2.幼児、元気に復活する
それ程栄えているわけではないが、生活に必要な店は最低限揃っており、交通量がそんなに多いわけでもないのに、主要道路は綺麗に整備されている。
そんな地方都市の一角に、学生向けの小さなアパートがある。
昭和の匂いを漂わせる、年季の入った外観の割に内部はメゾネットになっており、二階建てなのに外階段は一切ない、少し珍しい建物だ。
『メゾン梶A』、『メゾン梶B』と書かれた、名前だけが違う、同じ形の建物が、小さな駐車場を挟んで、二つ建っている。
主な住人は徒歩圏内にある大学の生徒で、多くの学生がそうであるように、夜型人間が多く、早朝は人影すらない。
アパートに繋がる道も、主要道路から一本入った、昔ながらの入り組んだ道なので、この辺りの住人以外入ってくることがなく、静かだ。
そんな人通りのない駐車場である事を良い事に、そこで組手をする二人組がいる。
「だ、か、ら、今日はあのガキが眠ってようと何しようと病院に行って、抗体検査するんだよ!!」
「しかし、まだ本調子でもないあの子から問答無用で血液を採取するのは……」
パシンパシンとお互いに繰り出す拳を捌き合いながら、二人は何やら言い合いをしている。
「本調子じゃないなら、尚更好都合じゃねぇか。寝てる間に済ましちまえば、注射でギャーギャー泣かれることもないし、ついでに診察も頼める」
「しかし昨日も一昨日も起きては寝てで、一回に食べるのがたった小皿一杯なんだ!きっと体力も落ちているはずだ。そんな状態で血なんか抜いたら倒れかねない!」
「そこん所も医者に診せれば良いだろうが!!あと、小皿とか言ってるけどあれは幼児用の茶碗だ!ガッツリ食ってる!このまま放置してたら、飯時だけ起きては粥を啜る妖怪になるぞ!」
二つの影は、元気に言い合いをしているが、どちらも手や足を動かし続けている。
口喧嘩をしながら、拳やら蹴りを繰り出していたら、喧嘩に間違われても仕方なさそうだが、お互いにお互いの攻撃を、あまりに華麗に捌いていているため、それらしい緊迫感がない。
それ故、早朝散歩を嗜む、ご近所のご年配マダムたちの目に入っても『まぁ、今日も元気ね』くらいの視線を向けられて終わりである。
禁域の再封印が終わったその足で、アーシャと禅一は、譲に車に詰め込まれて帰ってきた。
最初に拾った時のように、殆ど呼吸音がしない、ぐったりとしたアーシャを動かすのは嫌だと、禅一は言ったのだが、
「この混乱に乗じない手はねぇんだよ!このチャイルドシートはリクライニング式だ!寝たまま移動できる!ヨボヨボしてねぇでとっとと乗れ!!」
と一喝されて、連れ帰られた次第だ。
そして完全にアーシャという手札を手元に置いた譲は、一人村に戻り、超絶強気に交渉をしてきてしまった。
禅一と宗主の取り決めで、アーシャの能力は秘匿されたが、実際に目撃した十人近くの『封じ役』たちや、最上、そして宗主の妻である義母は、その力を知るところとなった。
特に最上はアーシャを『御使い様』と呼び、神格化する勢いで、完全に敬っているということだ。
そのため、最上はアーシャを村で育てる事を強く主張していたらしいが、
禅一から引き離された時の、アーシャの荒ぶりようを沢山の人間に証言させた事も、決定打となったそうだ。
渋々ではあるが、一応、全会一致で禅一の養育を認めさせ、次は金銭面や公的な対応をする為の、全面的なバックアップまで、譲は取り付けてきた。
アーシャにかかる医療費を始めとした養育費、教育費その他は、全て本家に負担させる事。
そして自分達の代理人として、弁護士の手配をして、役所や警察署などへの手続きをさせる事。
「十代の若造が手続に行ったら、通る話も通らなくなるだろ」
との事らしい。
場当たり的な対応しかできない禅一としては、弟に頭が上がらない。
譲のおかげで、安心して新しい生活が始められた。
ただ、交渉に出向いた足で、三十万をせしめて帰ってきた譲に、あまり借りを作りすぎるとアーシャが村に縛られてしまうのでは、と、禅一は危惧したのだが、
「あのな、この金を貰ったからナニをするなんて契約書の一枚も書いてないわけ。これは本家の奴らの『善意の寄付』な。寄付に見返りなんかいらねぇし、要求もできないの。生活保護を受けながらベンツを乗り回すくらいになれとは言わねぇけど、もっと図太くなれよ」
と、鼻で笑われてしまった。
「あ、あと、再封印は契約外労働という事で、こっちは七桁吐き出させてきたから、通帳確認しとけよ」
との事で、アーシャの保護者としては、禅一より譲の方が数倍頼り甲斐がある。
そんな、しっかりとした譲との、今の揉め事は、アーシャの医療関係だ。
まずはゆっくりと体力と心を回復させてやりたい禅一と、即時メンテナンスを進めたい譲の討論は、平行線だ。
虐待を受けている子は往々にして、予防接種など、必要な医療を受けていない事が多い。
よってさっさと小児科に連行して、検査をしてもらうべしとの譲の主張は
しかし村から帰ってきての二日間、食べて、寝てを繰り返し、殆ど覚醒していないアーシャを病院に連れていく事を、禅一は渋る。
「………お前さ、源のジジィの犬を注射に連れて行ってから、近づいたら服従のポーズしかしてもらえなくなったの、まだ気にしてるんだろ」
そんな禅一にボソリと譲が呟き、ギクッと禅一の肩は跳ねる。
ご近所に大型犬を飼っている家があり、その犬は数少ない、禅一に尻尾を振ってくれる犬だったのだ。
通りかかるたびに声をかけて癒されていた禅一だったが、狂犬病予防接種に連れて行こうとするも、抵抗されて困っていた飼い主に『手伝いますよ』と声をかけたのが、運の尽きだった。
大型犬であり、注射を嫌がっていることもあり、バタバタと抵抗されそうだったので、多少力はこもっていたが、痛みを感じる程きつく抱っこしたつもりはなかった。
禅一としては、優しく抱っこして、連れて行ってあげたつもりだった。
可愛い重量級モフモフを、飼い主公認で抱っこできて至福の一時だった。
しかし犬側視点で見ると、痛い事をされる場所に強制連行する、どんなに暴れても完全無力化する極悪人との、恐怖のランデブーだったらしい。
悲しい事に、今では禅一の姿を見るだけで、腹を見せる服従のポーズしかしなくなってしまった。
「もうちょっと……こう、信頼関係を確立させてから……酷い事をするんじゃなくて、必要だからやったんだとわかるようになった方が……」
「言葉が通じねぇ幼児に、注射が必要な事だってわからせるなんて、何年がかりのプロジェクトだよ。そんなにのんびりしてたら病原菌に先を越されるわ」
モゴモゴと言い訳をする禅一に、譲は冷たい視線を送る。
「信頼できる人間が殆どいない、今のあの子に『裏切られた』と思わせたくないんだ。拠り所がなくなるなんて可哀想だろう?せめて譲との信頼関係を作って、逃げ込める場所を作ってやって……」
「悪いけど、俺はあのガキと信頼関係なんて構築する気はねぇからな」
譲はあっさりと禅一の言葉を遮る。
「え……でも妹だぞ?」
「勝手に親戚増やしてんじゃねぇ!!」
びっくりした顔の禅一の尻を譲は蹴り飛ばす。
避け損なった禅一がたたらを踏み、二人の組手は中断する。
「……あのな、ここではっきり言っとくけど、俺はガキが嫌いなんだよ。うるせぇし、空気読めねぇし、汚ねぇし。俺はあのガキを迎え入れたわけじゃねぇ。禅の生存率、ひいては俺の生存率を上げる、便利なイキモノを保護してるだけなんだ。あのゴミ袋の妖精みたいなガキは、見るからに予防接種なんか受けてねぇ。無防備な状態で病気をもらって死んだら、俺が困るんだ。だから可能な限り急いで処置を進めていく。ガキのメンタル面なんか、俺には関係ねぇんだよ」
譲は突き放す。
「………でもアーシャは大人しいし、言葉が通じないなりにこちらの意思を汲み取ってくれるし、綺麗に洗ったから汚くないぞ?」
が、禅一は呑気な顔で訂正する。
「〜〜〜っ!!!前半にだけ反応してんじゃねぇ!!俺はもっと重要な事を後半に言ったつもりだぞ!!」
譲はもう一度蹴りを繰り出すが、今度は余裕を持ってかわす。
そしてこれで終わりとばかりに手を振って見せる。
禅一は玄関先に置いていたタオルを手に取り、一枚を弟に投げる。
「譲の言う事も分かってはいるんだ。メンタルに気を使いすぎて、感染症に対応しない方が、あの子の為にならない。でもほんの少し、せめてあの子がしっかり目覚めて、ここが安心な場所だって認識出来るまで待ってくれないか?」
憮然とした顔で譲はタオルを受け取る。
「病院は俺が連れて行く。俺はあのガキに好かれたいなんて思ってねぇし。悪役は俺、お前が慰め役。これなら問題はねぇだろ?」
譲はこれで文句はないだろうと言う顔をするが、禅一は即時、首を振る。
「駄目だ。初めての病院で心細い思いをするかも知れない。慣れてる俺がいた方が絶対にアーシャに良い」
意固地な禅一に、譲は深々とため息を吐く。
「俺にはあのガキがそんな繊細なタイプには見えねぇよ」
そのまま脱力した様子で、玄関を開けて部屋に入って行く。
「あの体を見ただろう?完全なる栄養失調だ。歯も手入れしてもらっていないし、最初は垢だらけで、風呂に入れてもらった様子もなかったんだぞ?そんな放置されていた子が、新しい環境を不安に思わないわけがないだろう?きっと色々な刺激で傷つき易くなっている筈だ」
譲の後を追いすがりながら、禅一は力説する。
「そんな細やかなタチかよ。お前はあのガキの荒ぶりようを見てないから、そんな事が………………?」
言い返しながら、二階から聞こえる異音に気がついた譲が、上を見上げる。
一階は風呂トイレ台所の共用部で、二階は各自の部屋がある。
アーシャが寝かされているのも二階だ。
その二階からシャーシャーとキャスターが動く音と、トンットンッと定期的に何かを叩くような音がする。
「……………」
「……………」
禅一は譲と顔を見合わせてから、急いで階段を登る。
誰かが入ってきているなら、事だ。
階段の上と下に、譲が取り付けてくれていた『ベビーゲート』という柵を開ける時間も煩わしい。
それらを飛び越え、大慌てで、禅一は部屋のドアを押し開ける。
そして素早く部屋内部を確認すると―――。
「アーシャ!?」
ベッドとパソコンをのせた机くらいしか物のない、禅一の部屋の中心で、高速回転している異物……、否、幼児がいた。
上半身だけをキャスター付きの椅子の上に乗せ、グルングルと、大変楽しそうに、幼児が回転している。
「ほえっっあっ………ほえぇぇぇぇ!!!」
アーシャは、禅一の声にビクンと振り向き、そのせいで椅子を握っていた手を離してしまう。
「っっ!!」
アーシャはそのまま自身が作り出した遠心力で、後ろに吹っ飛んで行く。
飛んだ先は角張った机だ。
禅一は床を蹴り、吹っ飛ぶアーシャをダイビングキャッチする。
勢いがついていた割に、受け止めた衝撃は小さかった。
吹っ飛んだアーシャ自体の質量が小さかったからだろう。
「あてっ」
とは言え、受け止めた反動で、禅一は後ろの机で頭を打つ。
「ゼン!!」
そんな禅一にアーシャは顔を歪める。
「大丈夫、大丈夫」
オロオロとするアーシャに禅一は笑ってみせる。
「みむぅいんにぃ……」
彼女は申し訳なさそうに、禅一が打った所を撫でる。
小さな手が触れるだけで、痛みがなくなるような気がするから、不思議なものだ。
「心配いらないぞ。俺は頑丈だからな」
「……みぃぬまみぃしゅあん」
笑ってみせる禅一に、少しホッとしながらも、まだすまなそうな様子のアーシャ。
二人の間には、ほのぼのとした空気が流れ始めていたが、
「うん。病院確定」
ポンっと禅一の肩を叩いて、譲が空気をぶった斬った。
「えっっ!!」
驚いて禅一が見上げると、冷たい無感動な目が彼を見下ろしていた。
「『えっ』じゃねえよ。新しい環境に不安?色々な刺激で傷つき易くなっている?そんなガキが椅子で高速回転してるわけがねぇだろうが」
「あ、いや、でも、不安に思いつつも、つい、と言うことが……」
「ねぇよ!!」
自分でも苦しいなと思った主張は無事却下された。
「で、でも、今、起きたばっかりで……」
「起きたばっかりで高速回転出来るんだから、元気だろ」
それでも何とか弁解しようとしたが、もう譲の言葉に頷くことしかできない。
「このクソ元気良さだったら、すぐに外にも出たがるだろ。お前も公園やら児童施設やら、病原菌の宝庫に連れて行ってやりたいよな?」
弟の圧が凄い。
「………はい」
兄なのに無力に頷く事しかできない。
「歯医者も!行くからな!?」
「え、歯医者は敷居が高いから、もう少し後でも……」
「今こうしてる瞬間にも乳歯の虫歯が永久歯に乗り移ってるかも知れねぇぞ?」
「………はい」
もうちょっと猶予をあげて欲しかった。
出来れば、もうちょっと体に身がつくくらいの。
「ゼン」
禅一がガックリ項垂れていると、アーシャがその頭をせっせと撫でてくれる。
そして何か思いついた顔で、彼女は懐に手を突っ込む。
ゴソゴソと何かを探している様子だ。
「っっ!?」
だが、お目当ての物がなかったらしく、更に激しく身体中をチェックし始める。
「あぁ、これか?」
禅一は彼女が探している物に覚えがあった。
こちらに帰ってきて、着替えをさせた時に、彼女の服から転がり出てきた、棒付きの飴だ。
「あー!うぃんにゅ〜〜〜!!」
机の上に置いていた、それを取って渡すと、彼女は嬉しそうにそれに頬擦りをする。
(飴が好きなんだな)
そんな様子を微笑ましく見ていると、
「ふぃ、ゆにぅみぃゆ!」
元気に、それを鼻の先に突きつけられる。
「ん?開けて欲しいのか?」
受け取って、フィルムを剥がして返そうとすると、ブンブンと勢い良く首が振られる。
そしてグイグイと飴を持った手を、自分に押し付けられ、禅一は戸惑う。
「禅に貢物してんだろ」
疑問符だらけで首を傾げていたら、譲が冷静にツッコむ。
「え?俺に?」
禅一が自分を指差すと、アーシャは何度も頷く。
キラキラと緑の目が輝いていて、「嬉しい?嬉しい?」と、その表情が語っている。
多分『若奥の会』の二人にもらったであろう貴重な飴を、禅一に渡してくるなんて。
キラキラと禅一を見ながらも、時々視線は飴を捉え、じゅるっと涎が出ているのに、禅一に渡してくるなんて。
(良い子過ぎる………!!!)
禅一は感動のあまり、アーシャを抱き締める。
(この子の信頼を裏切らなくてはいけないとは……!!)
感動と同時に、胸が詰まる。
貢物をする程信頼した相手に、採血に連れていかれ、歯医者に連れていかれる。
可哀想過ぎる。
「禅、コイツは絶対平気だ。病院終わりに菓子でも買ってやったら100%忘れる。俺が保証する」
そんな禅一に譲が冷静なツッコミを入れる。
「あのなぁ、子供の繊細な心が―――」
あまりの言いように、禅一は少し腹を立てながら反論しようとしたが、譲は冷静な顔のまま、スッとアーシャを指差す。
「……………………」
彼女の口から涎が溢れている。
嬉しそうに禅一を見ながらも、チラチラと視線が飴に流れている。
「……………半分こにしような」
何も言い返せなくて、禅一は平べったい棒付き飴を指で挟んで二つに折った。
不均等に割れた、上の四半分を口に入れ、棒のついた方をアーシャに渡す。
「?」
不思議そうに禅一を見上げるアーシャに、彼は自分の舌の上にのった飴を示す。
そして残りは君の、とでも言うように飴とアーシャを交互に指差す。
「は・ん・ぶ・ん・こ」
そう言うと、パァァっとアーシャの顔が輝く。
大きく口を開けて、飴をひと舐め……しようとして、アーシャは止まる。
彼女の視線の先には譲がいる。
そして彼女は手の中の飴を、ギュッギュッと両手で持って割ろうと試みる。
「譲、お前にもお裾分けが来るみたいだぞ。良かったな」
何だかんだ言いながら、弟とアーシャも
「ガキの手垢のついた飴なんかいらねぇよ!!」
嬉しくなった禅一だったが、譲はアーシャの手から飴を奪ったかと思ったら、彼女の口に突っ込み、踵を返す。
「………美味しいのになぁ」
「ゆずぅ、みぅみにぃやらはぁ」
取り残された禅一とアーシャは顔見合わせて笑い合う。
「うるせぇぞ、間抜け親子!禅、チビの着替えと身の回りの支度済ませて降りてこい!さっさと病院に行くからな!!」
刑の執行を告げ、譲はドカドカと音を立てて階段を降りていく。
「うぃにぃあぅにぃね」
満足そうな顔で、飴を舐めるアーシャの頭を、禅一は優しく撫でる。
「………ごめんな」
撫でられて嬉しそうに笑った彼女に、謝罪の言葉が禅一の口から転がり落ちた。
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