2.聖女、神の技術に驚嘆す
1.聖女、回る
ブーン、ブーンと不定期に、音が聞こえる。
風にしては低く、遅く、明確な方向を感じる、妙な音だ。
何度も眠りが浅くなって、少しの間目覚め、
「…………ぜん…………」
黒髪が見当たらないので、心細くてアーシャは声を出してみるが、返事はない。
何度目覚めた時も、彼はいつでも近くにいてくれた。
しかし今回に限って、彼は不在なようだ。
アーシャはモゴモゴと体を起こす。
「あれ………?」
すると見えている景色が違う事に気がついた。
あの草を編んだ敷物の部屋ではない。
寝具も直接床に敷かれていない。
床は綺麗に平らにされた板張りで、アーシャが寝ていたのは、職人の手によると思われる素晴らしい木製のフレームのベッドだ。
「…………?」
妙に視点が高いなと思って、寝床を確認すると、木製フレームの上に、やたらと高さのある、大きな箱のような形の物が敷いてある。
「ふふっ」
その箱はとても柔らかいのだが、動くと反動が返ってくる。
試しに小さく跳ねてみると、べヨンべヨンとベッドの上で体が弾む。
「ふっふふっ、あはは!」
藁でもなければ、綿でも、羊毛でもあり得ない反動に、愉快になってしまって、アーシャはポンポンと飛び跳ねてしまう。
何処ぞの商人が、馬の毛を詰めた寝具を作り、王に献上したと聞いた事があるが、神の寝具は馬の毛より更にエキサイティングだ。
最初は四つん這いで、軽く弾む程度だったのが、面白くなってしまって、アーシャは立ち上がってピョンピョンと弾んでしまう。
宙に押し上げられるような感覚がたまらない。
「あはははっふふっふふふふっ」
童心にかえり、しばし夢中で跳ねていたが、ふと、光の漏れるカーテンに気がついた。
(……紙じゃない……)
神は紙が大好き。
そんな固定概念が定着しつつあったので、アーシャは驚きを隠せない。
ゴブリンの頼りない足に気を遣って、高いベッドから後ろ向きに、腹這いでおりて、アーシャは窓に近づく。
(………届かない………)
カーテンの向こうを見ようと手を伸ばしたが、ゴブリンサイズでは手が届かない。
「ん〜」
何か良い足台はないかと周りを見渡せば、丁度良い所に椅子がある。
これは良いと手を伸ばしかけて、アーシャは止まる。
(椅子……よね?)
椅子と認識は出来るのだが、珍妙な椅子だ。
上の部分は布張りで、肘置きまで付いていて、豪華だが、普通の形だ。
背面を
それより問題はその脚だ。
腰掛け部分から生えているのは、たった一本の脚なのだ。
そして、そのたった一本の脚の下に、五本の支えが放射状に生えている。
まるで一輪の薔薇を支える茎と根っこだ。
(なんて愛らしい造形なの!!素晴らしいわ!!)
アーシャは感動してしまう。
「え!?」
そっと椅子に触れると、腰掛けの部分がいとも容易く動いてしまう。
一瞬、壊してしまったかと驚いたが、座面がこちらを向いただけで、崩壊するとかはない。
「!!!!!」
もう一度勇気を出して、もう少し強めに触れてみると、なんと座面がくるりと回転するではないか。
「え!?えぇぇぇぇ!?」
壊れかけているとか、そう言う動きではない。
この椅子は回るのが当然と言う顔で、座面を回すのだ。
びっくりして、椅子の座面を下から覗き込んでみると、複雑な形で噛み合った金属の間に、いくつもの球体が入っているのだ。
座面を押すと、接合部に入った球体がコロコロと動き、座面が回る。
(凄い………なんて事なの!!凄く正確な球体を作って、座面を回せるように作ってあるのだわ!!)
金属をこんなに精巧に加工できるなんて、アーシャは知らなかった。
(薔薇の蕾のように可憐な姿で、座面が回るなんて………可愛い上に使い易い!!これは椅子に革命が起きるわ!!!)
感動も興奮でアーシャの心は燃え上がる。
更に座面を回しながら観察しようと、支柱に手を当てた時だった。
「なっ!!!???」
何とコロコロっと椅子が逃げて行ったのだ。
「椅子に意志が……あるわけない!!」
一瞬悪魔つきなどと言う恐ろしい考えも過ぎったが、そんな自分にツッコミを入れながら、アーシャは床に頬をくっつけて、椅子の足を確認した。
(こちらも球体が!!!)
椅子の根っこ部分は
なので小さな力で、コロコロと椅子を動かす事ができるのだ。
「すっごい!!!」
こんな素晴らしい物に感動しないわけがない。
座面が回ると言うことは、立ち上がらなくても後ろにあるものを取ったりできるし、小さな力で椅子を移動させられると言うことは、座ったまま移動ができてしまうと言うことではないか。
フォルムも素敵なのに、素晴らしい機能つき。
神の世界は誠に恐ろしい。
(あ………でもゼンは神じゃないってあの人が言っていたわ)
目覚める前に見た夢をアーシャは思い出す。
あれがただの夢ではないと、自信を持って断言できないが、普段見る夢とは明らかに異質だった。
神と言うには神気がなく、魔物と言うには邪気がない。
そんな人ならざる者は、ゼンは神ではなく、神の血を引く者だと言っていた。
(神様が子供を作るって話は聞いた事がないけど、その血を引いているなら、結局は神様って事じゃないのかしら?神様スキル付きの人?神人?)
アーシャはそんなくだらない事を考えながら、よいしょよいしょと、素敵な椅子の座り心地を確認するべく、座面に這い上がる。
いや、這い上がろうとするのだが、貧弱なゴブリンの腕力では体を持ち上げられない上に、座面がぐるぐると回転して上手く登れない。
結果、胸から上だけ座面に乗って、それ以外はグルングルンと振り回されるという状態になってしまう。
「ふひっ、ふふふ、ふひひっ」
しかし
つま先で床を蹴れば、座面は回り、体が振り回される。
この遠心力で体が浮く感覚が堪らない。
その内、床を蹴るより、椅子の足の方が蹴り易く、高速回転になる事に気が付き、調子に乗って、どんどんスピードを増していく。
これは困ったことになった。
楽しくて止め時がわからない。
「アーシャ!?」
そんな中、突然部屋のドアが開いた。
「ほえっっあっ………ほえぇぇぇぇ!!!」
驚いてそちらを見た瞬間、貧弱なゴブリンアームから力が抜け、アーシャは自分が作り出した遠心力によって吹っ飛ぶ。
「…………っっ」
アーシャは咄嗟に丸くなって、衝撃に備える。
しかしアーシャの体には思ったような衝撃はこなかった。
バスンと彼女を受け止めたのは、部屋に走り込んで来たゼンだった。
「あてっ」
彼はアーシャを受け止めた衝撃で、後ろの机に頭をぶつけた様子だ。
「ゼン!!」
アーシャは彼の腕の中で叫ぶ。
「責了ぶ、責了ぶ」
しかし彼は頭の後ろを軽く撫でただけで、笑ってみせる。
「ごめんなさい……」
そう言いながらアーシャは、彼から絶えず湧き出る神気を集めて、患部に注ぎ込む。
彼ほど豊潤な神気の持ち主なら、自動回復もできるだろうから、完全にお節介だろうが、今のアーシャにできる謝罪はそれくらいしかない。
(……あれ?いつもならこれぐらい注ぎ込んだら、綺麗に治るのに)
しかし手の先に感じる、軽く鬱血している気配が中々消せない。
これくらいで治るだろうと思った量の二倍ほどを注ぎ続けて、ようやく患部が正常化したのを感じ取れる。
(力が弱まっている?)
ゴブリンだから仕方ないかもしれないが、アーシャの取り柄は、この能力しかないので、不安になってしまう。
「薮蕎い蜜杓い卜。襟霜諺建椅か縞な」
そんなアーシャの背中をポンポンと慰めるように、ゼンが叩く。
「……ありがとうございましゅ」
暖かい手が、彼がきちんと生きていることを知らせてくれて、アーシャはホッと息を吐く。
聖女の能力は薄くなってしまったのかもしれないが、彼を守ることはできたのだ。
椅子から吹っ飛んで、早速迷惑をかけているが、これからも彼を全力で守って挽回していきたい。
「百帖。鎌茂提慨」
アーシャが決意を新たにしていたら、ゼンの後ろから、ユズルが現れた。
「えっっ!!」
何を言われたのかわからないが、ゼンは驚いた声を上げて、ユズルを振り返る。
「萱働崎酎練捺屯。禄住蝦弔合董糟竜?派渋計兜塞位宍評罰寓傍砿嗣被塊誇?俣濯召剃産玲喫血懲敦斤梯預僚眺染掛順憤鏡蚊園追牲幽牧采危」
「あ、いや、静窮、跳撞備挽皐つつ飯、送待、辞蒸竣雀執讃……」
アーシャは何か話している二人を見ながら、首を傾げる。
相変わらず神の言葉は全然わからないが、何やらゼンがユズルに怒られているような気がする。
タジタジとユズルの言葉に何とか反論しているゼンを見て、アーシャは首を傾げる。
(ゼンとユズルはどんな関係なのかしら……?)
上下関係ではないような気がする。
神気がそっくりなので、兄弟なのだろうかと思うが、顔は全く似ていない。
(もしかして神の世界では兄弟だから顔が似るとか、そう言うのはないのかしら……?)
夢で見た『神の血を引く』なども含め、この世界はわからないことが多い。
さっきから建物の外から聞こえてくる、ブーンブーンという音や、様子の変わった部屋も、わかることの方が少ない。
でもそれほど大きな不安を感じていないのは、この温かい手のおかげだ。
アーシャにいつも優しいゼンはというと、何やら、ユズルに言い負かされてしまったようで、完全に項垂れてしまっている。
「ゼン」
アーシャはそんなゼンを慰めようと、せっせと手を伸ばして、彼がしてくれるように、頭を撫でるが、ゼンはガックリとしたままだ。
ゼンの頭を撫でるにも、ゴブリンの手ではどうにも小さい。
(あ!)
どうやって彼を元気づけようと考えていたら、良いことを思い出した。
(あの甘い硝子があったわ!)
あれを食べたら、ゼンもきっと笑顔になるはずだ。
「っっ!?」
早速懐に手を突っ込んで……アーシャは止まる。
無くさないように、しっかりと胸に突っ込んでいたはずのあの硝子がない。
まさか、あの原初の神殿で倒れた時に、落としてしまったのだろうか。
折角心優しい神の国の少女がくれた、貴重な甘物だったのに、アーシャは泣きたい気分で、捜索範囲を体全体に広げる。
焦りすぎている彼女は、自分が着ている服が、倒れた時と別のものになっていることに気がつかない。
どこを触ってもカサリとすら言わない。
「あぁ、柿肥革?」
ショックで崩れ落ちそうなアーシャを抱き上げて、ゼンが立ち上がる。
そして机の上から何か取って、アーシャに渡してくれる。
「あー!これでしゅ〜〜〜!!」
それはまごう事なき、エメラルドの如き輝きを持つ、甘い硝子だ。
硝子についた白い棒を握りしめ、アーシャは頬擦りしてしまう。
お世話になっているゼンへの最高のプレゼント。
無くしてしまったかと思っただけに、これを彼に渡せることが嬉しい。
「あの、贈り物でしゅ!」
花束を渡すように、アーシャは両手でエメラルド色の硝子をゼンに捧げる。
「ん?饗蝕呉嶋婆い娩か?」
ゼンはニコニコとそれを受け取って、外側の袋を剥がして、中身をアーシャに返そうとしてくれる。
違う。
外側のその薄い硝子は食べられない。
アーシャは中の美味しい硝子を、ゼンにあげたいのだ。
これをくれた少女たちがしたように、口に入れてゼンの物なのだと示したいのだが、太さが五倍くらい違うゼンの腕を上手く押せない。
「ゼン条鷲酔博亙蛭釈乱」
それを側から見ていたユズルが、何かゼンに伝えてくれる。
「え?潟鉄?」
するとビックリしたような顔で、ゼンは自分を指差す。
どうやら、やっと贈り物だと通じたらしい。
(きっと美味しさにびっくりするわ!!)
ゼンの顔が輝くのを想像して、アーシャはワクワクとしてしまう。
あの硝子の甘やかさと言ったら、それはそれは素晴らしいもので、舐めた瞬間から、舌が蕩けるような心地を味わえるのだ。
今も漂ってくる、爽やかな林檎の香りと相まって、口の中を巡る甘味が、熟れて熟れて、限界まで甘くなった果物のように感じるのだ。
思い出すだけで、顎の後ろが、ジンと痺れて、唾が分泌されてくる。
ゼンは顔をくしゃりと崩したかと思ったら、ギュッとアーシャを抱きしめる。
最大級の感謝を示してくれているようだ。
アーシャも嬉しくなって、顔がにやけてしまう。
こんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。
(そうよね、嬉しいよねっ。この匂いだけで甘さがわかっちゃうもの!)
抱きしめられて、顔の近くに棒付きの硝子がやってくるから、ついついアーシャはクンクンと匂いを吸い込んで楽しんでしまう。
(すっごく甘くて……甘くて……)
クンクンと匂いを嗅ぎながら、ついつい顔が硝子に寄って行ってしまう。
そしてハッと気がついて自制する。
これはゼンへの贈り物なのだ。
卑しい真似をしてはならない。
(あぁっ、この甘やかな香り!!堪らないわっ、は、早く、口の中に入れて欲しい……)
ユズルが何事かゼンに話しかけてくれたおかげで、解放されて、甘い匂いは遠かったが、依然、強烈な存在感を示している。
(これは私が食べるんじゃないの!止まりなさい!涎!!)
お陰で体が勝手に反応して、口の奥から唾液をどんどん生産してしまっている。
何回も飲み込むが、増産体制に入っており、間に合わない。
「……………亀程食敵看孔吏な」
早くその硝子を、安全な口の中に確保して欲しい。
そんな願いを込めるアーシャの前で、ゼンが持ち手の棒ではなく、硝子を掴む。
それを見てアーシャは少し慌てる。
硝子はとても綺麗で、触りたくなる気持ちはわかる。
でもこれは綺麗だけど食べられる硝子なんだ、と、伝えようとした瞬間、
「!!!」
パキンッと小さな音を立てて、楕円の硝子が半分に割られた。
結構硬いと思っていたのだが、硝子らしく、脆かったようだ。
ゼンは棒がついていない方の硝子を口の中に入れて微笑む。
そして何故か棒が付いた方の硝子を、アーシャに渡してきた。
「???」
一体どうしたのだろう。
思考がついていかなくて、首を傾げることしか出来ない。
すると、ゼンは舌をベッと出して見せて、舌の上の硝子を指差して、自身を指差す。
次に棒付きの硝子を指差して、アーシャを指差す。
ジッと考えて、不意に脳内の回路が繋がる。
これはもしや、一緒に食べようというお誘いなのではないだろうか。
「は・ん・ぶ・ん・こ」
ゼンはニカっと白い歯を見せて笑う。
どうやら一緒に食べる事を『はんぶんこ』と言うようだ。
こんなに甘くて美味しい物を、惜しげもなく、分け与える事ができるなんて、神だろうか。
神に違いない。
神かもとか、神の血を引く人かもとか、迷わなくて良い。
彼は神なのだ。
早く感謝の言葉を覚えたい。
この胸に詰め込んだ感謝の思いをゼンに伝えたい。
「あ〜〜〜」
そんな事を思いながら、我慢できずに、甘露をひと舐めしようとアーシャは口を開く。
しかし口に入れる、その寸前、彼女の目に、スンッとした顔をしたユズルが入る。
(いけない。ユズルを忘れていたわ。彼にも助力してもらったんだから、お礼を渡さなくては)
アーシャはゼンがそうしてくれたように、硝子を半分に折ろうとするが……硝子は普通に硬い。
(えっ、こんなに折れないものなの!?ゼンは凄く簡単に折っていたのに!)
悲しい神とゴブリンの格差だ。
ゴブリンはあまりにも非力だった。
上手く割れなくて困っていたら、
「燃勘回狼梶葱糞鑑讐堀足裸匙力戟昆院葱!!」
ユズルが爆発してしまった。
彼は荒々しくアーシャの手から硝子を奪い取る。
甘やかな硝子を我慢できなかったのだろうか。
そう思った次の瞬間には、アーシャの口に硝子が突っ込まれた。
「もぐっ!?」
驚いたが、彼はそのまま背中を見せて、部屋から出て行ってしまう。
どうやら礼は不要と言う事らしい。
動作は荒々しいが、慎み深い人のようだ。
騎士にもそんな人は結構いた。
地声が大きくて荒々しいから誤解されがちだけど、優しく無欲な人なのだ。
「………賢憐筏い柏私親弦」
困った奴だとでも言いたげに、ゼンが苦笑する。
「ユズゥ、良い人でしゅね」
わかっていますとばかりにアーシャは笑う。
ユズルの名前は上手く発音できないから、要練習だ。
「酌課旨円呆、藍悩沫旗票!ゼン、締語破丞烹様魁溺剤綬好髪島討鷹鰹囚霊憤崎注異総酒!笑嘉机光険惇呂漸嫌柏千!!」
部屋の外でユズルが何か叫んでいる。
「元気でしゅね」
発声が良いのか、元々の声が良いのか、彼の声は大きいが、聞き苦しくない。
勢いは凄いが、親切だと知っていれば大して怖くもない。
こんなに甘やかな物を全部くれるなんて、ユズルは絶対良い人だ。
「ん〜〜〜」
口一杯に広がった甘味に、顎がジンジンする。
唾液の供給が止まらない。
そんなアーシャの頭をゼンが優しく撫でる。
口の中の硝子は、初めて食べた時より、更に甘やかに感じる。
至福の味だ。
ゼンと一緒にこれを味わえて本当に良かった。
今日も彼の膝に座る事ができて本当に良かった。
アーシャはご機嫌で硝子を舐め続ける。
「………ごめんな」
ゼンが小さく呟いた言葉は、口の中の甘味に夢中のアーシャの耳に届く事はなかった。
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