15.聖女、おんもに出る

神様はどうやら、とても行水が好きらしい。

砂埃の影すら形もない所に住んでいるから、掃除好きなのだろうなと思っていたが、まさか自らをも、毎日、あんなに念入りに洗うとは思わなかった。

アーシャは『むぎちゃ』を飲みながら、そんな事を思う。

彼女の後ろでは、ドラゴンの寝息のような物凄い爆音が鳴り響いている。

『どらいやー』という、強い風を巻き起こす、神の道具らしいのだが、風の温度を自由に変えられるという凄い機能がある。

風の魔法を使う人間は見た事があるが、熱さにまでは干渉できていなかった。

温かい風と冷たい風が交互に吹くので、暑くなりすぎる事も、寒くなりすぎる事もない。


「よーし!」

あっという間に乾いたアーシャの頭に、満足そうにゼンが頷く。

触れてみると、濡れているかのような、しっとりとした手触りなのに、サラサラと髪が流れる。

こんなに自分の髪が気持ち良いと思ったのは初めてだ。

アーシャを乾かした後に、ゼンは自分の髪も乾かし始める。

ゼンからも、アーシャからも、うっとりするような花の匂いがする。


着せてもらった服は、清潔で、不思議なほど柔らかで肌触りが良い。

その上、胴体は灰色、袖は赤、お腹に不思議な素材で文字のような物が描かれていて、とても色鮮やかで綺麗だ。

ズボンも濃紺に染められた、とても頑丈そうな生地で、膝に凝った刺繍まで付いている。

昨日は上と下がくっついている不思議な服だったが、今日はゼンが着ている服にそっくりだ。


(こんなに高そうな服を着せてもらって良いのかしら……)

染料を使って染めた服は、手間をかけた分、高価になる。

だから庶民の服は、綿花を紡いで作った、そのままの色なのだ。

こんなに手の込んだ服なら、かなりのお値段になるはずだ。

(お貴族様になったみたいだわ)

これでやたらと高さのある靴を履いたら、王子様だ。

アーシャの国では農民であれ、女性がズボンを履くことはあり得ないのだが、神の世界ではそうでもないようだ。

まぁ、所詮ゴブリンなので、男女の差など、あってなきような物なのかもしれないが。



アーシャが美しい装いに、うっとりしている間も、ゼンは何やら忙しく動いている。

台所で野菜を刻んでいたかと思えば、忙しく部屋を回って荷物を集める。

服や、昨日見せてもらった真実の鏡(小)、金属の箱、不思議な材質で作られた紐を、帆布のように、しっかりとした布の袋に次々に入れる。

(木の根っこもやっぱり食べるんだ……木の根っこを………)

鍋に入った野菜や木の根っこを見たり、

(凄いわ……神のお召し物はどれも素晴らしい生地が使われているし、染料も鮮やか!)

帆布の布袋を覗き込んだり。

ゼンの後を水鳥の雛のようについて回るアーシャも中々忙しい。


荷物を集めて、時々鍋をかき回す。

(服を詰めると言うことは、どこかに旅に行くのかしら?……ご飯を食べて出発って事なのかしら……)

そんなゼンの後ろをついて回りながら、アーシャの心には不安が生まれる。

(ゼン様が旅に出られたら……私はどうしたら良いんだろう。神の世界で立派な野良ゴブリンとして生きていけるのかしら……)

野営はした事があるが、こんな貧弱な体で、どこまでやれるかわからない。

しかも手には錫杖も何もない。

媒介無しでは大業はそんなに使えないし、神の世界に神力でやっつけられる魔物がいるかもわからない。

そもそも自分が魔物だし。


(連れて行ってって……言えたら良いのにな………)

言葉もわからないので、それを伝える方法がない。

木の内側に菌糸を伸ばすキノコの如く、実力行使で彼に張り付いていけば良いかもしれないが、今のアーシャは何の力もない、ちっぽけなゴブリンだ。

旅では足手まといにしかならないだろう。

大きさ的にも彼の脛ほどしかない体では、歩いて彼について行くことすら出来ない。

(何か……ゼン様のためにできる事があったら、ついていけるのに)

彼がいないと生活がままならない事もあるが、それ以上に、彼と離れる事が辛い。


一日。

たった一日一緒に過ごしただけなのに、離れ難い。

あの大きな手で頭をヨシヨシと撫でてもらうだけで、心が一杯になって、尻尾を振り回したくなる。

無論ゴブリンに尻尾はないので、気持的な話だが。

(もっと……コボルトとかだったら、見た目も可愛いし、狩猟犬的に働いたり出来たかもしれないのに……)

しがないゴブリンはため息を吐く。

(おっきい手……『お父さん』みたい)

大きい割に細々と動く、彼の手が大好きだ。

撫でてくれるし、抱き上げてくれるし、美味しいものを沢山作ってくれるし。


今も鍋をかき回したら、次は神の金属オリハルコンで出来た箱を開け、

(あ!白の粒々!!)

アーシャがすっかり魅入られた、甘味のある穀物を取り出して、湯気の上がるそれを、丸い形に細工していく。

(凄い!次々とまん丸に!!流石神様!!とっても器用だわ!!)

キュッキュッキュッと次々と量産される球体に、アーシャは目を輝かせる。

沢山並んだ、まん丸の白い穀物から湯気が上がる光景は、何て素敵で美味しそうなのだろう。


「あ〜ん」

隣で見学していたら、突然そんな声が上から降ってくる。

見上げれば、ゼンが目元を緩める。

彼が持っている丸い白は、アーシャの口元に向かって移動して来ている。

これはもう、大きく口を開けて受け止めるしかない。

お腹は減っていなかったのに、口を開けた途端、調子の良い内臓が、ググゥと小さく鳴く。


「!!!」

白い真ん丸が、舌の上に軟着陸した時、最初に感じたのは、意外にも塩っぱさだった。

一口噛むと、その塩味に優しい甘味が混ざり、相反する味がお互いを際立たせ合う。

しかも歯にあたるプリプリとした食感がたまらない。

今まで煮込んだ物しか食べていなかったが、そのままの白い穀物は、歯を優しく受け止め、その後柔らかく潰れる。

噛むごとに、中から熱々の穀物が出てきて、甘味が勢力を伸ばす。

「ん〜〜〜!!!」

じゅわわっと涎の湧く美味しさだ。


ゼンはアーシャの口が空になると、次、次と丸くした白い穀物を口に運んでくれる。

その合間にも、皿の上にどんどん丸い穀物を量産して行く。

「侠矯豆住按鈴稿曝効な」

箱の中の桶が空になると、ゼンはアーシャの頭を撫でる。

そして皿に薄くて柔らかい硝子を被せる。

何とこの柔らかい硝子、長方形の箱に紙のように丸めて入っていて、使う分だけ引き出して、切って使えるのだ。


(凄い!!)

紙を愛するあまり、紙のように使える硝子まで作ってしまったのだろうか。

切っても割れずに使える硝子なんて、なんて凄い物を作るのだろう。

紙と違って透き通っているから、中の美味しそうな白い丸たちも見えるし、湯気で曇っているのがいかにも熱々と言った様子で、見ているだけで幸せな気分になる。


ゼンがかき回す鍋からも美味しそうな臭いがするし、アーシャは幸せいっぱいだ。

そんな幸せを、扉を叩く音が中断する。

大きく顔を顰めて、火を一瞬で消したゼンが、大きな硝子の扉へ向かう。

(お客さんが多いのね。………いや、参拝なのかしら!?直接神様にお願い事できるなんて天国って凄いわ〜)

神殿に祈りに行ったら神様が面倒臭そうに顔を出す。

ある貴族の館には時間になったら女神が出てくる仕掛け時計があったが、ちょっとそれに似ている。

女神様の代わりに仕掛け時計から出て行くゼンを想像して、アーシャは一人笑う。

(そう言えば朝に何か貰っていたのは供物なのかも!)

また美味しい木屑だらけの怪物なんかが奉納されてくるかもしれない。


アーシャはワクワクとしながら参拝者を見に行く。

するとそこには昨日家に来た少女がいる。

よっぽど信心深いのだろうか。

神様の家で魔物が大きな顔をするのも何なので、こっそりと顔を出していたら、ゼンが振り向く。

アーシャを確認したゼンは少し困った顔をする。

やはり魔物が神様のそばにいるのは、おかしいのかもしれない。

慌てて身を隠そうとしていたら、 

「………アーシャ」

ゼンはアーシャに向かって手を広げてくれる。


それだけで、ここにいてはいけないような、身の置き所が無くなる心細さが吹っ飛んでいく。

アーシャは思い切り彼の腕に飛び込む。

しっかりと受け止められると、ここが自分の居場所だと安心できる。

「……謂液梢巴午福監函」

アーシャの心細い気持ちが通じたのか、片手で彼女を抱き上げているゼンは、もう片方の手で彼女の手をしっかり握る。

言葉は全くわからないが、真摯な視線が『ここにいて良いんだ』と言ってくれている気がする。

アーシャはゼンの手……は大き過ぎるので、彼の親指を強く握り返す。

するとアーシャの手を包む手に軽く力が加わる。

握り返された手が温かくて、アーシャは嬉しくなってしまう。


「……………っ!?」

しかし次の瞬間、背中を冷たい物が走る。

(瘴気!?)

この神域で全く気配を感じなかった、濁った気配にアーシャはビクンと体を震わせる。

「………?」

しかし周りを見ても魔物らしい物は、自分以外にいない。

(そうだ……昨日、夢で見た三つの漆黒)

神の世界は全てが衝撃的で、目新しいものばかりで、すっかり忘れてしまっていた。

昨日、うつつの体から抜け出して見た光景があった。


魔物を生み出す『瘴気』よりも濃い、漆黒としか言えない存在。

神の力で抑えられている巨大な『漆黒』と、それと一つになりたい『漆黒』に近しい三つの存在たち。

よく見えなかったが、神気の強いこの地では存在する事ができない、三つのは、寄生虫の如く宿主の中に隠れていた。

途中で起きてしまったので、その宿主の姿は見ていない。


通常、瘴気を纏えるのは魔物だけだ。

生命力の強い動物や植物は耐えることができるが、大体の生物は瘴気にあたるだけで死ぬ。

運良く生き残れた、生命力の強い個体は、変質し、魔物に変わる。

しかしこの神域で存在できると言うことは、宿主は魔物ではあり得ない。

瘴気を体内に隠せるのだから、かなり強い個体であるはずだが。


アーシャの周りには、ゼンと少女だけだ。

ゼンはそもそも神様なので、除外して良いだろう。

少女も瘴気がそばに来ただけで倒れそうな儚さだ。

(と、言うことは、この屋敷の外に何かいるわ)

アーシャはフムと息を吐いて気合いを入れる。

ゴブリンの貧弱な体だが、一体くらいなら死ぬ気で頑張れば、やれるはずだ。

(ゼン様は私が守るわ!!)

これでも瘴気祓いには定評のある聖女だったのだ。

祓った瘴気はことごとく完全浄化。

跡形も残らないと有名だった。

瘴気はうまく浄化すれば魔素に分解できるのだが、アーシャは魔素のまの字も残らない程スッキリ浄化するので、魔法を使うために魔素を欲しがる、魔力持ちの貴族には、滅茶苦茶嫌われていた。

何なら浄化の舞を踊った日には、周りを漂っているだけの魔素まで吹っ飛ばすので、忌避されていたと言っても良い。


(大顰蹙の浄化能力を今こそ見せてやるわ!!)

そう張り切ったアーシャであったが……

「ふぁぁぁぁああ!!!」

ゼンに抱っこされて、初めて神の世界の全貌を見た瞬間、吹っ飛んでしまっていた。

基本的に彼女は非常に切替の早い、ある意味、後腐れのない性格をしていた。



しかしこの光景を見て興奮するなという方が無理だ。

王都周辺は高い山などないし、アーシャの出身もほぼ平地だった。

山脈は国境付近に集中しており、それらの山々は巨大で人々の侵入を堅く拒むような険しさだった。

それが神の国はどこを見ても山、山、山で、なんならここも山の中を切り拓いたような町だ。

前を見ても左右を見ても山。

山の後ろにも山がそびえるという、気合の入った山仕様の世界だ。


(神様が紙を多用なさる意味がわかったわ!)

これだけ山山山で、木だらけならそりゃあ紙を作りまくりたくなるだろう。

人間の国では森林は大切な資源で、断りなしに木を切り倒したら死をもってあがなわせる村も珍しくはなかった。

よそ者が樹木の皮を剥いだだけで、怒り狂って、その者の皮を剥いだ、なんて話も聞いた事がある。

しかし神の国は物凄い量の木だ。

これなら何十本か切り倒してもバレそうにない。


山の形に沿う様に畑が段々に作られ、ポツンポツンと木で作った家が建っている。

「可愛い〜!!」

それを見たアーシャは思わず声をあげる。

木で作られた家は、頭が大きくて、体が小さい。

屋根はなだらかで、先がチョンと尖っていたりして、お洒落をした子供のようだ。

殆どの家が一階建てのようで、ちんまりとしている。

そのちんまりとした家を植物で作った塀で囲っているのが、また可愛らしい。


「ゼン様、亜人がいます!!」

小さい人影を見て、アーシャは声を上げる。

木でできている家に住んでいるなんて、エルフかもしれない。

彼らは森深くに住み、植物と共存していると聞く。

緑と溶け合ったここが、エルフの里と言われても不思議はない。

幻の種族に胸を躍らせるアーシャを、ゼンは優しく笑って眺めてくれている。


「ゼン様、あの鉄……?の塊は何でしょうか?」

よく見ると、亜人たちの家には必ずと言って良いほど、金属でできた箱のような物が置いてある。

金属に見えるのだが、白や黒、時々赤・青等と金属らしからぬ色をしており、上半分に硝子が嵌め込まれている。

貴族が乗る馬車に似ていない事もないが、御者台も無ければ、馬を繋ぐながえもない。

そして失礼ながら、馬車を有するような大邸宅でもない。

(大体、馬車が通るためには道幅もいるし、整備されていないと。小さな集落でそんな……)

そう思ってアーシャは地面を見て、

「………えっ!?」

声を上げた。


山や建物に気を取られていたので、全く気がついていなかったが、道が恐ろしく広い。

このサイズの集落には、とても似つかわしくない広さで、馬車が二台並走しても余りそうだ。

しかも一体どうやっているのか、細かな黒い石が真っ直ぐに塗り固められ、まるで大きな一枚岩で作ったかのように見える。

貴族街の石畳ですらこんなに平らかではない。

「凄い!!」

触って謎を解明せんと、アーシャは地面に向かって手を伸ばすが、

「偏簡五官。涜桐陰紡示腸竣廟雄援醐損鍛穣ぞ」

ゼンに笑って抱きなおされ、何やら嗜められる。

大人しくする代わりの前払いのようにナデナデをされてしまうと、謎の石畳究明に動くわけにもいかない。


へへへと笑いながら、アーシャはゼンの負担を減らすべく彼にしっかりと掴まる。

家はエルフのように木造りで、道はドワーフが作ったような見事な岩細工で、周りは山だらけ。

全く未知の世界だが、張り付いた頬や胸や腕に感じる暖かさが有れば、何も怖くない気がする。

今、どこに向かっているかもわからないが、ゼンがいてくれるから全く不安がない。

アーシャは全幅の信頼を込めてゼンを抱きしめる。


(そう言えば、家を出てからずっとこっち側にあるのは……城壁?的な?)

土台は二段ほどの石垣で、その上は黒い木で作られた格子のついた白い壁、そのまた更に上に乗っているのは……何だろうか。

釉薬を塗ってあるのか、黒々と輝き、波打つ形の陶器が、壁の上に、延々と乗っている。

(瓦………?いやいや、まさか。何で壁に瓦を乗せるのよ。おかしいじゃない)

瓦とは屋根についている物で、屋根は家についている物だ。

いくら神の世界と言えど、そこは人間の世界と同じはずだ。


鳥は翼をはためかせて飛び、どこから聞こえる犬の声はワンワンと鳴いている。

いくら神の世界と言えど、鳥が地面を爆走したり、犬がニャ〜ンと泣くはずもない。

基本的な事柄はきっと一緒なのだ。

そう思うと、万が一、天国でゼンとはぐれても何とか生きていけそうな気がする。

「………………」

しかしそう思った直後、その思いはひっくり返された。


長い長い壁に似た建造物の終点は、巨大な門だった。

まず目に飛び込んできたのは、黒塗りの木を格子状に組んだ扉だ。

一枚でも大きい扉が、何と四枚も並んでおり、中の様子が格子の間から、透けて見えるのが、何とも洒落ている。

その扉の周りには黒塗りの立派な柱があり、白壁を挟んで、そのまた左右に樹齢百年はありそうな大木が丸々そのままの姿で柱として立っている。


「へぇぁ〜」

アーシャの口から間抜けなため息が漏れる。

瓦とは屋根についている物で、屋根は家についている物……のはずが、この門にも、それは立派な屋根がついていた。

「………門に屋根………」

斬新すぎる。

通過点に過ぎない門に、ここまで広くて立派な屋根をつける意味は何なのだろう。

下手な貴族の庭にある東屋より豪華だ。

ただ屋根を乗せているだけではなく、美しい形に削り出された木が、複雑に組み合わさっていて、屋根の裏側まで視線に配慮して造られている。


その門を抜けた先にあったのは、神殿だ。

噴き上がるような神気、間違いない。

「ひゃ〜」

アーシャがこれまで見てきた、どんな神殿より凄まじい神気だ。

門の正面にあるのが恐らく正殿だろう。

(こっちも三つ)

アーシャの目は物質に遮られると、その中は見えない。

しかしそれでも気配は感じられる。

凄まじい神気を呼び起こす神具が一つ。

そしてそれを守るように二つの神具がある。

(流石天国。人間の世界とはモノが違うわ)

アーシャは力を振るうのは得意なのだが、感応力はいまいちなのだ。

そのアーシャにすら気配を感じさせる。

どれだけ凄まじい力を持つ神具なのだろうか。


てっきり神殿に進むのかと思いきや、ゼンは横道に逸れる。

「ふほぇ〜」

その横道の美しさに、アーシャはため息を漏らす。

小さな山があり、木があり、花があり、小さな森のようなのだが、完全に人が制御下に置いている事がわかる。

ゼンの歩く石の上から、一番美しく見えるように計算されて配置されている。

植物の足元の苔むした石すら、美の演出のために配置されているのだ。

これに感動するなと言う方が無理だ。


美しい庭園に感動していたら、前から、これまた木で作られた家が現れる。

しかしこれは『可愛い』なんてとても言えない。

(……木の要塞……)

思わずアーシャの口があんぐりと開く。

視界に収まりきれないくらい巨大で、威圧感がある。

城と言っても差し支えがないほどだが、華美さはなく、敵を迎え撃つかのような迫力がある。


すっかりビビってしまったアーシャが、ゼンを握る手に力を込めると、背中がポンポンと優しく撫でられる。

それにホッと息を吐いたのも束の間。

恐ろしく広い、横開きの扉をくぐると、沢山の人影がいたので、またビックリしてしまう。

「「「禦深説大摺俵仙運」」」

広い玄関の左右に並んだ、亜人らしき女性たちが一斉に頭を下げる。

「ほへっっっ」

思わず変な声が出てしまう。

ゼンは頭を下げられても動揺する様子はなく、勝手知ったる場所のように、堂々と要塞に乗り込んでしまう。

もしかしたら、ゼンはこの神殿の祭神なのかも知れない。


ゼンが靴を抜いて上がった先には、独特の形をした、巨木から切り出したと思しき、蜂蜜色に輝く置物が置かれている。

(邪なモノを弾く呪い……?凄いわ、ピカピカになるまで磨いたのかしら)

木でできた家に木を飾る。

ちょっと面白い。

その木で作られた衝立のような物の前に、花が飾られているのだが、これがまた素晴らしい。

「ふぁぁ〜綺麗〜」

思わず感嘆の声が漏れる。

花瓶に花を突っ込んだだけではない。

まるで自由に咲き誇っている野の花を、そのままここに切り取って持ってきたかのような、見事な飾り方だ。

先程の庭といい、ここには美の神も住んでいるのかもしれない。


先程頭を下げていた中の、白髪混じりの女性が、ゼンの前を先導するように進む。

途中何人かの女性とすれ違ったが、皆、一様に黒っぽい青の、妙に袖の長い服を着ている。

動きにくそうな分厚い生地で、胸の下から胴回りを絞めている布も物凄く固そうで、苦しそうだ。

(神官服なのかしら……?)

得てして神に仕える者は、動き難い服装になりがちだ。

アーシャの聖女服も本当にゴテゴテとしていて動きにくかった。


そうやって観察しているうちに、アーシャを抱っこしたゼンはズンズンと屋敷の中を進み、鍵付きの小部屋に入る。

「…………?」

何だろう。と、アーシャは首を傾げる。

窓もない、前と後ろに扉があるだけの部屋で、強い圧迫感がある。

内部に何かを封じ込めているような、そんな気配がするのだ。

外側から内側への力の流れを感じる。

入ってきた扉に鍵が掛けられる音がした後に、前の扉の鍵を女性が開ける。

「っっっっ!!!」

女性の先導に従って、ゼンが開いた扉をくぐった瞬間、全身の毛穴が逆立つ感覚がした。


(怖いモノがいる!!!)


バクンバクンと心臓が動く。

瘴気よりもなお濃い『漆黒』の気配だ。

じわっと背中から冷たい汗が噴き出す。

(これはヤバい。絶対ヤバいやつだわ)

逃げろ、逃げろ、逃げろ。

戦場で鍛えられた勘が狂おしい程叫んでいる。

錫杖もない、この痩せ衰えた体では絶対勝てない強大さだ。


「……アーシャ?」

不思議そうなゼンの服を、アーシャはギュッと握りしめる。

「逃げ、にげ、逃げなきゃ、逃げなきゃっっ!!」

何故こんなに直前になるまで、恐ろしい存在に気が付かなかったのか。

あの小部屋を通過する時の違和感。

恐らくあれは『怖いモノ』を閉じ込めておくための結界を、くぐり抜けた感覚だったのだ。


アーシャの言葉が通じないゼンは、困った顔で彼女を宥めるように背中をさする。

そんな場合ではないのだと、声を上げようとした時。

「職疾其謬門巽駒坤偶詮波或」

背後から声がかかった。

「っっっっ」

思わず振り向いたアーシャは固まってしまう。


人の形をした真っ黒な塊だ。

その塊の中、顎から上の頭部だけが辛うじて浮き出していて、それが余計に悍ましい。

「おっ……」

胃が逆流するのを感じて、アーシャは慌てて口を押さえる。

せっかく食べさせてもらった美味しいものを吐き戻す等勿体なさすぎる。

絶対消化して、目の前の敵を倒す糧にする。

例え刺し違えても、アーシャを大事にしてくれたゼンだけは守らねばならないのだ。

少しでも力が必要だ。


そんな中、ゼンはその悍ましいものと平気そうに会話を交わしている。

あんな物に平然と話しかけられるなんて、流石神様だ。

器が違う。

あまりに普通に会話するものだから、目の前のソレが人間なのではないかと思ってしまうほどだ。

(いやいや!!あんな濃い瘴気に取り憑かれて、人間が、いや、どんな生物も生き残れるはずがない!!)

チラッと相手を確認して、アーシャは激しく首を振る。

その気配だけで押し潰されそうな圧がある。

人の形をした脅威。

まるで死神のようだ。


(死神………そうか、死神!!冥界の神!!)

アーシャの脳裏に閃きが走る。

瘴気ならば、あんな濃さのまま、その場に留まったりしない。

膨れ上がり、肥大化し、周りの生ある物に次々と飲み込んでいくはずなのだ。

こんなに近くにいる生ある者を取り込みもしないなんて事はない。

チラリと振り返って観察すれば、黒い霧の周りに、薄い神気の壁が張られ、拡散を防いでいる。

という事は、これもまた神なのだろう。


国が唯一神を崇めるようになってから、古き神々は排除されたため、詳しくは知らないが、死や病を司る神がいたと言う話だ。

アーシャの感覚から言うと、そんな物を司るなんて悪神なのだが、神の世界では区別されないのかもしれない。

ゼンが平気そうな顔で話しているのも頷ける。


そんな事を考えていたら、フッと威圧感が遠退く。

冥界の主人が踵を返したのだ。

圧倒的に自分より強い、存在自体が害になる存在だが、こちらに襲いかかってくるつもりはないらしい。

やっと深呼吸ができたアーシャは、ぐったりとゼンに寄りかかる。

「薗詳旗菟哨………硝怯愛往麹譜愛忍吃?」

ゼンが何事か呟く。

アーシャは目を閉じてゼンにこびり付く。

べったりとつけた右耳に、力強い鼓動が聞こえてホッとする。


怖かった。

とても怖かった。

死ぬのは勿論怖い。

せっかく新しく得たゴブリン生を大切にしたい。

でもそれ以上にゼンに何かあるのが怖かった。

この温もりが失われたらどうしようかと思った。

(もう野良ゴブリンは無理だ。絶対無理)

実際の危機が目の前に迫って、自分の気持ちがはっきりした。

嫌われたくなくて、大人しく良い子……良いゴブリンになったら絶対に後悔する。

この温もりは絶対に離してはならない。

足手まといでも、何もできることがなくても、絶対に離れない。

こう見えても海千山千の神官や貴族どもを相手にしてきたのだから、面の皮の厚さには自信がある。

ゼンが旅に出ると言うなら、絶対くっついていく。

知らない所で彼が失われてしまったら、新しいゴブリン生を受けた意味がなくなってしまう。

「骸忍移釣率穫衝療癌楼」

ポンポンと背中を叩いてくれる手に、アーシャはホッと息をついた。

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