何度も滑っていると、次第に周りの様子も気になってくる。
小さい屋台のような物は、本当に屋台を模しているようだ。
店主をやっている幼児が、屋根の下に本物と見まごう、精巧な細工の野菜や肉が並べている。
最初は本物かと思ってしまったが、床に落ちた時、カラカラと本物ではあり得ない音がした事と、鷲掴みにされた肉が、一切形を変えずに振り回されていたから、作り物だとわかった。
近寄って、もっとよく観察したかったが、店主の幼児に激しく睨まれてしまった。
別に害を与えるつもりではなかったのだが、ゴブリンだから警戒されても仕方ない。
小さな台は、もしかしたら台所を模しているのかもしれない。
水が流れる窪みや、火が噴き出る穴を再現していると思われる部分がある。
幼児は木で作られた鍋に、小さな屋台で買ってきた
(胡瓜って煮込む素材じゃない気がするんだけど……)
アーシャは心の中でツッコミを入れるが、幼児は見事な手際で、茹でた胡瓜を皿に盛って、母親らしき女性に渡している。
(まぁ、コップやお皿まであるのね!神の国では幼い頃から、こうやって料理の練習をしているのね)
アーシャは感心してしまう。
ここはさしずめ、幼児の訓練施設といった所だろうか。
大きさ的に彼らと近しいアーシャも、ここで何かを学ぶ事を期待されているに違いない。
アーシャは幼い頃に神殿に入ったことから、あまり日常的なことができない。
魔物を捌いたりするのは結構得意なのだが、捌いた肉は貰えなかったので、料理自体はやったことがない。
今はご飯を全てゼンに作ってもらっている状態だ。
お世話になりっぱなしのゴブリンより、お世話のできるゴブリンの方がずっとそばに置いてもらえるだろう。
(ここでしっかり生活スキルを身につけてみせるわ!!)
アーシャは張り切る。
幼児とはいえ先輩。
礼を以って接し、害のないゴブリンであると言うことを理解してもらい、共に学ばせてもらおうではないか。
アーシャがそう思って、料理の訓練をしている幼児に近づこうとした時、
「アーシャ」
ゼンに呼ばれた。
ゼンの横には、いつの間にかユズルが戻ってきている。
「?」
何故か手振りで、向こうに行けと指示されている。
やはりゴブリンは幼子に接触しない方がよかったのだろうか。
そう思いながら下がると、更に下がれとの、手の指示が大きくなる。
「???」
不思議に思いながらも、少し傷ついてしまう。
ゼンの表情から悪意はないのだろうが、野犬を追い払うような仕草は悲しい。
部屋の端に寄って、しょんぼりとしていると、突然アーシャの体は持ち上げられる。
「橡浮保、尋う氾糟。村遜僧年お区該頂い栖佑椀賛……韓誰、荊那輝利錯傷業い予根。鏡卒豆い、アーシャ」
持ち上げてくれたのは、たった今、向こうへ行けとやっていたゼンだった。
「????」
良くわからない。
しかし何かとても謝られている気がする。
向こうへ行けと言うのは間違った指示で、アーシャはここにいて良いと言うことなのだろうか。
恐る恐る彼の服を掴むと、彼はギュッと抱きしめてくれる。
先ほどの指示の意味はわからないが、彼のそばにはいて良いと言うことなのだろう。
アーシャはホッと息を漏らす。
ゼンはユズルと何事か話しながら、扉外の階段を上る。
「ふぁ〜」
階段の壁面も、線が妙にはっきりとした絵が描かれている。
可愛らしい感じで書いてあるが、鋭い牙と爪を持っていたり、尻尾に打撃用の石のような物がついていたりしているので、これもきっと魔物だろう。
背景には爆発する火山や流れる溶岩が描かれているので、もしかしたら魔界の絵かもしれない。
上を見上げれば、どこかしらワイバーンに似た竜族の模型もぶら下げられている。
もしかしたら、ここでは幼児に対して戦闘訓練なども行なっているのかもしれない。
それで敵となる魔物の図解がそこらじゅうに描かれているのかもしれない。
(神の国の教育は徹底しているのね)
アーシャは感心してしまう。
王都の子供など、城壁の中で大切に育てられ、一生魔物の姿を見ないで過ごす者もいるくらいなのに、意識が高い。
ここでどんな事をさせられるのかわからないが、腐っても聖女。
しかも度重なる遠征に従軍した経験のある、実践経験豊富な聖女だ。
いかなる要求にも応えて、ゼンに優秀さをアピールしていきたい。
今は小さくて非力だが、将来性があるとわかれば、きっとずっとそばに置いてもらえるだろう。
(頑張るわ!)
アーシャは張り切る。
階段を上り切ると、そこも白を基調としながらも、水色や薄い桃色などの目に鮮やかな色の家具が配置された空間に出る。
「捷暑扇虜苅寡嶺?」
「謎実」
「暑窯耀撲辱草操」
階段上には、愛らしい桃色の服に身を包んだ女性がいて、アーシャたちを白い扉に導く。
(やっぱり神の国は女性でもズボンを履くのね)
アーシャは案内してくれた女性を観察しながら感心する。
人の世では女性がズボンを履くと
騎乗するからとズボンを履こうとしても認められなかった身としては、この自由さは好ましい。
神の世だったら、アーシャももう少し上手く馬に乗れたかもしれない。
女性は馬に乗る時は横座りの『女乗り』で、男性のように正面を向いて股を開いて乗ることすら許されなかったのだ。
一応鞍は横座りできるようになっていたが、それでも乗り易いとは言えなかった。
そんな事を思いながら、案内された扉を、ゼンたちとくぐると、そこには大きな執務机に腰掛けた女性がいた。
アーシャは驚きで目を見張る。
彼女の周りには、先ほどの女性と同じく、桃色の服を身に纏って働いている女性や男性がいる。
そんな人々を従えるように、女性は一際立派な椅子に座り、ゼンたちに椅子をすすめる。
堂々たる所作は彼女が、ここの女主人であることを示している。
彼女は豪華なドレスで鎧っているわけでなく、髪を派手に結って権威を示しているわけでもなく、顔に白粉を分厚く塗って武装しているわけでもない。
簡素な白い服と黒いスカートで、髪は後ろで一本に括り、眼鏡をかけた顔は軽く粉がはたかれたのみだ。
それなのに堂々としている彼女から女王のような自信と、誇り高さを感じる。
顔に刻まれた皺すら、彼女の自信を築いてきた時間を証明しているようだ。
如何なる権勢を誇示せずとも、自分自身に価値があると知っている人間の顔だ。
彼女はアーシャの目を覗き込んだり、下瞼を下げて確認したり、耳の中を見たりする。
口の中に、銀のヘラを突っ込もうとされた時は驚いて口を閉めてしまったが、彼女は冷静に、再度口を開けるように指示する。
「??」
上着を脱がされ、
そんな事をされていて、漸くアーシャは彼女が医師なのではないかと思い至った。
専門の学校で医学や解剖学を修めた秀才で、基本的に庶民はお目にかかれない存在なので、中々思い至れなかった。
(……かっこいい……)
自信に満ち溢れて診察する様子は、同じ女性として尊敬してしまう。
そして彼女の指示に従って、きびきびと動く桃色の服の人々も、きっと優秀な医療者に違いない。
因みに庶民が病気をしたときにかかるのは、刃物を扱うプロである理髪師だ。
こんな清潔で何の匂いもしないような所ではなく、切った髪や、治療して摘出した歯や肉、血などが山積みにされている不衛生な所だ。
外傷はそこで縫ったりもされるが、体調不良などに施されるのは
瀉血とは、古い血を外に出し、新しい血にすることで体調を整えると言われる医療行為だ。
方法は簡単で、腕などを切って、出血させることで、古い血を外に出すだけだ。
しかしアーシャは、この瀉血と言うものに疑問を持っている。
瀉血は誤って太い血管を傷つけて、出血多量で死んだり、汚い刃物で切ったせいで、傷口が膿んで腕がダメになったりする事も珍しくない。
発熱を治してもらおうとして、出血多量で死ぬなんて冗談ではない。
民間による危険な治療ではなく、教会が主導して治療院を開くべきであると主張したのも、アーシャが追放された一因だ。
(………………追放?私が?)
そこまで考えて、アーシャは首を傾げる。
追放なんてされた記憶がない。
何故そう思ってしまったのかと、考えようとすると、頭に靄がかかったようにぼうっとしてしまう。
「哩澄、肌邦撚、粁曇縛按公旨忠」
そんな事を考えていたら、女性医師が、何かを宣言した。
すると見た事もないような道具が、銀の盆に乗せられて運ばれてくる。
細長い硝子製の管、スカートを履いたような針、太めのミミズのような紐。
「………ゼン?」
それを見た瞬間、アーシャを膝に乗せていたゼンの体が緊張した気がして、彼の顔を見上げる。
彼の眉が限界まで下がっている。
アーシャはゼンの膝を元気付けるように撫でるが、彼はますます悲しそうな顔になってしまう。
どうしたのだろうと首を傾げていると、アーシャの腕に、ミミズのような紐が巻かれる。
弾力のある紐で、巻かれても圧迫感があるだけで全く痛くない。
「ぎゅ〜〜〜」
女性医師がアーシャの手を親指を握り込む拳の形にして、力を入れるように、とでも言うように、強く握る。
「?」
よくわからないが、拳を強く握ると、女性医師はニヤリと笑う。
「棋宥寺粁、記害故斯鉄遠宵株請元訟喰」
そして彼女はゼンに向かって何事か指示を出す。
「??」
するとゼンがアーシャをギュッと抱きしめる。
ゼンがミミズを巻いていない方の腕を巻き込んで抱きしめるから、身動きが取れない。
「???」
そうした所で、一人の女性が足を、もう一人の女性がミミズを巻いた腕を固定する。
(私、特に凶暴なゴブリンじゃないんだけど)
何故に三人体制で押さえ込まれているのだろう。
不思議に思っていたら、濡れた綿で腕を拭かれる。
「えっ?」
そして女性医師はスカートのついた針を取り出したかと思ったら、それをアーシャの腕に向かって移動させてくるではないか。
「あ、ちょっと、待って、待ってくだしゃい」
驚いて逃げようとするが、三人がかりで固定された体はびくともしない。
アーシャの腕は布とかではないし、今は無傷で縫う必要性も全く無い。
「あ、あ、あ、あのっ」
なのにスススっと近づいてきた鋭い針は、迷いなくアーシャの腕に刺されてしまった。
「ぜ、ぜ、ゼンっ、ゼンっ」
訳がわからなくて、とりあえずゼンに助けを求めるが、彼は目を瞑って、アーシャの体を抱きしめ続けている。
そうしている間に、針のスカート部分に、硝子製の管が差し込まれる。
すると、どう言うことだろう。
ピュ〜っと赤黒い
「あ!」
糸のように液体が噴き出しているので、一体これは何だろうと、しみじみ見てしまったが、これはアーシャの血だ。
「あ、あ、あ、瀉血ぅぅぅぅ〜〜〜!?」
たった今、否定的に考えていた瀉血をやられている。
アーシャはアワアワと首をふる。
「あの、私、元気でしゅ!!瀉血の必要ないでしゅ!」
一生懸命言ってみるが、誰も聞いている感じがしない。
なにせ一番の頼りのゼンがアーシャを押さえ込んでいるのだ。
助けを求めて周りを見たら、壁際でユズルは面白そうに観戦している。
アーシャと視線があったら、ユズルは涼しい顔で、手を振って見せる。
「ユズゥ!!」
人のピンチに呑気すぎないだろうか。
ちょっとした怒りを込めて、アーシャは彼の名前を呼ぶ。
しかし瀉血の時間はあっという間に終わった。
「履且。命捲枇塁影侍」
女性医師がそう言って、腕に巻いたミミズを外し、針も腕から引き抜いてくれたのだ。
そしてまた白い綿で針を刺した所を拭いたかと思ったら、小さな白いものをそこに貼り付けた。
「太尽糟読筏岸穿!」
「湾導釦狽!!」
するとアーシャを固定していた女性たちが、アーシャの頭を撫でたり、拍手してくれたりする。
「牽牽硝糞賛逗詑!」
「似速雷〜〜〜!」
他の人たちも顔を出して、口々に何か言いながら拍手してくれる。
何かメチャクチャ褒められている気がする。
こうなるとお調子者のアーシャとしては「瀉血ぐらいどってことねぇっすよ」と言いたくなってしまう。
「アーシャ、仔倍努芙!惹逃蜘釣峻楯!!」
アーシャを膝に乗せていたゼンも、アーシャを抱きしめて、思い切り頭を撫で回してくれる。
「ふふふっ」
頬をゴリゴリと擦り合わされながら頭を撫でられると、何だか可笑しくなってきて笑ってしまった。
アーシャからもゼンにしがみ付いて、頬を擦り寄せる。
「アーシャ〜〜〜〜!!」
するとゼンが何だか嬉しそうな声をあげる。
そしてもみくちゃに抱っこされながら、アーシャの初めての瀉血体験は幕を閉じた。
(神の世界って意外と医療は人間の世界と似ているのね)
ちょっとした勘違いは残ってしまったが。
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