18.幼児、囲い込まれる疑い(後)

アーシャを禁域で拾った日。

それは年に一度の大祓おおはらえ の日だったのだ。




憎しみ、恨み、妬み、そんな負の感情が澱んで凝り固まったものを『穢れ』と言う。

『穢れ』はほんの少しでも脅威なのだが、この土地に封じられている『御神体』は、桁違いの濃度と巨大さの『穢れ』の塊なのだ。

しかも『御神体』は他の『穢れ』を引き寄せ、それを喰らう事で、更に肥大化する。

強大な負が、負を喰らい、更に力を増すと、最早人間の手に負えるものではなくなる。

過去の大戦の折に、この地が血で汚された事により、封印が切れたことがあるのだが、その時は草や木、人間はおろか土地や家屋まで『御神体』に飲み込まれ、この辺り一帯は更地になってしまったと言う話だ。

不自然な形で削り取られた、周囲の山々がその恐ろしさを伝える。

この時、何人もの血族たちが命を落としながら、何とか結界を張り直したが、肥大化した『御神体』はそのままになったらしい。


その為、村では年に三回の祓えを行い、地下に眠るを呼び起こし、『御神体』の周りを清め、『穢れ』の侵入を阻んでいる。

そして年に一回、肥大化した『御神体』を直接清め、少しでも『穢れ』を取り払い、しっかりと封印をし直す。

これがこの地の大祓おおはらえだ。


昔はこの大祓を年に二回行い、『御神体』もかなり小さくなっていたらしいのだが、大戦を境に肥大化した『御神体』は、あまりにも穢れが強く、祭司を務める宗主の清めが追いつかない為、年一回に減らされた。

禅一から見て、祖父世代の話らしい。

何代前の宗主から、そうなったのかと問われると、その正確な数を禅一は知らない。

『御神体』に接触した宗主は、その余りにも強い『穢れ』に侵され、その『穢れ』を落としきれないまま次の祓えに臨み、次々と、その身に残った『穢れ』ごと『御神体』に取り込まれて行ったらしい。

力が弱い宗主は、初めての大祓で、そのまま『御神体』に食われて帰って来ない事もあったので、今では力の弱い者は宗主の座にはつけない事になっている。

なすすべもないまま、『御神体』の養分になった宗主たちは数知れない。


次々と宗主の一族は数を減らし、宗主になるに相応しい力の持ち主は、今の宗主で弾切れになった。

宗主の従兄弟たちも早くに結婚し、次々と子供を作っているが、その座を継げる程の力の持ち主は生まれていない。

一度力を失った血筋には、再び力が戻らないのではないかとすら言われているらしい。

今の宗主も清めきれなかった『穢れ』に侵食され、既に大祓をする事はできない。

この強力な結界に囲われた場所でなければ、普通に生活する事すら困難になっている。

『穢れ』を引き寄せる『御神体』の力により、どんなに強い精神力を持ってしても、自ら養分になろうとする引力に逆らえないのだ。


「うぅぅぅ、あ、あ、あ……」

普段は理性的な宗主が、頭を抱え、涎を垂らしながら立ち上がる。

その歩みから、彼が出口を目指して動き出した事がわかる。

乗っ取られた意識下でも必死に抵抗しているようで、しゃがみこもう、しゃがみこもうと足掻いている。

溢れ出している黒い霧、そして強力な力に引き摺られるような宗主の動き。

『御神体』の封印が解けた事は疑いようが無い。


「宗主!!」

渡殿に出ようとする宗主を禅一は捕らえる。

宗主と禅一の、武道の腕は拮抗しているが、必死に己の中に溜まった『穢れ』に争っているであろう宗主のおかげか、組み敷くのは容易かった。

しかし力が強い。

「最上を呼んでくれ!!」

禅一は声を張り上げる。

『穢れ』に侵食されている宗主には、辛い事になるかも知れないが、直接体を封印して動けなくしてもらうしかない。


禅一の視界の隅に、顔を真っ青にしたアーシャが映る。

「アーシャを見えない所に……」

暴力的にすら見えるこの状況を、子供に見せたくないと、禅一は『若奥の会』の二人に声を掛けようとする。

しかし、それよりも早く、「ふんっ」とファイティングポーズで気合を入れ、アーシャが走り寄って来た。

「アーシャ!危ない!来たらダメだ!!」

全身で宗主を押さえつけている禅一は動けない。

口だけでなんとかアーシャを遠ざけようとするが、彼女は宗主の手が届きそうな位置にまでやってくる。


そして大きく息を吸ったかと思うと、アーシャはおもむろに歌い始めた。

あんな小さな体からどうやって出したのかと思う、高々とした美しい声だ。

禅一は遠ざけようと再び口を開きかけ、彼女の歌と手の動きに沿って立ち昇る光の粒子に気がついて、止める。

「……アーシャ……」

彼女の手は、まるで指揮でもしているかのように動く。

歌声に引き寄せられるかのように湧き出した氣が、その手の動きによって形成され、宗主の全身へ降り注ぐ。

「あっ、ぐ、ぐぅぇっ………うぅっ……」

アーシャの表情は、子供とは思えない程穏やかで、慈愛に満ちている。

彼女の手が光の粒子を広げる度に、宗主の抵抗は弱まっていく。


その光景は正に『奇跡』だった。

それ以外に言い表しようがない。

禅一の目にすら見えるようになっていた、宗主を包む『穢れ』が、アーシャの紡ぐ氣に触れた途端、蒸発するように消えていく。

一度体に寄り付いた『穢れ』を消すのは難しい。

清流で身を清め、潔斎を行い、氣を体に取り込む。それを何回も繰り返しても、綺麗に落ちることはない。

宗主となった者は大祓の度に、少しずつ『穢れ』を体に蓄積させ、やがて『穢れ』に食われて死ぬ以外ない。

ない筈だったのに、今目の前でその事実が覆されている。


信じられない思いで、その光景を呆然と見ていたら、やがて宗主の抵抗は完全に無くなっていた。

「………御使い様………」

呟いた宗主は、驚愕の表情で、アーシャを見つめていた。

その目には正気が戻っている。

禅一が力を緩めたお陰で、宗主の右手は自由になり、アーシャに向かって伸ばされる。

すると、優しい顔で歌っていたアーシャは、ギョッとした顔をして慌てて後ろに逃げていく。


アーシャは大きく離れてから、ワタワタと周囲を見回しながら、その場で左右に走り回る。

それから思い切り助走をつけて、宗主の上の禅一に向かってジャンプした。

安全な禅一の所に緊急避難したかったのに、逃げたい相手が彼の足元にいたための行動だろう。

「わわっ!」

まさか宗主の上で、ジャンプしたアーシャを受け止めるわけにもいかないので、禅一は慌てて前進して、空中のアーシャを胸で受け止める。


「っっっ」

アーシャは弾かれたように禅一を見上げ、その顔をしっかり見た後に、安心した顔でギュッと禅一に抱きつく。

宗主と話をする間離れていただけなのに、力強く禅一にしがみつく手から、『寂しかった』と伝えられているような気がする。

その姿は奇跡など起こし得ない、ただの子供にしか見えない。

「………ごめん」

だから余計に禅一の胸は痛む。

こんな所に連れてきてしまったが為に、一族が喉から手が出る程欲しかった『奇跡』を持つ事を、よりによって宗主に見せてしまった。


しかし後悔している場合ではない。

宗主の『穢れ』はアーシャにより、暴走を止められたが、諸悪の根源は残っている。

禅一はアーシャを抱えて、正殿の先にある空を睨む。

そこには巻きつく先を探す蔓のように伸びる黒い霧がある。

霧が高く高く昇っていくのは、大祓で清められた空間から逃れて、自分の力を増すための『穢れ』を喰らいに行くためだろう。

今は周りの氣に清められて、広がることができていないが、それも時間の問題だ。


「禅一、何処へ……」

アーシャを抱えて歩き始めた禅一に、宗主が声を掛ける。

体内を蝕む『穢れ』が暴れたせいか、彼は立ち上がる事ができないようだ。

胸を押さえるようにしながら、なんとか身を起こそうとしている宗主を、振り返った禅一は見下ろす。

「禁域です」

禅一は当然の返答をする。

「禁域!?何であそこに……!」

驚く宗主に、禅一は視線を動かして答える。

「封印が……!!」

禅一の視線につられて、正殿の先に立ち登る黒い霧に気がついた宗主は顔を歪める。

「直してきます」

淡々と禅一は告げる。


「馬鹿な………大祓から三日も経っていないんだぞ!?穢れも落としきっていない、潔斎もしていない、そんな状態で禁域に入る気か!?自殺行為だ!!食われるぞ!?」

宗主は怒りを込めた口調と共に、力強く立ちあがろうとしたが、膝から力が抜けて、崩れ落ちる。

「今、やらなければ、アレはその辺の穢れを食ってデカくなります。そうすれば完全に封印が壊れます。大きくなってからでは絶対に止められません。手を打つのは今です」

「しかし……お前が今行くのは無理だ!代理の者を……」

禅一は呆れ顔で宗主を見る。

「代理って……無駄にアレに食わせるおつもりですか?」

この人は何故、繋がりの薄い禅一たちが、この村に縛られているか忘れてしまっている。


能力がない者を禁域に入れたら、生きながらにして『御神体』に取り込まれ、その肥やしになるしか出来ない。

それ故、清めきれない『穢れ』に飲み込まれかけても、宗主は代替わり出来なかった。

次に宗主の座に着くに相応しい力の持ち主が、この村には存在しなかったのだ。

このままでは唯一の力の持ち主が、子孫も残さず、『穢れ』に飲み込まれてしまう。

しかし年に二回の大祓を一回に減らしているので、封印は脆くなっており、大祓を行わないわけにはいかない。

そんな八方塞がりな時に見つかったのが、宗主が外で作った、禅一たち兄弟だったのだ。


「しかし……それでは………」

絶望するかのように顔を歪める宗主に、禅一は呆れてしまう。

血を受け継いでいるのだからと、無理矢理事情を聞かせて、逃げられない状況を作った人がする顔ではない。

今まで滔々と一族の義務と、それを放棄した場合の周囲への被害を言い聞かせてきたのは、他でもない彼なのだ。

「時間が惜しいので失礼します」

刻一刻と状況は悪くなる。

生き残りたいなら、すぐに動くしかない。

禅一は踵を返す。


「待て!その子はどうする気だ!?」

予想通りの宗主の言葉に、冷え冷えとした目で、禅一は振り返る。

「言ったはずです。この子はこの地の因縁に巻き込みません。………万が一の時には譲に引き渡します」

ここは万が一が起きた時、一番安全な場所であるが、高い壁と、二重の扉によって、外界と隔絶されている。

庇護者である禅一が居なくなれば、そのままここに閉じ込められかねない。

いや、今を逃せば彼女は絶対に、ここに囚われる。

たった今、彼女が示した奇跡は、ここに絶対に必要な能力だからだ。

最悪な混乱だが唯一のチャンスでもある。


彼の腕の中のアーシャは不思議そうな顔をしながらも、しっかりと禅一に掴まっている。

たった一日程度の交流だが、深い信頼を向けられている事を感じる。

そのことに関しては素直に嬉しいが、それは、それだけ頼りになる大人が彼女の周りにいなかったと言う事の、裏返しでもあるのだ。

だから絶対に禅一は、この信頼に応えなければいけない。

人は何度も裏切られれば、いずれ信頼できる力を失くす。

彼女には裏切らない大人の存在が必要なのだ。


禅一は彼女の安全を確保するためにも、禁域の脅威を取り除かねばならない。

そして万が一に備えて、今の混乱に乗じて、彼女をここから遠ざけなくてはいけない。

『封印が破れた。あの子を村の入り口まで連れて行ってもらうから、連れ帰ってくれ。譲も村に入るな』

禅一は歩きながら、弟へメッセージを送る。

目配せを受けた『若奥の会』の二人か後ろからついてくる。

異常事態を察している二人の顔色は悪い。


「これから正殿で指示を出しますが、役に着いていない人たちは退避してもらいます。……お子さんがいる中、申し訳ないが、この子も連れて退避して貰いたい」

退避と言われて、二人は一瞬ホッとした顔をしたが、アーシャを任される意味に気がついて、すぐに顔を強ばらせる。

「まさか若様………」

「俺は役目があるから、彼女を守れません。……今、彼女の事を案じてくれたあなた方以外に彼女を任せる事ができません。譲が入口まで来るので、この子を渡して欲しいんです」

禁域の恐ろしさは、この村の人間なら誰もが知っている。

間をおかずに、そこに入る意味を知っている彼女らの顔色は、更に悪くなる。

しかし彼女らは反対を口にしたりはしない。

今の異常事態を治められるのは、禅一しかいない事がわかっているのだ。



仕掛け扉を抜け、正殿に向かいながら、人の配置や、避難について、禅一は次々に指示を出す。

そんな中、キョトンとしながら、それでもしっかりと禅一にしがみついている体温が、あまりに無邪気で、暖かくて、悲しい。

せっかく慣れた、信頼を寄せる人が見つかったと思っているかもしれない、この子の手を離すしかない。

できるなら突き放された、捨てられたなどと感じないように、禅一は優しく彼女を床に下ろす。

「アーシャ。絶対に戻るから。俺の弟の所で待っていてくれ」

頭を撫でると、アーシャは嬉しそうに猫のように手に擦り付いてくる。

言葉は通じないが、言わずにはいられない。


「ゆ・ず・る。アーシャを守ってくれる。俺の弟だ。ゆ・ず・る、だ。わかるか?ゆ・ず・る」

アーシャは不思議そうに首を傾げる。

「ゆ・ず・う」

しかし不思議そうにしながらも復唱してくれる。

「そう。ゆ・ず・る。アーシャの味方になってくれる。ゆ・ず・る、だ」

禅一はもう一度アーシャの頭を撫でる。



「若様、お召し物の準備できました」

使用人が猶予の時間が終わったことを告げる。

「わかりました。……すみませんが、アーシャをよろしくお願いします」

アーシャの背中を優しく押して、『若奥の会』の二人に禅一は頭を下げる。

不思議そうな顔で、女性らに手を繋がれたアーシャに、禅一は背を向ける。

その顔が歪むかもしれないと思うと、とても見ていられなかったし、ここからは集中しなくては生き残る事ができない。

禅一は素早く衣服を脱ぎ捨て、来年の儀式のために清められていたであろう、白の長着と白袴を身につける。


正殿は神社に似た造りになっている。

しかし神社とは異なり、鏡が飾られる筈の場所に、一振りの刀が祀られている。

刀といっても、日本刀のように反りのある片刃ではない。

古代に作られていたような、諸刃造の直刀だ。

柄は金属が剥き出しで、鍔などもついていない。

一応鞘は付けられているが、これは後世の職人が作ったもので、本来は剥き出しの刀だったのだと聞いている。


禅一は数段ある階段を上り、迷わずその刀を手に取る。

本来は面倒くさい儀式やら、祝詞やらを上げて、刀自体に礼を施して手に取るのだが、今はそんな時間はない。

台座から刀を上げると、左右に飾られた神楽鈴が小さく鳴り、突然手に取られた刀が、禅一の手の中で不愉快そうに鳴動する。

(すまない。緊急事態だ。力を貸してくれ)

その刀に禅一が心の中で願うと、仕方ないとばかりに刀は大人しく手の中に収まってくれる。


「ゼン!」

そのまま禁域へと行こうとする禅一の背中に、幼い声がかけられる。

「………封じ役以外は全員退去してください」

しかし禅一は振り返らなかった。

そこに不安いっぱいの顔があっても、今の禅一にはできる事がない。

禁域に連れて行く事など不可能だし、禅一が戻れなかった場合、アーシャを逃す機会は、これが最後になるのだ。

手を離すしかない。

「ゼン!……ゼンっっ!!」

『若奥の会』の二人に抱き上げられたのか、アーシャの泣きそうな声が遠ざかっていく。


禅一は、一度目を強く閉じてから、目を開く。

そして次は迷う事なく歩き始めた。

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