13.聖女、美味な怪物を知る

明日もゼン様と一緒にいられますように。

こんなに希望に満ちた事を願いながら眠った事など、あっただろうか。

そう思う程、満ち足りた気持ちでアーシャは眠りについた。

人間として生きていた頃は、気絶するように眠っていたのに、ゴブリン生一日目は、ひたすら食っちゃ寝していたので、幸せな一日を振り返る余裕すらあった。


至福のご飯の後は、器を下げるぐらいのお手伝いをと思ったけど、謹んでお断りされてしまった。

小さくても皿くらいは運べるのだが、運ぼうとすると慌てて取り上げられて、結局アーシャが運んだのは『ごはん』を食べるのに使った、小さな木の棒四本だけだった。

それだけなのに、頭を撫でてもらって、凄く褒められた。


ゼンは本当に良くアーシャを褒めてくれる。

それこそ、用を足したい事を伝えただけでも褒めてくれる。

その度にあの排泄用の椅子に座らせてもらって申し訳ないのに、ゼンは毎回『良く言えました!』とばかりに褒めてくれる。

おかげで、介助なしに用を足せないアーシャが、申し訳なくて言い出せなくなるという事が全く無い。

アーシャを椅子に座らせて、一度外に出て待ち、呼ばれたら戻って紙を渡して、拭いたら椅子から下ろして、アーシャの手を洗う。

一回だけでこんなに面倒臭い作業があるのに、全く嫌な顔をしない。

神とは言え、懐が深過ぎる。


懐が深いと言えば、眠気を感じながらも、ゼンのそばを離れ難くて、何か作業をしている彼の足元で頑張っていたら、彼はわざわざ作業を中断して寝床に連れていってくれた。

そしてそのまま置いていかれるのかと寂しく思っていたら、添い寝までしてくれたのだ。

あまりに甘え過ぎな気がしたが、右も左も分からない神の世界で、彼が付き添ってくれたおかげで、アーシャは安心して目を閉じる事ができた。

誰かの庇護がある。

その事実は驚く程安心できて、目を閉じてもそばにある体温はアーシャの緊張を解いた。

気絶するように眠るのではなく、穏やかな気持ちに包まれて誘われる眠りは、幸せ過ぎて涙が出た。


眠りが浅くなる度に、触れる温もりがある。

兄たちと団子のようになって眠った、幼い頃に戻ったような気がした。

いや、あの頃よりずっと穏やかかもしれない。

兄たちの足に踏み潰される事も、不自然に曲がって眠る事もない。

壁の穴から吹き込んでくる風も、体を湿らせる夜露もない。

力強くて温かな腕や体、そしてフワフワの布と毛布に守られて、深く深く眠ることができた。

その眠りは、朝日が差し込んでも全く目覚める事が出来ないほど、深かった。



そして目覚めは唐突に訪れた。

ドンドンと扉を叩いて、何かを叫んでいる声に、

「奮悼琵類!!」

隣で飛び起きるゼン。

彼は目を開けたアーシャを見ると、しまったという顔をして、首まで毛布に包んでくれる。

「泡宏崖刺琢惹宛蛙鰐な」

そしてアーシャの頭を撫でてから、急いで音の方へ行ってしまう。


昨日の磨り硝子の扉の方で、ゼンと誰かが話す声がする。

せっかく包んでくれたが、気になったアーシャはモソモソと起き上がる。

起きたら即行動派だったのだが、眠りが深かったせいか、体がまだ眠っているようで、上手く動けない。

気持ちの良い毛布に顔を埋めて停止したり、ゼンの残した温もり部分で倒れてみたりしながら、アーシャは何とか寝床から這い出る。

足はもう完全復活していて、震える事もない。

(……でも私、こんなにガニ股だったかしら?)

真っ直ぐにならない股関節に疑問を感じつつ、アーシャはゼンを追う。


アーシャが到着した時、丁度客が帰ったようで、ピシャンとゼンは扉を閉めていた。

「アーシャ」

何か考え事をしている顔だったので、声を掛けるか迷ったアーシャだったが、彼女に気がついたゼンが先に呼びかけてくれる。

破顔した彼が嬉しくて、アーシャは駆け寄る。

「傾朕瑚竺詠武寒帳仰たか。す香誓眼珊購な」

すると、当然のようにゼンは腕を広げてくれる。

嬉しくてアーシャは、勢い良くその腕に飛び込む。

ゼンはしっかりとそれを受け止め、抱き上げてくれる。


ゼンは右腕でアーシャを抱っこし、左の小脇に何やら箱を抱えている。

それは一見木箱のように見えるのだが、何処にも継ぎ目や釘が見えないし、画布に書いたような鮮やかなオレンジの絵が、表に書いてある。

「?」

しかもその箱から何やらカサカサと音がするのだ。

虫でも入っているのだろうか。

「郭惰讐。鱈峠制臨樽漆い」

ジッと観察していたら、ゼンが優しく笑いかけてくれる。


ゼンはアーシャを排泄部屋に連れて行ってから、昨日の布団付きテーブルに下ろす。

離れる時にゼンが頭を撫でてくれたのは、ちゃんと待っておくことに対する『褒め』の前払いだろう。

まだ眠気は去っておらず、油断したら瞼が下がってくるので、アーシャは大人しく テーブルから垂らされた布団に潜り込む。

「!!!」

ひんやりとした感触を予想していたのに、布団は人肌に温められていた。

それどころか、足を突っ込んだ先は凄く温かい。

まるで暖炉の前のようだ。


(まさかこんな所に火が入っているの!?)

布のそばで火を燃やすなんて自殺行為だ。

驚いて布の中に頭を突っ込むと、中はオレンジ色の光に満たされている。

「???」

アーシャはテーブル上部についた光源を見る。

黒い放射状の囲いの中に、火を閉じ込めたような、丸い管が収められている。

これが熱源のようだ。

手を近づけると熱を感じる。

(凄い……!!火をこの中に閉じ込めているのかしら?小さなお日様みたいだわ!!)

もう驚かない、驚かないと思っているのに、神の世界は凡人の想像を超えていくので、驚かざるを得ない。

この小さな太陽の熱を逃がさない為に、布団が四方に垂らされているのだ。

囲いを布団にするなんて天才だろうか。

(凄い……布団で寝転びながら、暖をとりながら、テーブルで食事も出来てしまうなんて……流石神様!!合理的かつ欲張りだわ!!)

すっかりあったまって、顔が火照りだしたアーシャは布団から顔を出す。

布団でヌクヌクで、中に入れた足もヌクヌク。

これは天国の中の天国だ。



アーシャは寝転がって、暫くその天国を楽しんでいたのだが、どうにもカサカサという音が耳につく。

ゴロンと起き上がると、先程のオレンジの絵のついた箱が目に入る。

「…………」

怪しい。

とても怪しい。


アーシャはスポンと天国のお布団から抜け出して、箱に近寄っていく。

「紙だ!!!」

そして箱に触れて驚いてしまう。

神は紙が好き。

それは昨日一日で理解していたつもりだったが、まだまだ理解が足りていなかった。

何と木の箱と思っていたそれは、二枚の紙の間に波型にした紙を入れて硬さを増した、紙の箱だったのだ。

普通に木箱ではなく、木箱っぽい物を紙で作るとは。

神の紙にかける執念を見たような気がした。


驚きながら箱の中を覗き込むと、中には人参や葉物野菜、雲に茎がついたような濃い緑の野菜、そして何故か木の根っこが入っている。

「………?」

神は木の根っこも食べるのだろうか。

根っこを掴みながら、アーシャは首を傾げる。


そのアーシャの隣に、洗い物をしていたらしいゼンが、手を拭きながら、座る。

「惚錆揮泳髭采云のか?」

ゼンは笑いながら木の根を指差す。

もしかして、この木は霊木とかの根っこで、霊験あらたかな物だと教えてくれているのかもしれない。

ゼンに木の根っこを渡そうとした時、箱の中から一際大きな音が鳴った。


カサカサなどと可愛いものではなく、ガンッと中から何かがぶつかった音だ。

「………」

「………」

ゼンとアーシャは顔を見合わせる。

木の根っこを含む野菜の下に、白い箱がある。

その中から確かに音がした。


ゼンは無言でその白い箱を手に取る。

「おいおい……旨肺倍、古苫」

箱を見たゼンは何か呟く。

箱には赤いインクで、何かの図形と、頭が不恰好に大きくて、髭のある、ムカデのような絵が書いてある。

ゼンは箱の真ん中に爪を立て、一直線に破る。

そしてベリっと大きな音を立てて箱を開き、そっと箱の中を覗き込み、

「釧冥性琵圏咲轡瑛夙覇公比堀縞甥だ………!!」

何かを小さく叫びつつ、頭を抱えた。


ゼンは激しく箱を閉じて、何やらブツブツと呟きながら、彼の手の平ほどの金属板を触り始める。

「?」

何か困った物が入っていたのだろうか。

興味を引かれたアーシャが白い紙の箱を見ていると、ゆっくりゼンが閉じた部分が開き始めた。

上に貼ってあった紙を破ったから、開き易くなってしまったようだ。

アーシャは興味津々で開いた部分を覗き込む。

箱の中には木の削りカスのような物がびっちりと詰まっている。

「………?」

その中で何か動いた気がして、アーシャはしゃがみ込んで顔を近づける。


その瞬間の出来事だった。

「おひゃっ!!!」

箱から『何か』がアーシャの顔にぶつかってきたのだ。

びっくりして立ち上ろうとしたのだが、多少ガニ股気味になったゴブリン足は、思った以上に貧弱だった。

ガクンと力が抜けて、間抜けにも後ろにひっくり返ってしまう。

「アーシャ!!」

慌ててゼンが抱き止めようと手を伸ばしてくれたが、地面と尻の距離が近すぎた。

べチャリと尻餅をついて、貧弱な足が硬い物を蹴飛ばしてしまう感覚がした。


「!!!!!!」

アーシャの視界には舞い散る木屑と『何か』が映る。

それはムカデのように沢山の足と、縞模様の甲羅を持った生物だった。

頭部が異様に大きく、体の三分の一くらいを占め、その下から生えている足は長くて、数も多い。

頭部からは足の他に、真っ黒な目が飛び出していて、気持ち悪い。

胴体は同じ短さの足が何対も生えていて、ムカデとは違う、扇状の尻尾が付いている。

大きさはアーシャの顔の端から端まで、一直線の痛みを与えられるほど。

妙に長い、髭のような触角をワサワサと動かし、時々体を丸めて、凄い力で跳ね上がる。

「ひーーー!!!」

足がないミミズやヘビなどは、全く平気なアーシャであるが、足が多いのは無理だ。


昔、遠征の時に苦しめられた大ムカデが脳裏にちらつくのだ。

足の一本一本が鋼のように硬く、その一本二本を切り落としたところで、全く衰えない動き。

掠っただけでも、人間が肉饅頭のように真っ赤に膨れ上がる恐ろしい毒を持つのに、その毒牙がある頭を落とさないと死なないのだ。

足や胴体に邪魔されながら、決死の特攻で毒のある頭部に向かっていく騎士たち。

次々と倒れる騎士たちを、毒にやられて死ぬ前に引っ張り出して、回復させなくてはいけないアーシャ。

脅威は毒だけではなく、その鋼のような体から繰り出される一撃一撃も命を奪う程の威力を持っていた。

全員命懸けの恐ろしい討伐だった。


足が多い奴は敵。

殲滅すべき脅威。

二度目の顔へのダイブを受けたアーシャの中で、戦いのゴングが鳴った。

「この中ムカデ!!」

神のお膝元で許されぬ蛮行だ。

ゼンの顔にアタックをかけられる前に、やっつけてやらねばならぬ。

木屑だらけになったアーシャは、手に持っていた、木の根っこを構える。

「とやっ!!」

ブンブンと振り回してムカデもどきの頭を打つ。

愛用の錫杖より、かなり短い上に、ビヨンビヨンとしなるが、悪くない。

正確に狙った場所を撃ってくれる。

流石霊木の根っこだ。


ちっぽけなアーシャだからこそ顔面激突を食らうのであり、大きなゼンはやられても膝アタックくらいの物なのだが、気が付かないアーシャは、大切な神様を守るため奮闘する。

ヒュンヒュンと木の根っこを回し、勢いをつけ、敵を撃つ。

杖術は聖女の嗜みである。

聖女は一般人が思うように、乳母日傘おんばひがさで守ってもらえる存在ではないのだ。

最前線で騎士たちと共に戦い、癒さねばならないので、無力でなどいられない。

癒す前に死んだら誰も救えない。

だから死に物狂いで戦う力も手に入れてきたのだ。


正確な打撃により、木屑の中で蠢く化物は駆逐されていく。

あらかた片付けたか、と言う頃、ピロリンっという不思議な音が聞こえて、アーシャは振り向く。

そこには金属板を構えたゼンが立っていた。

呆然とした顔をしていた彼だが、荒ぶったお陰で、木屑だらけのアーシャを見て、苦笑した。

「……まぁ、湊町志習団件習玖螺重傘玩朕賠赫か」

そして何事か言いながら、アーシャが頭から被った木屑を取り除いてくれる。


綺麗になったアーシャを見て、ひとつ頷いてから、ゼンは銀の大きな器に、アーシャがやっつけた中ムカデを拾い集め始める。

「……あ」

中ムカデの撤去が終わって、紙を雑巾のようにしながら、ゼンは床を拭く。

それを見て、アーシャは自分が作り出した惨状に気がついた。

ゴミ一つなかった清浄な神の住まいには、木屑が飛び散り、潰れた中ムカデの体液がこびり付いたりしている。


「ごめんなさい……」

アーシャはしゃがんで、自分の大立ち回りで飛び散った木屑を拾い集める

多足類を前に感情が振り切れて、考えなしの大暴れをしてしまった事が、ひたすら申し訳ない。

せめて自分がここを綺麗にせねばと手を動かすアーシャの頭を、大きな手が撫でてくれる。

「桔樫複鵜。校賊片香来項銭帰働な」

闇より深い黒の目が、優しくアーシャを見つめ、全てを赦したような顔で笑う。

怒りもしない、度量の大きさに、アーシャは涙が出てしまいそうだ。

こんなにやらかしても、怒鳴りも叩きもしないなんて、ひたすらにゼンは優しい。

(……神………いや、本当に神様だった……)

その優しさに応える為に、アーシャはせっせと木屑を集めて回る。


そんなアーシャを労わるように撫でて、ゼンは台に向かう。

昨日から観察してわかったのだが、この台は料理をする所のようだ。

独立した部屋ではなく、かまどや水瓶はないが、神の力で火もつくし、水も出てくるし、煙たくもならない。

凄い奇跡だ。

そこに先程の中ムカデがのせられたという事は……

(あの怪物をゼン様は食べるの……?あの足の多い生き物を……?)

食材なのだろう。


あの怪物が料理されるなんて、怖さ半分、好奇心半分。

ゼンの出す、天上の食物は、もれなく美味しい。

きっとあの怪物も美味しく調理されるのだろうが、その過程が気になる。

アーシャが伸び上がって、ゼンの手元を見ようとしていたら、ゼンは足台を持ってきて、アーシャをその上にのせてくれた。

至れり尽くせりである。


ゼンは中ムカデを水で洗い、頭と体の継ぎ目に親指を入れ、上手にもぐ。

(あれは……怪物の内臓?)

つるるっと頭にくっついて出てきた糸のような物をアーシャは凝視する。

カエルの卵のように、透明な中に時々黒い物が混ざっている。

そしてゼンは手際よく中ムカデの甲冑を脱がせる。

一緒に足まで取れると、黒みがかった半透明の肉だけが残る。

(甲冑を脱いだら幼虫になった……)

その丸まった姿は、土の中から掘り返された白い幼虫を思わせる。

足がないから、そこまでの気持ち悪さはないが、出来れば口の中に入れたくない。


「ひーーーー!!!」

「うわっ!!」

しかも奴らは、頭がなくなっても元気に跳ね上がったりしやがる。

驚いて飛び上がったアーシャを、瞬間的に、ゼンが抱き止める。

実際は転落を危惧したのだろうが、それはまるで守ってもらっているようだった。

「……………」

誰かに庇護を受ける。

そんな事、今までなかったので、お尻やお腹がモゾモゾする。

嬉しいような恥ずかしいような。

「芦俳蔽刺邸たな!」

アーシャを保護してくれる神様は、輝くような白い歯を見せて、太陽のように笑う。

「びっくりした!」

アーシャが言葉を返すと、ますます彼は楽しそうに笑う。

生物の匂いが多少生々しくまとわりついているが、素敵な笑顔だ。


アーシャが何をしても殴ったり怒鳴ったりしない。

たくさん褒めて、守ってくれる。

(………お父さんってこんな感じ………?)

そっと彼の服を握ってみる。

戦神らしく、服越しに触った彼の足は驚く程硬い。

それと同時にとても温かい。


その熱を感じると、離れ難い吸引力を感じて、アーシャは彼の足にくっついてしまう。

それに気がついたゼンは、台の横にピッタリとくっついて立ち、アーシャが無理な体勢にならなくても、足にくっついていられるようにしてくれる。

「………」

何だか嬉しくなって、アーシャは大きな彼の腰回りに張り付く。

頬や胸、両腕に感じる熱のおかげで、胸の中まで温められているようだ。

(お父さん)

と、神を呼ぶのは烏滸がましい事だが、サイズの違いもあって、甘えても許される気がする。


アーシャが密やかに甘えている間も、ゼンは作業を進め、剥いた身に白い粉をかけて揉んだり、洗って綺麗に拭いたりしている。

トントンと野菜と一緒に切られて、先程まで不気味だったあの肉も、すっかりただの挽肉になってしまっている。

(お父さんは料理も上手)

アーシャはそれを見ながら、心の中で一人家族ごっこに興じる。

ゼンは時々水を出して手や包丁を洗ったり、鍋を取り出したりするが、アーシャがくっついている足が動かないように器用に動く。

大きく移動するときは、アーシャを片手で抱え上げてくれる。

まるで赤ちゃんのお世話をする、お母さんのようだ。


「ふぁぁ〜」

グツグツと煮込まれる鍋の中で、先程の黒っぽくて不気味だった肉が、鮮やかな薄紅と白の、おめでたい感じの色に染まる。

漂ってくる匂いも相まって、凄く美味しそうだ。

工程をずっと見ていたのに、元があの怪物だとはとても思えない。


生唾を飲み込むアーシャに、ゼンは悪戯っぽく笑い、彼女を足台に戻すと、鍋の中身を小皿に掬った。

フー、フー、と冷ましてから、その小皿はアーシャの口元に運ばれてくる。

鳥なんて全く入れた形跡がないのに、美味しい鶏肉の匂いがして、アーシャは小皿に吸い付く。


「はふっはふっ!!」

こんな短時間で作ったのに、信じられないくらい奥深い味で、舌と、それに繋がる喉が鳴る。

勢いで飲み込まないように、口の中に留めておくのが難しい。

まるで味を独占する舌に嫉妬しているかのように、喉が『早く、早く』と嚥下を促す。

それを堪えて、少し入った、白い粒々を噛めば、コクのあるスープが、ほんのりとした甘味に絡み、なお一層旨い。

あまりの旨さに、もう喉の要求を跳ね除ける事ができなくて、ゴクンと飲み込んでしまう。

「美味しい!美味しいぃ!!」

叫ばずにいられない美味しさだ。

あまりの旨さを発散させるために、体も大きく動いてしまう。


塩、鳥、そして……これは何だろう。

『魚』を入れたと聞いたスープを飲んだ時に、感じた味に近い気がする。

旨味もあるのだが、少し生臭さが鼻につく、これが『海』とやらの味か、と思った味。

あれから生臭さを引いたら、きっとこんな味に違いない。


王都の近くの川は糞や尿、その他の生活排水に汚染され、およそ魚など住める状態ではないので、アーシャは生きている魚を、ちゃんと見た事がない。

行軍の時には澄んだ川もあったが、地響きのような馬蹄の音に怯えた川魚が姿を表す事はなかった。

干物になって売っている魚を見た事はあるが、庶民の主食は歯が折れそうなパンと薄いスープで、そんな物が丸々食卓に上がった事はない。

(もしかして、さっきの中ムカデもどきが干す前の魚!?……でも魚は水に住む生き物よね?めちゃくちゃ地上で元気そうだったけど??)

自由に外出もできなかったアーシャは、市を遠目に見ただけなので、『魚』がよくわからない。


あまりに美味しくて、踊りながらそんな事を思うアーシャを、ゼンは撤去する。

「あ、あ、あ〜」

芳香を放つ鍋から引き離されるアーシャは思わず手を伸ばす。

ついつい、もっと食べたいと思ってしまった。

『朝から食という快楽に溺れるなど不道徳』

長年そう教えられてきたが、体は正直なもので、もうグゥグゥと腹が鳴っている。


(あれはきっと神様用なのね。一口でも食べさせてもらえて良かったわ)

しょんぼりして、暖を取れる素晴らしいテーブルに足を突っ込んでいると、ゼンが忙しく台所とテーブルを行き来する。

「???」

アーシャの目の前とその隣には、複雑な紋様の描かれた陶器の皿に、銀色の匙が並べられる。

匙は貴族が使う物のように、綺麗な縁取りがしてある。

何だろうと見ていたら、先程の鍋が、ドドンとテーブルの上に置かれたではないか。


(も、も、もしかして………!?)

隣に座ったゼンを期待いっぱいの目で見つめていたら、胡座をかいた彼は、『おいで』とばかりに自身の膝を叩く。

「!!!!!!」

たった今、落ち込んでいた気持ちなど、吹っ飛んでしまった。

立ち上がる時間すら惜しくて、アーシャは高速ハイハイでゼンの膝に駆け上り、収まる。


ゼンはおかしそうに笑いながら、鍋からたっぷりと白い粒々たちを皿に注いでくれる。

そしてフウフウと冷まし、

「あ〜ん」

と、真っ先にアーシャに匙を向けてくれる。

アーシャは餌に飛びつく蛙のように、張り切って、その匙に飛びつく。

「〜〜〜〜!!!」

あの奥深いスープが絡んでいる白い粒々はやっぱり美味しい。

じゅわわっと顎の奥から唾液が噴き出す。

もう食べられないと思っていた反動か、頬が痺れる程美味しい。


すぐに口を開けたいのをぐっと我慢して、ゼンが口に匙を入れるのを見守ってから、二口目を食べるために大きく口を開ける。

(あ、中ムカデ)

小さく切られた白と薄紅の身が、差し出された匙にのっている。

少し不安に思いながら噛むが、特に変なところはない。

変な匂いもなく、変わらず美味しい。

「〜〜〜〜〜〜!!!」

安心して二回目に噛んだ時、あの肉に歯が当たった。

その瞬間、口の中で革命が起きた。


プリッとでも言えばいいのか。

反発係数の高そうな感触なのに、少し力を入れると、弾けるように肉が裂け、あっさりと歯を迎え入れる、絶妙な噛み心地。

驚く程に爽快な歯当たりと共に、先ほどから感じていた正体不明の旨味が、口に一気に広がる。

油が噴き出るとかではない。

むしろ陸上の肉とは正反対で、淡白ですらある。

それなのにあっという間に旨味が口の中を支配する。

噛めば噛むほど口の中は、旨味だらけになるのだ。


散々口の中で砕いて、味わってから飲み込むと、口から喉、胃に幸せが満ちる。

「美味しいぃいいい!」

これが叫ばずにいられようか。

卵や『ごはん』と並ぶ、いや、あれより美味しいかもしれない。

体が震えるほど美味しい。

飲み込んだはたから、もう口の中が、あの感触を欲しがっている。


『満たされるまで食べる事は、快楽に溺れる事、罪深い事』

なんて聖職者たちは最もらしい顔で言っていたが、ここに宣言しよう。

あんな誰が作ったかわからない戒律なんて嘘っぱちだ。

「うぅ〜幸せ〜〜〜」

満たされていく感覚は、なんて幸せなんだろう。

お腹からポカポカと熱が回って、頭のてっぺんから足の先まで満たされている。

自分の周りまで暖かな空気になっている気がする。

今のアーシャは、将来つるっ禿げになってしまえと思っていた大神官の幸せすら願ってやれる。

こんなに心を広く持てる食事が、罪深いなんてあるわけない。


「ああ、跡墾跡旧」

ゼンは優しく笑って、匙に肉をこんもりとのせて差し出してくれる。

神たる彼はアーシャが食べれば食べるほど嬉しそうにしてくれる。

罪深いなんて見当違いも甚だしいだろう。


お腹いっぱい恵みを受けたアーシャは幸せなため息を溢しながら、今日もゼンと一緒に過ごせる事に感謝するのだった。

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