14.幼児、武闘派の疑い

育児は体力勝負、と、聞いたことがある。

体力と気力を削がれ続ける、地獄のマラソンのようだと誰かが言っていた。

それなら高齢で禅一と譲の双子を育てた祖母は、地獄×地獄の真煉獄しんれんごくだっただろうな、恩返ししたいな、とは思っていたが、それだけだった。

育児自体は他人事のままで、体力の有り余っている自分なら余裕だと、心の何処かで思っていた。


しかし実際に触れ合う幼児はあまりにも小さくて、無力で、放置できない存在だった。

自分でご飯すら食べられないし、そもそも小さ過ぎてテーブルから顔が出ない。

一口ごとに美味しい美味しいと全身で表現するので、可愛過ぎて、ついつい沢山詰め込んでやりたくなる心を必死に抑え、問題なく消化できるであろう範囲で止めることに、物凄い心の労力がかかった。


ご飯が終われば、皿を下げようとする自分の真似したいのか、ヨロヨロと皿を持ち上げる。

禅一なら二十枚くらい重ねても運べそうな皿でも、幼児にとっては一枚でもヨタヨタだ。

圧倒的無力だ。

割って怪我をしたらと、慌てて止めたら、しょぼりと服の裾を握って俯いてしまう。

それならばと考えて、お箸を運ばせてみると、胸を張って両手で運ぶ。

流しに皿を置く禅一に、運んできた箸を誇らしげに渡す姿の可愛らしさと言ったら、筆舌に尽くし難い。


トイレも一人でできないのは当然だ。

毎回連れて行って補助便座に乗せて、終わったら補助便座を拭いてどかす。

トイレと言えるだけで満点なのに、申し訳なさそうにモジモジするのが可愛くも、可哀想である。

こんなにガリガリになるまで放置されていたのだ。

恐らくトイレにも、ろくに行かせてもらえなかったに違いない。

トイレと言えた事を積極的に褒めて、悪いことではなく、むしろ褒められる事なのだと意識改革を図らねばならない。

この子が膀胱炎に脅かされる未来だけは阻止せねばならない。


寝る前には必ず歯磨きを!と『若奥の会』に言われ、覗いたアーシャの口は、酷い状態だった。

歯茎は痩せ細り、歯自体も驚く程ガタガタだった。

カルシウムが摂れていないのか、虫歯にやられてしまったのか、歯と歯の隙間が大きく、どの歯も黄ばんで黒くなってしまっている。

これはどうしたものかと『若奥の会』に画像を送ると阿鼻叫喚だった。


これは絶対に歯磨きをしてもらっていない!

突然磨き始めるのではなく、ガーゼで拭いて、口の中に何かを入れる事に慣れさせてあげて!

毎食後に拭いてあげて!

等と、次々とアドバイスを受け、しっかり一本一本拭いた。

嫌がるかと思いきや、アーシャは不思議そうな顔をしながらも、無抵抗に口を開けてくれていたのが、幸いだった。

口の中をあっさりと触らせてくれるのだから、その信頼はかなり深いのではないだろうか。

『若奥の会』からは、お勧めの歯ブラシ、歯磨きジェル、小児歯科も教えてもらったので、早急に対応しなくてはならない。



この日、禅一がした事と言えば、三食とオヤツを作って、お風呂に入れて、トイレに連れて行った程度の事だ。

言葉が通じないから、優しい言葉をかけてやったわけでも、子供と触れ合ったことがないから、何か楽しい遊びをしてやれたわけでもない。

それなのに、この子はすっかり禅一に懐いてくれている。

皮と骨だけに痩せ細った体、流しても流してもとれないほどの垢、全く手入れされなかったせいでボロボロの歯。

禅一はこの子が、どんな過酷な境遇で育てられたのか、想像できない。

でもたった一日、ほんの少しの手助けをしただけの男に、こんなに深い信頼と親愛を示すのは、それ程救いが無い環境にいたのだろう事はわかる。

そう考えれば考える程、この子を大切にしてあげたい。


目をしょぼしょぼとさせながらも、禅一の足元で頑張っているアーシャを見たら、洗い物を先に済ませる事なんてできなかった。

布団に入れたアーシャは、何も言わずに枕に頭をつけた。

多分、電気を消して一人にしたなら、アーシャはそのまま眠っただろう。

しかし口をへの字にして、寂しさを押し殺すような顔を見てしまった禅一には、この子を独りぼっちで眠らせる事ができなかった。

子守唄の一つも歌えないデクノボウだが、彼女が眠るまでの孤独を薄める助けにはなるだろう。

そう思って横に転がったのだが、彼女は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。


禅一が横で寝るとわかった途端に、嬉しそうに、よいしょよいしょと寄ってくる姿が、何とも無邪気で、同時に可哀想だった。

こんなに誰かの温もりを望んでいるのに、この子はどれ程の孤独を噛み殺して一人で寝ていたのだろうと、思うだけで、心が痛んだ。

軽く抱きこむ様にして、ぽんぽんと背中を叩いてやると、アーシャは程なくして寝息をたてはじめた。


禅一も軽く眠気を感じながら、洗い物の続きと風呂を済ませようと、そっと起きあがろうとした。

「……………」

でもできなかった。

満たされた幸せそうな顔で眠るアーシャの目からは、次々に涙が溢れ落ちていたのだ。

突然知らない家に連れてこられて、言葉の通じない、幼児の面倒など見たこともない男しかそばにいない。

それなのにこの子は全く泣かなかった。

禅一を困らせるような事を、何一つしなかった。

その子が泣いている。

眠っているとしても、とてもそれを置いていけるはずがなかった。


せめてこの子が泣き止むまで。

楽しい夢の世界に旅出すまではそばにいよう。

アーシャの安らかな睡眠に比べたら、風呂も洗い物も課題も後回しで良い。

そう思って彼女の隣で転がっていたのだが、彼女の背中撫でながら、いつの間にか禅一も眠ってしまっていた。


大切に、大切に、壊さないように。

そうやって自分以外の誰かに絶えずに注意を向けるだけで、こんなに疲弊するなど禅一は知らなかった。

肉体ではなく、脳みそが疲れてしまっている。

普段は自分主体で見ている世界を、子供主体にカメラ位置を切り替える。

たったそれだけの事に対応するだけで、脳がフル回転して、疲れ切っている。


大切な存在といえば、弟がいるが、彼は対等な存在で、絶えず注意を向けなくてもしっかり生きていける。

大人と子供では根本的に気を使う部分が違う。

食事や排泄など、生活の基本が一人ではままならない、目を離したら死んでしまいそうな存在だから、常に自分の中の神経をアクティブに保ち続け、気に留め続ける必要があるのだ。

気楽な一介の大学生には中々荷が重く、我知らず疲れ切っていた。



お陰で禅一は一回も目覚める事なく、次の日の朝を迎えてしまった。

玄関を叩く音に、深い睡眠を中断された時には、状況が飲み込めなくて、呆然としてしまった。

どちらかと言えばショートスリーパーで、猫のように浅く眠り、何かあったら即起動出来たはずなのに、頭がぼんやりとする。

「しまった!!」

そして朝日が差し込み、点けていた電気が、すっかり存在感を無くしていることに気がついて、飛び起きる。

その衝撃で抱き込んでいたアーシャかコロンと転がって、驚いたように目を見開いている。

禅一は慌てて毛布で彼女を包み直す。

「まだ寝てて良いからな」

そう言ってみたけど、通じたかどうかはわからない。




玄関は叩かれ続けている。

「どちらさんだ」

朝日は完全に上っているが、まだ七時を少し回った頃だ。

少し不機嫌に問いかけると、磨りガラスに写った影は頭を下げる。

「あ、早くからすみません。あの、朝ご飯に間に合えばと思いまして」

「………?」

禅一は首を傾げる。

この声は最上の息子のどれかだ。

全員驚く程性格が似ていて、粗暴さと尊大さが滲み出た口調なのが特徴だ……ったはずなのだが、妙に腰が低い。

丁寧に喋っても、所詮婚外児と見下げているのが透けて見える、慇懃無礼な態度だったはずなのに、おかしな事もあるものだ。


「あの、朝から市場に行って、良さそうな物を仕入れてきました」

今までなら、まともに話す気すらしなかっただろうが、相手の丁寧な話し方に禅一は戸惑う。

「……有難うございます。身支度ができてきないのでそこに置いておいてもらえますか」

『礼儀には礼儀を、無礼には無礼を』が禅一のモットーであるが、対面を避ける。

深く眠っていたせいで、まだ体が覚醒し切っていないのを感じるのだ。

相手は突然礼儀正しくなったが、昨日の今日なので、朝駆けで襲撃されないとも言い切れない。


せっかくの心配りに対してその態度か!と激昂するかと思ったのだが、玄関の外の人影は大人しく「はい」と答えた。

そして玄関先に何か置いて、人影は一歩下がる。

その上で深々と頭を下げる。

「あの……すみません。昨日まで、その……宗主の息子さんに対して、失礼な事を」

「は、はあ………???」

狐につままれる、とはこの事だ。

憑き物でも落ちたかのように、まともな対応をされ、禅一は戸惑うしかない。

昨日まで嫌な奴の見本で、見事な産廃だと思っていた相手が、別人になってしまった。


全く意味がわからない。

まだ夢の世界を彷徨っているのかもと、頬をつねってみるが、確かに痛みを感じる。

禅一は警戒しつつ玄関を開け、素早く玄関先に置いてあった段ボールを室内に引き込み、扉を閉める。

段ボールの中には白い『車海老』と書かれた箱と、人参、キャベツ、白菜、ブロッコリー、ゴボウと謎のラインナップの野菜が入っている。

どういう基準で選んだのか理解に苦しむ野菜に、車海老という、全く朝食に使えなさそうにない品々で、そこだけ元の無能さの面影が残っていて、逆に安心してしまう。


不可解な相手の様子に眉を顰めていたら、玄関にちょこんとアーシャが顔を出していた。

不安な様子でこちらを見ているのが、臆病なウサギのようで、禅一は頬が緩む。

「アーシャ」

呼ぶと、パッと顔が明るくなって、幼児特有のペタペタという足全体で歩く足音を立てて、アーシャは走ってくる。

「結局起こしてしまったか。すまなかったな」

腰を落として手を広げると、迷う事なくアーシャは禅一に飛び込んでくる。

それを危なげなく受け止め、段ボールを小脇に抱えて禅一は立ち上がる。

「大丈夫。怖いものは無い」

怖々と段ボールを覗き込んでいるので、安心させるように笑って、取り敢えず彼女をトイレに連れて行った。


そして、まだ少し眠そうなアーシャをコタツにおいてから、禅一は前日の洗い物から片付ける。

(米を研いで……お急ぎモードで炊いて……)

アーシャがお腹を減らしていると思うと、妙に焦る。

洗い物だけでもしておくべきだったとか、米だけでも予約炊飯にしておけばよかったとか思っても、後の祭りだ。

急いで洗った炊飯器に、米を入れて、手抜き気味に研いで、お急ぎモードで炊く。


お腹を減らしているなら、残りのリンゴでジュースでも作ろうかと思ってアーシャを見たら、

「まにぅい!!」

いつの間にか足元までやって来ていた。

そして興味津々な様子で、朝一に運ばれて来た段ボールを覗き込んでいる。

ゴボウに興味を持っているらしく、取り出して、びよんびょんとしならせている。

「ゴボウが好きなのか?」

禅一が持てば小枝のように見えるゴボウが、アーシャが持つと大きな杖のように見えるのがおかしい。


ガンッ。

微笑ましく見守っていたら、突然そんな音がして、禅一とアーシャは顔を見合わせる。

「………」

「………」

音は間違いなく、白い段ボールの内部から聞こえた。

「おいおい……まさか、だろ」

呟いきながら、禅一はその白い段ボールを取り出した。

持ってみたら、ガサゴソと、中で何かが蠢いているのがわかる。


まさか。

そんなまさか。

一般の男子学生に、大した料理スキルもない人間に、そんな物を渡すはずがない。

いくら最上の息子とは言え、そんなにポンコツであるはずがないと、禅一は一縷の望みをかけて、段ボールを開封し、

「何で生きてるエビなんか寄越すんだ………!!」

おが屑の海でワサワサと動いている車海老に、頭を抱える。

無論、生きた海老を調理した経験なんて、禅一にはない。

エビなんか買ったとしても、殻も剥いた状態の冷凍エビか、ほぼ衣で構成された、お安い外国加工の海老フライ用のエビだ。


大体、『朝食に』と、生きたエビを贈ってくるなんて悪い冗談だ。

朝ご飯にかける手間なんて、パンをトースターに突っ込む程度の禅一には、とても笑えない。

自分で朝食の支度なんてしない、贅沢に慣れ過ぎている最上の子供たちは、感覚がバグっているとしか思えない。


手荒に段ボールを閉めて、禅一は生きたエビのシメ方を、スマホで検索する。

「氷につけて動きを止めるのか……氷なんか作ってないしな……今の時期なら水でもいけるか……?冷凍庫にそのまま突っ込むか………?」

しかし出てくる方法を実行しようにも、冬のこの季節、大量の氷なんか作っていない。

いっそ低温の逆で、茹でたお湯に突っ込んでみようかと、禅一は悩む。


「おひゃっ!!!」

そうやって禅一が目を離していた隙に、白い段ボールを覗き込んでいたアーシャが仰け反る。

少しだけ開いた段ボール、飛び散るおが屑、アーシャの顔の上辺りを舞う縞々の車エビ。

それを見ただけで、状況は瞬時に飲み込めた。

座って段ボールを覗き込んでいたアーシャの顔に、活きの良いエビがアタックをかましたようだ。


「アーシャ!!」

慌てて支えようとしたが、間に合わない。

アーシャは尻餅をついて、後ろに倒れ込み、彼女の足が車エビとおが屑の詰まった段ボールを蹴り飛ばしてしまう。

派手に舞い散る、おが屑とエビ。

被害が甚大になって行く様に、禅一は思わず呆然としてしまう。

「ひーーー!!!」

運が悪い事に、後ろに転けてしまったアーシャの顔面に、再び水棲生物が元気なボディアタックを食らわせる。

お前ら陸上なのに元気過ぎるんだよ、と、思わざる得ない。


物凄い状態だが、まずはアーシャを助け出さないといけない。

「あんにむにゃみぃ!!」

しかし助け起こそうとしたアーシャは、ぴょんっと身軽に立ち上がったかと思ったら、ヒュンヒュンとゴボウを回し、遠心力をのせたそれをエビに叩きつけたのだ。

「……………」

あまりの事に、禅一は再び呆然としてしまう。

見間違いか、ただの偶然だろうか。

最初の打撃を見た時はそう思った。

そう思いたくなる程、遠心力をのせたゴボウは、正確過ぎるほど正確にエビの頭を打ったのだ。


弾けるエビ、舞うおが屑。

打ったゴボウは、なおもヒュンヒュンと回され、次のエビを打つ。

第二打も遠心力で生まれた力を殺す事なく、上手くエビの頭を捉えた。

「しゃむにゅまみぃみん!!」

「とあっ!」

「とやっ!」

呆然と見守る禅一の前で、アーシャは次々とゴボウを振り回し、エビを仕留めていく。

乱舞する幼児、エビ、おが屑、そしてゴボウ。

AIが作った趣味の悪いB級アクション映画のようだ。


思わず、禅一は持っていたスマホで動画を撮り始めた。

下半身がぶれるのは筋肉がついてないから仕方ない。

しかし体はぶれているものの、ゴボウへの力の乗せ方、正確な打撃は素人技ではない。

禅一は今自分が見ている物が、白昼夢ではないと否定できない。

何か証拠を残しておかないと、自分自身の記憶すら信じられない。

一メートルにも満たない、見た目はほぼ赤ちゃんの幼児が、インフィニティを描くようにゴボウを振り回し、左右のエビを打つ。

こんな事があり得るのだろうか。

ゴボウは全てエビの頭部を捉え、台所を見事なスプラッタ現場にしていく。


動くエビがいなくなった時、これで終いとばかりに、アーシャは二転させたゴボウを脇で受け止めた。

呆然としながら撮影していた禅一もそこで、撮影を止めた。

振り向いたアーシャは『やってやったぜ!』とでもいうドヤ顔で、頭からおが屑をかぶっている。

この台所の惨状から、本当のところは叱って、こういう事はダメだと教えないといけないのだが、あまりのドヤ顔に、その気が失せてしまう。

「……まぁ、シメる手間がなくなったからいいか」

アーシャの頭に積もったおが屑を払いながら、禅一は笑ってしまう。


気楽に殺生はすべきでないと教えるべきなのだろうが、今は教えるべき言葉がない状態だ。

まずは言葉を教えて、それから倫理も教えていかなくてはいけない。

そんな事を思いながら、禅一はボウルにエビを集め、キッチンペーパーを出して、惨劇の跡を拭いていく。

ザッとおが屑を寄せて、少しづつ拾い、段ボールに戻す。


「みむぅいんにぃ……」

その隣でアーシャがしょんぼりとした様子で呟く。

エビが動かなくなって、熱狂が去って、我に返ったのだろう。

多分謝ってくれているのではないだろうか。

言葉が通じなくても、反省しているのが伝わる。

頭を下げたアーシャは、禅一の横でせっせとおが屑を集め始める。

「良いんだ。次から気をつけような」

だから禅一も言葉が通じなくても、そう言う。

ヨシヨシと撫でて怒っていない事を、伝える。

するとアーシャは一瞬泣きそうな顔をした後、グッと歯を食いしばって、物凄い速さでおが屑回収を始める。


(ある程度集めたら後は掃除機をかけようと思っていたんだが……)

小さな手で集めては拾い、拾っては段ボールに入れている。

熱心に、三倍速くらいで、せっせと床をピカピカにしていくアーシャを止められない。

止める隙がない。

禅一の子供のイメージは、飽きっぽい汚し屋なのだが、アーシャはカサカサと動き回り、熱心におが屑を集め続ける。

(これならもう拭いたほうが早いな)

禅一はそう判断して、軽く濡らしたクッキングペーパーで、あらかた綺麗にされた床の上を拭いていく。

最後におが屑だらけのアーシャの服を払って、掃除は完了だ。


「アーシャは寝てて良いんだぞ」

とは言ったものの、通じる様子はない。

キラキラとした目で禅一を見つめている。

手伝いたいのか、観察したいのか。

よくわからないが、小さい体で伸び上がって、禅一の手元を覗き込もうとしているので、テレビ前に置いているスツールを持ってきて、彼女をのせてやる。

それでも小さな彼女は、ようやく調理台の上に頭が出るくらいだ。


エビのおが屑を洗い流し、潰れた頭を取りながら背腸を外し、殻を剥く。

先程スマホで調べたニワカ知識で、禅一はエビの処理をする。

頭が潰れても、取られても、処理中にエビが跳ねる事があり、その時はアーシャと一緒に叫ぶ。

そして叫んだ後は二人で

「ビックリしたな!」

「あちまむぅいなな!」

と言い合う。

幼児にはこんなの恐怖でしかない気がするが、アーシャは目を丸くしながら調理の様子を見ている。

いつの間にかしっかりと禅一の太ももに掴まっているのが、信頼の証のようで、彼はひっそりと笑う。


冷水で流して、片栗粉をまぶして良く混ぜ、もう一度流して、綺麗に拭く。

滑りをとって、禅一が知る『エビ』の形になった物を、五尾だけ残して、後は冷凍する。

アホのように量があるので、とても朝ご飯だけでは消費しきれない。

後日、アーシャの調子が完全になったら、エビフライを作ってやろうと、ひそかに禅一は心に決める。


雑炊に入れるには、ちょっと大きすぎるし、アーシャの口に入りきれないので、勿体無いが、エビは小さく刻む。

そして炊き上がったご飯、小さく刻んだ野菜、練りチューブの生姜や、鶏がらスープの素を入れたりして、仕上げていく。

アーシャの好きな卵も加えたい所であったが、昨日の夕飯で使い切ってしまっていたので、残念ながら諦める。


禅一としては七十点くらいの雑炊だが、小皿に少しとって味見をさせると、アーシャは頬を押さえて、クネクネと踊り始める。

「うぃにぃあぅ!うぃにぃあぅいぃ!!」

お得意のダンシングフラワーの舞いだ。

あまりにプリプリと体を動かすので、スツールから落ちそうだ。

禅一は苦笑して、踊るアーシャを抱き上げて、コタツに移動させる。

「あ、あ、あ〜」

アーシャの目は鍋に釘付けだ。

遠ざかる鍋を残念そうな声が上がる。

そんなアーシャの頭を撫でて、禅一は朝食の準備をする。


とは言っても、アーシャと自分の取り皿を持って行って、鍋敷きとお玉を突っ込んだ鍋を持っていくだけだ。

鍋をコタツに運んで行った時のアーシャと言ったら。

嬉しさが最高潮に達したらしく、ハワハワと言いながら、流れるヨダレを必死に飲み込んでいる。

おいでと膝を叩くと、驚く速度の四つ足歩行で、禅一の膝に収まってしまった。

物凄い順応性と食欲だ。


アーシャの器には出来るだけすぐに食べられるように、雑炊の上を掠めるようにして注ぎ、最初はエビを少な目に入れる。

お腹はすごく減っているだろうに、一口づつ交換で食べるルールを律儀に守りつつ、アーシャはハフハフと幸せそうに雑炊を頬張る。

一口目はご飯だけを、そして二口目には海老のかけらを入れてみる。

「〜〜〜〜〜〜!!!」

すると、幸せそうに食べていた顔が、目を見開いた状態で固まる。

そして固まった顔のまま、口だけが高速に咀嚼を始める。

ちょっとしたホラーのような絵面だ。


ゴクンと嚥下して、プルプルとアーシャは震える。

「うぃにぃあぅうううう!」

そして雄叫びを上げる。

目がキラッキラで、ロウのように正気のない肌が桃色に色づいている。

頬を押さえての鳥の求愛ダンスのような動きも、早速始める。

どうやらエビは彼女のお気に召したらしい。


輝く目に急かされながら、禅一は次々と彼女にエビ入り雑炊を与えていく。

うにゃうにゃと何事か言いながら、左右に振れて踊る幼児は無邪気の一言に尽きる。

(こう見たらただの子供なんだけどなぁ)

匙に飛びつく姿を見ながら禅一はそう思う。


しかしながら彼女は自身では動けない状態で、誰も入れないはずの、いわくつきの禁域で倒れていた。

痩せ衰えた、垢だらけの体や、虫歯だらけの口を見れば、凄惨な環境で育った事は明らかだ。

放置されていた、ネグレクトの被害者かと思いきや、禅一にも出来ないを練り上げて飛ばす技術を持っていたり、魂が抜けた最上を治療した。

そして極め付けが、先程のゴボウによる正確な攻撃だ。

偶然では決して出来ない、ゴボウさばきだった。

あれは修練していないと決して出来ない動きだ。


ネグレクトされていた子供が、武術だけ叩き込まれた?

そんな馬鹿な、と、その考えは否定する。

武術をやらせるなら、体も絶対作ってやるはずだ。

この子は全てがチグハグで、どうしてやるのが一番なのか、社会経験の少ない若造には決めかねる。

教え込まれている武術を、先程の映像から、割り出せるかもしれない。

そこから芋づる式に彼女の身元もわかるかもしれない。

でもこの子をこんな悲惨な状態にした奴らに、この子を返すことは、正しいとは言えない。

さりとて全く無関係で、何も知らない禅一が、沢山の謎を抱えた彼女を育ててしまって良いのだろうか。


(譲に相談したいところだが……)

禅一の脳裏に、頼りになる弟の顔が浮かぶ。

そしてアーシャを引き受けると言った時の、彼の剣幕も思い出す。

(賛成はしてもらえないだろうな)

雑炊を幸せそうに頬張るアーシャに、禅一は既に肩入れしてしまっている。

この子が幸せになれる環境を、出来れば自分の手で、しっかりと与えたいと思う。

でもそれがこの子にとって最善かがわからない。

圧倒的に足りない経験値と、アーシャの特殊さが、迷いを生む。


「うぃ〜〜にぃぃ〜〜」

悩む禅一にアーシャは笑いかける。

「ああ、旨いな」

何を言っているかわからないが、禅一は答える。

(まぁ、最善を尽くすしかないな)

そして空っぽになったアーシャの器に、今度はたっぷりとエビを入れて雑炊をつぐのであった。

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