9.聖女、奇跡の鏡を見る


『………てね。そしたら………あげる』

男とも、女ともつかない、不思議な声。

つい最近聞いたような気がする声だが、一体誰の物だったのか思い出せない。

でも何となく、その声の主と約束をしたような気がする。

『あぁ、迎えが来たね』

夢の中のアーシャが話し相手を確かめようとしたら、その声の主はそう言って話を中断した。

『せめてものはなむけだ。君のくびきを外してあげよう。………幸せにおなり、遥か遠き国の御巫みこ

軛とは何を指しているのかもわからない。

しかし『幸せにおなり』と柔らかく囁かれた言葉はとても優しく、温かだった。

それは……そう、例えるならば、父親が娘に対して贈るような、温もりのある言葉だった。


アーシャは父を知らない。

生まれる前に亡くなったからだ。

そのせいでアーシャの家は、家族総出で畑仕事をしても、他所の家ほどの収穫はなく、力強く畑を耕す他の家の父親を羨ましく眺める事が多かった。

父親に登って遊ぶ他の家の子の姿を見て、力強い存在に守られる子供たちを見て、何度も『何故うちにはお父さんがいないんだ』と口にしそうになった。

そう言わなかったのは、その穴を埋めようと母や兄たちが必死に頑張ってくれていた事を知っていたからだ。


でも羨ましかった。

自分もあんな大きな手で撫でてもらって、抱き上げて欲しいと思っていた。

聖女となって従軍すると、体の大きな騎士たちと親しくなったが、聖女という立場上、親しく撫でられたりされることはなかった。


大きな手に撫でられたい。

慈しむように、優しく髪を梳いてもらいたい。

そう、こんな風に頭を包み込んで欲しい。

(温かい……)

アーシャは頭に感じる、ゴツゴツとしながらも、温かくて優しい感触に擦り寄る。

(……お父さん……アーシャのお父さん……)

何度も夢想した、家族をみんなを守ってくれるお父さん。

『アーシャは聖女になんか、ならなくても良いよ』と言ってくれるお父さん。

家族と離れなくても、舞を踊らなくても、家族を守ってくれるお父さん。


そんな都合の良い存在はいるはずがない。

しかし今、アーシャの頭を撫でる手はとても優しい。

これがお父さんでなかったら、何なのだろう。

アーシャはまだ眠りたいと頑張る瞼を引き剥がして、目を開ける。

ぼやけた視界が、凛々しい横顔で焦点を結ぶ。

何か考え事をしながら、アーシャの頭を撫でてくれていたらしい。

「………ゼンしゃま………」

声を掛けると、びっくりした顔で、頭を撫でていた手を離してしまう。

「喰必山、遜泊凝読厨?」

夢の影響で、父の温もりを欲してしまっていたアーシャには、離れてしまった手の温もりが悲しい。


残念に思っていると、おそろおそると言った手つきで、再び頭を撫でてくれる。

(神に対して父というのは不敬なのかしら……いや、でも人は神より出づると言うし……ちょっとくらい甘えてみても……)

その手の優しさにアーシャは目を細める。

ちょっとどころではなく、もう随分と甘やかされているが、何となくこの神ならそれを許容してくれるのではないかと思ってしまう。


手の感触を楽しでいたら、ゼンの手がふと、止まる。

「ゼンしゃま?」

何やら遠い目をして考え事をしているようだ。

深刻そうな顔をしている。

言葉も通じないアーシャではあるが、何か問題を抱えているなら、是非力になりたい。

「ゼンしゃま」

しかしいくら呼び掛けてもゼンは反応しない。


(視界に入っていない……?あ、もしかして言語が違うから、敬称をつけたら、お名前を呼んでもわからないのかしら?)

アーシャは二つの問題点を解決するべく、移動しようと試みるが、まだ舞のダメージが残った足が、上手く言う事を聞かない。

仕方ないので芋虫よろしく、コロリコロリと転がって、ゼンの膝下まで行き、

「ゼン」

と呼び掛ける。

(呼び捨ては畏れ多すぎたかしら)

不安に思いながら、見上げていると、遠くを見ていた目が戻ってくる。

「ん?」

そう言ってアーシャを見た目はとても優しい。


「識掛凡鵠斎孟導爆か?没識う」

発される声もとても温かで、心配するなとばかりに、また頭を撫でてくれる。

(ご心配事がお有りなのに、ゴブリンにまで気を遣ってくれるなんて……!!お優しい!!いざとなったら私が頑張りますからね!!)

アーシャは感動しつつ、ゼンの頭……は届かないので、膝を撫で返す。

すると気持ちが通じたのか、ゼンの顔が緩む。


その微笑みに期待されているに違いないと確信したアーシャは、俄然やる気になる。

(こんな体では頑張ろうにも頑張れないわ!!しっかり休んで起き上がれるようにならないと!)

アーシャは張り切って、コロコロと枕に戻り、体力回復に努める。


アーシャはかなり頑丈な方で、どれだけ酷使されても、一晩寝ればしっかり回復できていた。

(………寝込んだ事が無いから、休み方がよくわからないわ……)

さぁ!回復しろ!とばかりに枕に頭をつけたのだが、それで体が良くなるはずもない。

(何てこと………これが暇というものなのね!?)

目はしっかりと覚めてしまっているが、動けない。

いや、動けるが、動いたら治らない。

体の隅々までやる気が満ち溢れているのに、やる事が無い。

『暇は嫌いなの』なんて言っていた貴族令嬢の気持ちが今更わかってしまう。

確かに、この状態は全く楽しくない。

無駄に迸るヤル気の吐口がない。


「?」

そんなアーシャの隣に、神の金属オリハルコンでできた台が設置される。

その上に伝令用の羊皮紙一枚分くらいの、四角くて黒い金属板のような物がのせられる。

金属板は厚さは小指の先ほどで、とても薄い。

後ろには衝立がついていて、自立するらしい。

「髪貴型曝本……諮鱗壕傷詣愉関材後漸但涼託乏な……」

何事か呟きながら、ゼンが手をかざすと、真っ黒だった金属は輝き、極彩色に変わる。

「!!!」

アーシャは息を呑む。


黒かった板が、山間に浮かぶ、鮮やかな日の出の風景を映しだしたのだ。

その風景を遮るように、赤や黄色、水色、黒、緑、と、様々な色で形作られた小さな紋章が、小島のように一定の間隔で浮かぶ。

それらの紋章は、今までに見たどんな果実より鮮やかな色で、一つ一つが簡素でありながら、一つとして同じものがなく、職人の手による意匠のようだ。

その小さな紋様たちは、ゼンが撫でるだけで右へ左へと動く。

(黒い板だと思ったら、硝子で、その中が何処かの山に繋がっていて、山の前に紋章が浮かんでいて、ゼン様は指でそれを動かして……???)

脳が追いついていかない。

もう神の奇跡には驚かないと思っていたが、アーシャは呆然とそれを見守る。


ゼンが紋章のうち1つに触れると、どこかの山が消え、何か色々と難しい感じの図形や文字らしきものが、板いっぱいに広がる。

全く意味がわからないが、王家に伝わるという、『真実の鏡』の小型版なのかも知れない。

聞くところによれば、『真実の鏡』は時空を超えて、見たいものを見せてくれるという、秘宝中の秘宝だ。

人智の及ばない奇跡を、何でもない顔で起こし続けられるのは凄い。

(流石神様……!!)

アーシャは改めて尊敬し直す。


しかしそれは驚きの序章に過ぎなかった。

ポン、と、ゼンが板に触れた途端、人が板の中に現れたのだ。

「ふほぉぉぉおおお!?」


アーシャは思わず声を上げてしまう。

(小人だ!!)

小人族は森の奥深くに住み、決して人前には現れないと聞いていたが、一度見てみたいと思っていたのだ。

もっとよく見ようとコロコロと転がって近づき、板を覗き込む。

(子供じゃない!!意外!!)

何となく、体が小さい=子供を連想していたのに、そこにいたのは、可愛らしいお婆さんだった。

白に時々黒が混じる髪を上品に首元で結い、法皇が着るようなしっかりとした布地を纏い、その上から真っ白なエプロンを着ている。

深い皺が素敵な歳月を過ごしてきた事を想像させる気品がある。


(凄い!小さいお婆さんなんて可愛いわ!服も何だか凝っていて可愛らしい!小人族はお洒落なのね!)

はてさて後はどうなっているのかと、コロンと転がって移動したが、そこには板の裏側があるだけだ。

「??」

意味がわからなくなってしまって、板の表と裏をゴロゴロと往復してから、アーシャは悟りを開く。

(そっか!真実のだもんね!映るのは前の鏡の面だけで、後は映らないんだわ!)

教わらずして神の世界を読み解く。

(私って結構賢いかも!)

アーシャは自画自賛する。


小さなお婆ちゃんが何やらおっとりと喋っていると、パッと鏡に映る物が変わる。

「ほわっ!」

お婆さんが消え、鏡いっぱいに様々な食材と、記号っぽい物の羅列が映る。

(す………凄い!!山盛りのひき肉に、卵、玉ねぎに人参!!あとよくわかんない緑のお野菜!!お貴族様の食卓に上がるように豪華な食べ物がいっぱい……!!)

大理石とか呼ばれているはずの石を、真っ直ぐに加工されたテーブルは、ゴミ一つ、埃一つない清潔さだ。

そこに並ぶ食材は、どれも瑞々しく、熱を通す前から美味しそうだ。

特に、虫など湧いていないお肉と、透き通った白身と濃ゆい橙の卵が素晴らしい。


アーシャが食材に見惚れていると、再びお婆ちゃんが現れる。

その横に清楚な雰囲気の少女小人が立つ。

先程見た亜人と同じように、平らな顔をしているが、頬と唇に紅を差し、髪を整えている姿は、今までアーシャが見た事のあるどんな女性よりも愛らしく、知性的で、清潔感に溢れている。

少なくとも白塗りお化けのような貴族令嬢よりずっと好ましくて、愛らしい。

(お婆ちゃん小人のお子さん……いや、お孫さんかしら。着ている服の染めが凄いわ!あんなに鮮やかな布地を着れるなんて、きっと小人族の貴族なのね!)

真っ赤なエプロンを身につけているが、あんなに発色の良い布地を、エプロンにしてしまえる経済力があると言う事だ。


言葉はわからないが、お婆さんにお孫さんが料理を習っているように見える。

(仲良しのご家族なのね。素敵!!)

お婆ちゃんは優しく微笑みながら、手際良く玉ねぎを剥いて、微塵切りにしていく。

「ほぁぁぉぁぁ」

思わずアーシャは仰け反る。

急に映像がぐぐぐっとお婆さんに寄って行き、あわやぶつかるかと思ったのだ。

しかしこの鏡を繋いでいる術師の腕前は素晴らしく、お婆ちゃんの手元で映像は固定される。


「?」

そう言えば、二人の小人たちは時々こちらを見る。

もしかして相手からは、こちらが見えているのだろうか。

(『真実の鏡』は遠くを映すだけと聞いたけど、これは違うのかもしれないわ)

そう思って二人がこちらを向いた時に手を振ってみたが、振り返してもらえる事はなかった。

しかし凄く優しく笑うので、見えていないとも言い切れない。

こちらを見て、『理解しているか?』とばかりに語りかけてきているようなので、こくんこくんとアーシャは頷いておく。



「ふほぉぉぉ!」

そんな事を考えていると、お婆ちゃんは割った卵をお肉の中に投入してしまった。

美味い+美味い=超美味い

それは禁断の合成だ。

美味しくなる以外の選択肢が思い浮かばない。

ただのお肉でも十分美味しいのに、そこに卵を投入してしまうなんてなんて大胆な。

そしてなんて豪勢な。

体が小さいからそんなに量を食べなくて良いのだとしても、これは結婚式とか、人生で何度か遭遇する、おめでたい日に食べる料理だろう。

孫に教えながらサラッと作れる物ではない。


しかも何気ない顔でお婆ちゃんが、ゴリゴリと入れているのは、凄く貴重な香辛料ではないだろうか。

炒めて透明になった玉ねぎも投入されていく。

「それ絶対美味しいやつ!!」

モミモミ揉まれた肉に揉み込まれた卵や玉ねぎ。

それが手の平ほどもある塊になり、ジュウジュウと音をたてて焼かれるのだ。

アーシャの目には眩しすぎる。

唾液腺が壊れてしまったかのように、涎が溢れる。


いつものアーシャであれば、突然切り替わったり、動いたりする視点や、硝子のような物で作られた透明の器等に驚いただろうが、肉と卵の最強組み合わせから目を離せない。

食べては寝てのグータラ生活で、お腹なんか減るはずないのに、既にお腹が鳴っている。

いつの間にかデフォルトの位置に戻され、見易い姿勢で鏡を視聴していたのだが、それにすら気がつかない。

溢れ出る肉汁。

軽く焦げ目のついた、最高の焼き色。

小さなお婆ちゃんが巧みに火をつけたり消したりしている事に関しても凄いとは思いつつ、意識が肉から離れない。


目の前では濃厚な肉汁を利用して、これまた旨味の予感しかしないソースが作られている。

小人の少女も美味しそうなソースを見て、歓喜の声をあげている。

(そうでしょう!そうでしょう!!そんなご馳走を作られて食べられる機会なんて、一体どんな徳を積んだら得られるのか……!!)

アーシャは激しく頷き、彼女に同意の意を示す。

鏡からは匂いが出てこないのが残念で仕方ないが、想像するだけで、身を捩りたくなる程美味しそうだ。


やがて鏡は完成した肉の塊を映し出す。

「ふぅわぁぁぁ〜」

濃厚そうな黒いソースを纏った肉の塊が、照り照りと、燦然さんぜんと輝いている。

人参や他の添え物の野菜も美味しそうに調理され、肉汁で作った旨味たっぷりのソースをかぶっている。

湧き上がる湯気が、熱々で美味しい肉を連想させる。


白磁の皿にドンと居を構えた肉の塊に、ナイフが入れられると、切れ目から、肉汁が滲み出てきて、ソースの上に広がる。

「はわわわわわ……」

その肉汁だけで良いから啜りたい。

アーシャの唾液は次々に分泌され、飲み込むのが追いつかない。

一口の大きさに切られ、フォークが押し込まれる時にも肉汁は湧いて出てくる。

小人の少女が口を開くのにつられ、アーシャも口を開けてしまう。

はむっと少女が口に含むのに合わせて、アーシャも口を閉めるが、当然空気の味しかしない。


ゆっくりと肉を噛み締める少女に、身を捩りながら、アーシャは羨望の眼差しを向ける。

味わうようにゆっくりと咀嚼して飲み込む。

『おいしい!』

そして彼女は言った。

この小人の少女は一つ一つの発音がゆっくりで、はっきりしているので聞き取りやすい。

(『おいしい』、『おいしい』、『おいしい』……)

意味はわからないが、きっとこの素晴らしい肉の塊に対する称賛に違いない。

アーシャは唾と一緒に、その一言を飲み込む。

(あぁ………私もあの肉の塊を食べて、『おいしい』を使いたい!!)

唾が出過ぎで喉が潤ってしまうほどだ。


小人の二人は何やら楽しそうに談笑し、付け合わせの野菜も食べる。

肉汁たっぷりのソースをつけて食べる野菜は、どれ程美味しい物だろう。

小人の咀嚼に合わせて、アーシャも口をもぐもぐと動かしてしまうが、味のない唾液が広がるだけだ。

(素敵……小人族は素晴らしい食生活を営んでいるのね……いや、天国の小人族だけなのかしら?)

そんな事を思っていたら、女性は二口程食べた所でフォークとナイフを下ろす。

「えぇ!?」

口を拭き取ったと言う事は、それで食事が完了とでも言うのか。


驚愕するアーシャに、鏡の中の少女は何かを語りかけてくる。

作った本人のお婆ちゃんも、時々合いの手を入れるだけで、肉に手を出そうとはしない。

(まっ、待って、待って!!お肉は!?お肉はもう食べないの!?)

あんなに熱々で美味しそうな肉を、その場で放置するなんて。

アーシャは熱いうちに食べてほしくて必死に肉を指差すが、女性とお婆ちゃんは手を振り始めた。

「さよならじゃなくて!!お肉!お肉忘れてる!!食べないと!!冷えちゃうよ!お肉!!」

言葉は通じないがアーシャは口を出さずにはいられない。


あの肉が小人サイズで、アーシャにとっては小指の爪の先ほどのサイズしかなくても、アーシャにくれたら百回は噛んで、味わって、味わい尽くして食べてみせる。

液体になるまでしっかりと噛み締めてみせる。

その自信があるだけに、必死に肉アピールをしたのだが、そのまま鏡の通信は切れてしまった。

真っ白な画面になって、次は小人の赤ちゃんたちが映し出される。

繋がる場所が変わってしまったようだ。


このまま、あのお肉様が忘れ去られてしまうなんて、許されない。

「お肉を……お肉を先程の小人族の方々に食べるように伝えてください!!」

横にいたゼンに必死に語りかけてみたら、その心意気が伝わったのか、ゼンは深々と頷いてくれた。

「凍宕暁深蜜卜括牝礼旬供赤燕逓、列譜屡派蜜仕話、純晒凌叢喬」

そして何事か言って部屋の外に出て行った。


自分の意図が伝わったのだと、アーシャは安堵の息を漏らす。

(良かった……至高の熱々お肉の危機を回避させたわ……)

達成感を感じながら、アーシャは目を閉じる。

瞼の裏にはしっかりと、肉と卵で作られた至高の料理が焼き付けられた。

特にナイフを入れた瞬間、肉汁の溢れる様は、細部まで再現できるほど焼き付いている。


(天国には通貨ってあるのかしら……?あったらバリバリ頑張って働いて、お金を貯めて、あのお肉を食べてみせるわ。何年かかってもやり遂げてみせるわ!!)

死後の世界での目標が早々と決まってしまった。

(もちろん美味しい物を沢山食べさせてくれたゼン様にも食べてもらえるように、頑張って働こう)

アーシャは実際に食事する自分達を夢想して、ムフフと笑う。


二人で豪華なお肉を調理して、丸々としたお肉を食べるのだ。

半分こ……いや、お世話になっているので、アーシャは四半分で我慢しよう。

体の大きいゼン様はきっと喜んでくれるに違いない。

そんな幸せな妄想をしながら、アーシャはまたウトウトと微睡むのであった。

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