4.幼児、病院に連行される

禅一はふわふわのタンポポのような頭にドライヤーをかけながら、顔を緩ませる。

パサパサのドライフラワーのようだった髪が、少ししっとりしてきた気がするのだ。

お風呂でしっかりコンディショナーを塗り込んだ効果か、食生活が改善されたお陰かは、わからないが、アーシャの状態が改善されてある象徴のような気がして嬉しい。


尚、朝の組み手で禅一も汗をかいたので、シャワーを浴びたのだが、それはアーシャを風呂から出してからにした。

本当は一緒に済ませてしまおうと思っていたのだが、

「禅、知ってたか?欧米では異性の親と子供が風呂に入るのって虐待らしいぞ」

との譲の言葉で思い直した。

はっきり言って、幼児を風呂に入れるのに、そこまで気を使うか?とは思うが、万が一、アーシャの保護者が現れた時に、こちらも虐待しているなどと、言いがかりをつけられても厄介だ。

兄弟で話し合った結果、要は服を着たまま入れていると主張できれば良いので、禅一はトランクス一丁でアーシャを風呂に入れ、アーシャを出してから、素っ裸になって自分を洗う事にした。

多少不便だが、アパートの風呂は小さく、どうせ一緒の湯船に浸かったりはできないので、当面はこのスタイルで行く事にした。


譲が『最低限』と買い揃えてくれていた、女児用のワンピースに、アーシャは目を輝かせて喜んでくれた。

実は、診察に適した前あきの服が、それぐらいしか無かったということでのセレクトだったのが心苦しい。

「……可愛くて、可哀想すぎる……」

くるくると回って、スカートの裾を広げて、楽しそうに跳ねているのが、無邪気すぎて禅一は胸を押さえる。

お下がりのズボンを履かせていた時は、それほど気にならなかったが、スカートからのぞく枯れ木のような足が、彼女の体が完全でないことを、強く訴えてくる。


「可愛くはねぇだろ、可愛くは。一山当てた成金餓鬼みてぇだし」

まだウダウダと言っている兄に、呆れ気味に譲がツッコむ。

確かに、ガリガリの体に、真新しい新品の服は違和感があり、明らかに服に着られてしまっているが、言い方が酷い。

「心の目で見ろよ、心の目で!」

「俺は虚構の世界には興味がねぇよ。ほら、しっかり現実を見て、餓鬼を捕まえろ。行くぞ」

譲は容赦ない。


「アーシャ」

禅一が手を広げたら、アーシャは嬉しそうに、彼の腕に飛び込んでくる。

「………なぁ、あと一週間くらい待てないか?」

嬉しそうに抱っこされる姿に、禅一の決心は揺らぎまくる。

「くどい!最低限必要な予防接種を冬休み中に終わらせねぇと、保育園にも預けられないぜ。それにもう病院側には連絡して、予約取ってるんだからな」

しかし譲は全くブレない。

「わぁ〜!」

膝にのせて、お下がりの靴を履かせると、アーシャは嬉しそうに目を輝かせる。

これがただのお散歩だったなら、禅一もそんな様子を微笑ましく見守れたのに、今は心が痛むばかりである。


「禅……何で桃色のワンピースに、男児用の運動靴を合わせんだよ……」

新品の靴より、お下がりの方が足が痛くならなそうだったし、一番着脱が簡単そうだったので選んだのだが、どうやら譲の美感には、かなりそぐわない組み合わせだったようだ。

渋い顔をされるが、靴を履いたアーシャは嬉しそうに、ぴょんぴょんと弾んでいるので、今更靴を替えるとは言い難い。

「いや、ほら、喜んでるし!」

譲は苦虫を噛み潰したような顔だ。

同じ環境で育ったとは思えない程、譲は着る物にこだわる。

今にも新品の赤い靴に履き替えさせろと言いそうだ。

「じゃあ、行こうか!」

禅一は誤魔化すように元気よく玄関を開ける。

譲は不機嫌そうな顔でついてくる。

次からは譲に相談してコーディネートした方が良いかもしれない。


「………ほぁ〜〜」

玄関を開けたら、元気よくアーシャが駆け出す―――かと思いきや、玄関を出て三歩くらいで立ち止まり、キョロキョロと周りを見てから、動かなくなってしまった。

寝ている間に、こちらに連れてきたので、見覚えのない景色に戸惑っているのかもしれない。

(……その割にしげしげと電線を眺めてるような気がするが……)

禅一は首を傾げる。


「ほら、さっさと行くぞ」

玄関先で止まっていたら、『時間稼ぎをすんなよ』とばかりに譲が睨んでくる。

弟がさっさと愛車の運転席に乗り込むのを見て、禅一は小さくため息を零す。

空の次は地面を見て、何やらやっていたアーシャだったが、今はぼんやり周りの家を見ているようだ。

「アーシャ」

周りの観察も必要だと思うが、今日の予定は詰まっている。

譲が開院時間と共に、電話をかけまくって予約を入れてくれているので、急がないといけない。


観察を中断させるのは申し訳ないが、抱き上げて車まで運ぼうとすると、アーシャはペタンと禅一にくっついてくる。

(………麻呂………!!)

安心して体を預けてくれる様子に、あの日、『注射から逃してくれるの!?』とばかりに尻尾を振った犬を思い出してしまう。

輝かんばかりの感謝の表情が、狂犬病予防接種会場に向かっているとわかった時、絶望の表情に一転した。

あの時は『絶対に必要な事なんだからわかってくれる』と勝手に思い込んでいたが、それはこちらの勝手な希望的予測に過ぎなかった。

そもそも相手に、そこまでの理解を求めてはいけなかったのだ。

因みに麻呂は、犬の特徴的な眉毛を見て、禅一が勝手につけていた名前で、本当の名前はマロンちゃんだった。

語感が近いから飼い主にはバレていなかった。


この信頼が心に痛い。

病院は体のメンテナンスで、絶対に必要な事なのだと悟るには長い時間が必要だ。

そもそも今でも禅一は病院か得意ではなく、避けられるなら避けたいと思っている。

そんな場所なのだ。

信頼を打ち砕くのには十分だろう。

彼女の衝撃を思うと可哀想でならない。

果たして、この子の精神は大丈夫なのだろうかと、憂鬱になる。


車を開けようとすると、ギュッとアーシャがしがみついてくる。

見上げる彼女の顔は不安そうだ。

(いかんいかん。俺の不安が移ってしまう)

病院に行くことは決定しているので、禅一がすべき事は、精一杯アーシャの不安を取り除くことだ。

禅一は意図的に明るい顔をして、彼女の背中を柔らかく叩く。

「一緒にいるからな」

言葉は通じないが、声をかけるのとかけないのでは大きな違いがあるだろう。

そう思いながら、禅一はアーシャをチャイルドシートに固定する。


チャイルドシートは譲が買ってきた中古品だが、メーカー品らしく、ガッチリとした安心感がある。

「……ゼン」

しかしアーシャは心細そうに禅一を呼ぶ。

自由な子供にとっては、四点ベルトで体をしっかり固定されるのは、不安な事なのかもしれない。

「ちょっと待っててな」

そう言って、禅一は急いで車の反対側に向かう。

「ゼン!!」

車を閉めた瞬間に、アーシャの不安が詰まった声がしたので、全速力だ。


反対側のドアから車に滑り込み、素早くアーシャの手を握る。

子供が不安がる時は、接触面積を増やせ。

『若奥の会』の、ありがたい助言だ。

「一緒にいるからな」

存在をアピールすると、泣きそうだったアーシャの顔が、安堵に緩む。


「ったく……んじゃいくぞ」

『何を大袈裟な』とルームミラーに映った譲の顔が言っている。

「ひっ!!」

車のエンジンがかかると、アーシャが息を呑む。

アーシャの手を握っていた禅一の手が、強く握り返される。

(何か……車にトラウマでもあるのか………?)

ハァハァと呼吸音がこちらに聞こえるほど激しいし、小さな手にじっとりと汗が滲んでいる。

もしかしたら捨てられた時に最後に乗せられた車に悪印象が残っているのかもしれない。


「譲、出来るだけ優しく運転してやってくれ。調子が悪そうだ」

「あぁ?俺はいつでも優良ドライバーのかがみみたいな運転だろうがよ」

出来るだけ刺激を減らしてやりたくてそう言うが、運転に美学を持っている譲には、あまり通じない。

彼の美学では加速・減速で感じる適度なGこそが、快適なドライブに繋がるとの事なのだが、運転に興味のない、一応免許を持っている程度の禅一にはちょっと理解しがたい。



アパート前の道は恐ろしく狭いが、譲は危なげなく運転する。

そして昔ながらの小道を抜けて、整備された大通りに出ようとした時。

「えっえっえっえっ」

少しずつ緊張が緩んできていたアーシャの手に、再び力が入る。

チャイルドシートから出ている足も、突っ張るようにピンと伸びている。

「わ、わ、わいぬぅに、わいぬぅにっ、わいぬぅにややっ、わいぬうにっ」

そして何か泣きそうな声を上げる。


「アーシャ、大丈夫、大丈夫」

禅一は彼女を落ち着かせようとするが、一体彼女が何に怯えているのかがわからない。

ただ、彼女の手を握ることしかできない。

アーシャは両手両足で禅一の手を抱き込むようにして、身を固くしている。

その姿はさながら『くくり猿』のようだ。


車は合流のために、エンジンの回転数を上げる。

譲は思い切り良く加速するので、この音が怖いのかも知れない。

「おい、合流はもっと滑らかにやってくれよ」

苦情を言いながら、禅一はシートベルトを外し、普段は使わない後部座席中央用のシートベルトを、チャイルドシートの上方から引っ張り出す。

「はぁ〜?十分滑らかだろ?」

運転にうるさい譲は、注文をつけられて不満そうだが、いつものような急激な加速を控えてくれる。


チャイルドシートのすぐ隣に移動した禅一は、くくり猿のように右手にくっ付いて固まっているアーシャに、左手も伸ばす。

『子供が不安がる時は、接地面積を増やせ』だ。

有難い助言に従い、チャイルドシートごと抱き込むように、左腕をアーシャに添わせる。

「アーシャ、大丈夫か?」

視点が定まらない、パニック状態が見てとれるアーシャの意識を、こちらに引き寄せるように、禅一は声をかける。


顔色を無くしたアーシャの焦点が、禅一の上で合う。

「大丈夫。万が一事故っても俺がいるからな。怖いことなんか起こらないぞ」

出来るだけ穏やかに、不安を感じさせないように語りかけると、アーシャの目にジワジワと涙が溜まる。

「俺が事故なんて起こすわけねぇだろ!」

譲が不満そうにつっこんでくるが、そこは黙殺する。

今はアーシャのケアが最優先なのだ。


「………じぇん………」

アーシャがそう言うと同時に、プピッと鼻水が飛び出す。

深刻そうな本人と、元気に顔を出した鼻水のギャップが凄くて、思わず吹き出しそうになってしまったが、頭を撫でて誤魔化す。

彼女の名誉のため、何でもない顔をしたまま、鼻水と溢れ出した涙を拭う。

すると今度は添わせた左腕に、アーシャはしがみつく。

まるで命綱にでも掴まるような様子のアーシャが可笑しくて、禅一は笑う。

本人は、かなり必死な様子だが、木から落ちかけたコアラのようだ。

「怖いならこうしておこうな」

これから病院で、更に怖い目に合わせるのだが……と、あまりにも自分を信頼しているアーシャに申し訳なさを感じる。

もちろん素直に信頼されているのは嬉しい。


しかし禅一の余裕もそこまでだった。

「アーシャ?」

だっこちゃん人形の如く腕に巻き付いていたアーシャから、急に力が抜ける。

あれ?と思って確認したらアーシャは目を瞑って、眠っているようだ。

「…………!!譲!!アーシャが突然眠ったぞ!!」

幼児は突然寝るものだと説明されたが、これは不自然だと自信を持って言い切れる。

「あぁ?息はしてんのか?」

「してる!」

「脈は?」

「ある!」

焦る禅一とは対照的に譲は冷静である。

「じゃ、様子見とけ。すぐに小児科に着くから」

「ナルコレプシーとかじゃないか!?昨日も一昨日も飯時以外はずっと眠っていたし!!」

アワアワと焦る兄に、ルームミラーを介して、譲は冷たい眼差しを向ける。


「あのなぁ……禅だって一昨日は疲れてヨボヨボしてただろ。そんなガリガリのチビなんだから、まだまだ疲れが残ってんだよ」

「でもこんなに唐突に寝るか!?」

「ん〜〜、まぁ、何かビビってたみたいだから、迷走神経反射じゃないとも言い切れねぇけど」

「迷走神経反射!?」

一々大袈裟に反応してしまう禅一に、譲は面倒臭そうだ。

「禅には一生縁のない反応だよ。よく注射打って倒れる奴とかいるだろ?緊張したりストレス感じたりして血圧下がるんだと。まぁ、とにかく診察を受ければ良いだろ」

カチッカチッとウインカーを鳴らして、譲は小児科の駐車場に入る。




数分後、取るもの取らずに、アーシャだけを担いで走っていこうとして、怒られる禅一の姿がそこにはあった。













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