6.幼児、過眠症の疑い

「ほ〜」とか「ふぉぁ〜!」等と、たまに奇声を上げながらも、幼児は大人しくしている。

それを横目で確認しつつ、禅一はリンゴをすり下ろす。

ジュースなどというものを置いていないこの家で、幼児がちゃんと飲んで、かつ、栄養になりそうな物を作っているのだ。


彼が見ているスマホの画面には、『若奥の会』というグループのトークルームが表示されている。

幼児が垢だらけであること、風呂に入れたいことなどを相談すると何故かこのグループに招待されてしまった。

そこで

『お風呂なら昼のうちが良いですよ。ほぼ赤ちゃんみたいな子でしたし。沐浴は暖かい昼がオススメです』

と言われ、急遽今から幼児を風呂に入れることにした。

『お子さんの体温大丈夫ですか?ちゃんと平熱か確認して入れてくださいね』

ともあったので、非接触式の体温計でばっちり測った。

『子供は一に水分、二に水分ですよ!水分補給には気をつけてくださいね!』

そんな声もあったので、頂いたリンゴを使って、せっせと飲みやすいジュースを拵えた。


『垢が凄いって事ですけど、子供の肌は薄いので、ゴシゴシ擦らないで、洗うのも二回くらいにしてくださいね。一回目で油分を落として、お風呂でふやかして、二回目流す感じで。何日もかけて徐々に綺麗にして上げてください』

『あ、洗うのは、お渡ししたガーゼタオルがいいと思いますよ!』

『でもそんなに垢が溜まってるなら、お風呂に馴染みがないかも?』

『確かに!お風呂を怖がるかもしれないから、最初は服を着せたまま、お風呂場を探検させてあげてください』

『服は子供の鎧みたいな物ですから、無理に脱がせちゃダメですよ!お湯を怖がったら出来るだけ抱きしめて、接触面を増やしてあげてくださいね』

『お風呂嫌いになると、後が大変なので、焦らず慣らすくらいの気持ちでやった方がいいかもです』

『シャワーはいきなり体にかけないで、足や手からかけてあげて、安全な事を教えてくださいね』

『シャンプーは怖がる可能性が高いんで、最初は上向きで洗った方がいいです。出来れば顔にはガーゼタオルかけて、耳を塞いであげてください』

『顔は多分お湯につけられないと思うんで、気長に拭いてあげてください。洗顔剤とか使っちゃダメですよ』

『絶対お風呂場では目を離さないでくださいね!子供は油断したらダメですよ!』

『出来れば二十分以内、最悪でも三十分以内には出してあげてくださいね』


子供の風呂というものは、こんなにも気を使うものなのか。

歴戦のママ達から五月雨のようにやってくる注意文に目が回りそうだ。

しかも一つに対してお礼を打っていたら、次々にやってきて、口を挟む暇がない。

注意の一つ一つを頭に刻みつつ、お風呂前のエネルギー補給と、水分補給をさせる為に黙々と禅一は作業する。

そんな様子を、幼児がキラキラした目で見つめてくる。

何か美味しいものが出てくると期待しているのだろう。

これから丸洗いされるとも知らず、無邪気なものだ。


ピッチャー二つに、なみなみとリンゴジュースを作り、リンゴに砂糖とレモン汁を入れて煮込んだオヤツも作った。

いざ、決戦の時である。

「あ〜………」

禅一は幼児を呼ぼうとして、そう言えば名前を知らなかった事に、気がつく。

手招きして、幼児に名前を聞いてみる。

「な・ま・え、ねー・む。わかる?」

しかし通じないらしく、幼児はフルフルと顔を振る。


どうしたものか。

少し考えて、まずは自分の名前を言ってみようと思いつく。

この子は聡いから、それだけでわかってくれる可能性がある。

「ぜ・ん」

自分を指差して彼はそう言ってみる。

正確には禅一なのだが、近しい人には禅としか呼ばれないし、子供は短い方が覚え易いだろう。

「ぜ・ん」

幼児は困り顔で首を振るが、禅一は諦めずに繰り返す。

「ぜ・ん」

すると良くわかっていない顔で、幼児は禅一の真似をして、呟く。

我が意を得たりと禅一は大きく頷いて見せ、次は幼児を指差す。


指差された幼児は少しの間ポカンとしていたが、何か思い当たったようで、声を上げて笑顔になる。

「アーシャ!!!」

目がキラキラして、嬉しそうな顔で自分を指差して、幼児は大きな声で答える。

カサカサの痩せ衰えた姿なのに、その笑顔は輝くようだ。

欧米人は本当に表情が豊かだ。

「アーシャ」

呼びかけると、少し誇らしげに、全開の笑顔で幼児は頷く。

嬉しくてたまらないと、体が上下に動いてしまっているのが、尻尾を振るアヒルに似ていて可愛らしい。


「アーシャ、あーん」

そんな子には美味しい物を食べさせたくなるというもの。

煮込んだリンゴを差し出すと、疑う事なく飛びついてくる。

一生懸命キャベツの芯に食らいつく小学校のウサギを、ついつい思い出してしまう。

差し出す度に頬を押さえて、小さく跳ねるので、ますますウサギと被る。

こんなに喜んでくれたら作った甲斐があるというものだ。


『満腹時はお風呂厳禁ですよ』

ついつい一切れ二切れと食べさせてしまってから、先輩ママたちの注意点を思い出して、自制心を働かせる。

これはあくまで、お風呂に入れる為のエネルギー確保の為のオヤツなのだ。

お腹を満たしてしまったら、せっかくのジュースを飲まなくなるかもしれない。

禅一は気を取り直して、ピッチャーに突っ込んだマドラーで中を撹拌してから、グラスにリンゴジュースを注ぐ。

本当は割れないコップを用意したいところだが、成人しか使用しない離れには、グラスと重いマグカップしかない。


自分が持って飲ませようと思っていたのだが、グラスを見せた途端、アーシャがハッシと両手で掴んでしまったので、手を離す。

リンゴが好きなのか、匂いを嗅いだだけで、アーシャはたまらない!とばかりに首を振りながら上を仰ぐ。

本当に喜びの表現が大きい子だ。

落としそうなので、いつでも受け止められるように心づもりしていたら、アーシャはおもむろにグラスを傾け、飲み始める。

(息つぎとか……しなくて大丈夫なのか?)

グラスを傾けてから、一度も止まる事なく、痩せた喉が動いている。

一度強制的に止めた方が良いのかと不安に思っていたが、アーシャはそのままグラスを空にしてしまう。


「あぁ………」

傾けても出てこなくなったグラスを見て、悲しげに肩を落とすから、

「はい、おかわり」

と、ピッチャーから多めに継ぎ足してしまう。

「ふぉぉおお!!」

満水になったグラスを見て、アーシャは喜びの雄叫びを上げる。

「沢山飲んでくれ」

グラスを傾ける幼児を見ながら、禅一は微笑む。


こんなに喜んでいるが、この後、丸洗いにされたら泣いてしまうかもしれないな、なんて思ってしまって可哀想になってしまう。

脳裏に洗われてヒンヒン鳴いてる犬や、威嚇する猫なんかが浮かんで、ついつい不安になってしまう。

肌の健康のためとはいえ、泣かれたら、とてもじゃないが、洗い続けられる自信がない。

こんなに信頼を寄せてくれているが、風呂を機に嫌われてしまう恐れもある。

そして何より、幼児を風呂に入れた経験が無くて不安が膨らむ。

他人の体を洗った事すらないので、上手くやれるか、わからない。

犬猫なら動画とかで見る機会もあるが、幼児を洗っている様子なんか見た事すらない。

頼みの綱は『若奥の会』の助言だけだ。


とにかく不安にさせないように。

安心ファーストで事を進める。

禅一のせいで、この子がお風呂嫌いになって、不潔な一生を歩む恐れすらあるのだ。

(たかが風呂なのに、他人の一生を決定づけるかもしれないなんて……幼児の世話はすごい重圧だな)

スマホで『若奥の会』の助言を再確認しながら、この重圧を抱えて、あんなに子供を大きくした彼女らに、尊敬の念が生まれる。


緊張の高まっている禅一の事など知らず、アーシャは幸せそうな顔でグラスから口を離す。

二杯目も空っぽだ。

「よし。水分補給は出来たな……」

満足そうにしているアーシャからグラスを回収して、禅一は覚悟を決める。

やるなら早い方が良い。

禅一は咳払いしてから

「アーシャ、ふ・ろ」

と宣言する。

当然通じないので、頭を洗ったり体を洗うジェスチャーをして見せる。

しかしアーシャはよくわからないらしい。

不思議そうに首を傾げている。

この垢まみれの姿を見るに、やはり風呂に入れてもらっていなかったのかもしれない。


説明するより見せた方が早い。

禅一はアーシャの手を引いて浴室に向かう。

「ふ・ろ、バ・ス」

予め洗面所に並べていたタオルとジュースの横に、アーシャのグラスを置いて、浴室を指差して一応説明する。

そして少し緊張しながら、浴室ドアを押す。

「ほぇ〜」

と、ため息を零しながら、興味津々といった様子で、アーシャは浴室に入っていく。

(しまったな。最低水位に設定したけど、それでも高いか?)

バスタブに自動給湯で入れたお湯は、意外と多い。

少し不安を覚えながら、禅一はジャージを脱ぐ。

多分濡れるだろうから、できるだけ身軽になって入りたいと思ったのだ。


「ひっ!!!」

風呂を見ていたアーシャが短い悲鳴を上げる。

「ぜんわにゃ!!ごみゅみぃ!ごみゅみぃにぃみ!!」

そして怯えた顔で飛びついてきた。

(やっぱり水位が高すぎたか……!!自動給湯じゃなくて手動でやるべきだった……!!)

後悔したが、やってしまったものは仕方ない。

ジャージを脱いでいる途中だったので、少しよろけたが、禅一は何とかアーシャを受け止める。


何とかリカバリーしなくてはいけない。

「大丈夫だ、怖くないぞ。俺と一緒に見て回ろう」

通じないが、声をかけないより良いだろう。

(接地面を増やすと良いと言っていたな)

禅一はアーシャを抱き上げ、全身を包むようにしながら、ポンポンとその背中を叩いて宥める。

「ひっ!!」

浴室に入ると、風呂に恐怖を覚えているらしいアーシャは禅一にしがみつく。

(今日は風呂場に慣れるだけでも良しとしなくてはいけないかもしれない)

微かに震えている背中を摩りながら、禅一は心の中で呟く。

まさか湯量にも気を配らねばいけないなんて思わなかった。


バスチェアーに腰掛けると、

「ごみゅみぃめぃじぎ!ぜんわにゃ!!」

アーシャは何やら興奮して、正面の姿見を指差している。

鏡が嬉しいのだろうか。

「それは鏡だね、か・が・み」

こうやって少しづつ単語を教えていった方が良いなと思いつつ、禅一は鏡の中のアーシャに手を振って見せる。

アーシャは鏡の中の禅一をじっと見つめている。

興味が鏡に移って、恐怖が薄れたようだ。

アーシャは禅一の膝を下りて、鏡に触れる。

そしてじっと興味深そうに鏡を覗き込んでいる。


「慣れた……のかな?」

声をかけると、ぼんやりとし顔でアーシャは振り向く。

怖がっているようには見えないが、心ここに在らずという顔をしているような気もする。

しかしこれは好機だ。

「服は脱げそうか?バンザーイ」

バンザイが通じたのか、禅一の真似をしているだけなのかわからないが、アーシャは素直に両手を上げる。

『服は子供の鎧みたいな物ですから』

なんて言われたので、脱がせたらまた怯え始めるかも知れないと思ったのだが、特に抵抗する素振りもない。

安心しながら下も脱がせて、そっと足にお湯をかけてみる。

ぼんやりしているのが気になるが、怯える様子がないので、ここぞとばかりに全身にお湯をかけていく。


子供用のボディソープというのもあるのかも知れないが、生憎ここにあるのは普通のボディソープだ。

譲ってもらったガーゼタオルを泡立てて、そっと背中を擦り始める。

(泡が!泡が消えていく!!)

プツプツと音を立てながら、アーシャに触れたそばから、泡が消えていく。

ガーゼタオルについていた泡は背中を洗い切る前に消えてしまった。

「…………」

ボディソープをガーゼタオルに追加して、再び泡立てようとするが、泡立たない。

タオル自体が薄汚れてしまっているのだ。

「…………!」

禅一は洗面器にガーゼタオルを突っ込んで流すと、洗面器の中のお湯が黒くなっている。

「…………!!!」

叫び出したくなるのをグッと堪えて、ちゃっこちゃっことポンプを激しく動かし、ガーゼタオルに大量のソープを投下して激しく泡立てる。

(これほどの泡なら……!!)

手強い敵には大量の戦力をぶつける。

数こそ強さだ。

そんな気持ちで望んだ第二戦も、敢えなく小さな背中に破れた。


(どうなってんだーーーーーー!!!)

叫び出したいのを堪え、とにかく表面の油分を取ることだけに注力する。

ガーゼタオルを洗い、ボディソープを出し、泡立て、幼児の上で消えていく泡を見守る。

そのサイクルを何度繰り返しても、全く綺麗になっている気はしない。

「擦るなって言っても、これ、擦らないと取れなくないか………?」

もうタワシとかでガシガシやらないと、落ちない気がする。


一応泡で表面を一通り流したが、もう既にかなりの時間が経過している。

(出来れば二十分以内、最悪でも三十分以内)

気は焦るのに、作業は進まない。

アーシャが大人しくしてくれているのが、唯一の救いだ。

お湯で全身を流し、怖々と禅一はアーシャを持ち上げる。

「入れるかな……」

呟いた自分の声の頼りなさと言ったらない。

体を洗うために結構汲み出したので、恐怖を覚える水位では無いはずだ。

バスタブに浸けられたアーシャは気持ちよさそうにしている。


ホッとしながら、次は頭を洗う準備を始める。

体の垢をふやかしながら、頭の油分をお湯で流しておく。

『若奥の会』が考えてくれた作戦だ。

頭皮を濡らし、固まった髪をほぐす。

言うのは簡単だが、複雑に絡み合い、垢と汚れで接着された髪は中々解けない。

(髪はある程度で、地肌をメインに洗おう)

そう思いつつも、出来れば一気に綺麗にしてあげたい。

刻々と進む時間に焦りながらも、髪を引っ張らないように丁寧に解く。

(タイマーをかけておけば良かった)

後悔しても後の祭りだ。

ここまで、ここまでと、作業を止めることが出来ない。


そんな時だった。

のんびり湯船に浸かっていたアーシャが突如手足をバタつかせ始めた。

「すまん!痛かったか!?」

驚いて髪を手放すが、暴走幼児は止まらない。

立ち泳ぎに失敗した河童のような動きで、とにかく激しく波を起こす。

「………遊んでいるのか?」

聞いてみても、もちろん答えなど返ってこない。

しかし楽しんでいる感じでもない。

真顔で暴れているのは、はっきり言って怖い。

幼児の心理がわからない。

七歳までは神のうちというが、とんだ荒神である。


その内、底で滑ったのか、ドプンと頭までお湯に浸かってしまう。

「わーーー!!!溺れた!!!」

怖いとか言っている場合ではなく、禅一は濁ったお湯の中に手を突っ込む。

「大丈夫か!?」

引き上げて安否確認するも、答えはなく、次は激しく顔にお湯をかけ始める。

水が平気でよかった!等と言える状況ではない。

息が出来ているのかと不安になるくらいの勢いで、顔を洗っていたアーシャは、遂にお湯に顔を浸けて顔を擦り始めた。

(幼児が、幼児がわからない!!!!)

禅一は心の中で悲鳴を上げる。


一回、色々リセットしなければならない。

「よし、一旦休憩だ」

禅一はアーシャをお湯から引き上げる。

そして風呂の椅子に座らせ、バスタオルを巻く。

『子供は一に水分、ニに水分ですよ!』

との助言に従い、洗面所に置いていたピッチャーをマドラーで混ぜながら、アーシャのグラスに注ぐ。

「わぁ!!!」

今までの荒ぶり具合が嘘のように、アーシャは素直にリンゴジュースを喜んで受け取る。

(何とか静まった……)

禅一はホッとしながら、バスタブに向かう。


怪我の功名とでも言うか、今の騒ぎで、物凄い量の垢が取れたようだ。

プカプカと浮いていたり、溶けかかっていたり。

中々壮絶な光景だ。

(これ、このまま流れる……よな?)

不安に思いながら排水し、いつもよりかなり多めに洗剤を撒く。

風呂を洗う間も、アーシャからは目を離さない。

大人しい子だと思っていたが、やはり幼児は幼児。

気は抜けない。

しっかりと水分補給をさせつつ、禅一は続きの準備を始める。


結構時間を食っているので、手早くやらないといけない。

そう思いつつ、アーシャからバスタオルを外す。

「頭を洗うよ」

と身振りを加えつつ言うと、アーシャは頷く。

「耳を塞いで、目を閉じる!」

こちらもジェスチャーがすんなり通じたらしく、アーシャは目を閉じて、自分の耳を塞ぐ。

アーシャの目の上に畳んだガーゼタオルをのせ、頂いたばかりの子供用シャンプーをもっさりと手に取る。

(泡立たないのは想定内、想定内………)

もうそれくらいでは驚かない。

ぬるぬるしているのがシャンプーなのか垢なのかわからないので、丁寧に揉むようにして洗い流しつつ作業する。


体も冷えないように時々洗面器でお湯をかけつつ、手早く……と思つつも中々作業は難航する。

(二回までって言ってたけど、どこからどこまでを一回とカウントすれば良いのかもわからなくなってきた……)

とにかく黒い水が出なくなるまで揉みながら濯ぎ、根気よくシャンプーの泡が立つのを待つ。

泡が出たら、今日はもうそれで良いことにしよう。

そう思いつつの作業だったが、耳を押さえていたアーシャの手が、禅一の腕に引っかかる。


「ん?」

手が疲れてしまったんだろうかと思ったが、体もぐにゃんと力が抜けてしまう。

慌てて支えると、口からクカ〜クカ〜と規則的な寝息が聞こえている。

「え!?もしかして寝てる!?いやいや!!起きて!!起きて!!」

軽く揺さぶったが、気持ちよさそうな顔ですっかり眠ってしまっている。

「ど、ど、どうすれば………」

完全に脱力しているので、今のままでは洗髪を終わる事すらできない。


「寝てるんだ……よな?意識を失ったとかじゃないよな!?」

軽く揺すると、薄目が開いて、何やらみぃみぃ喋るが、直ぐに閉じてしまう。

(嘘だろーーー!?だって朝寝してさっき起きたんだろ!?昨日も一日中寝てたんだろ!?それでまた寝る!?もしかしてナルコレプシーとか言う病気か!?)

そんなふうに不安に思っても、やる事はやり切ってしまわなくてはいけない。



その後、禅一は洗面所に置いたバスタオルを取り、濡れたバスチェアーに座り、閉じた自分の太腿の上にアーシャを寝かせて作業を続けることとなった。

アーシャにバスタオルをかけて保温しながら各部位を洗い、泡立たない洗剤に泣かされながら、全身びしょ濡れになりつつ頑張った。

眠ったからには体温調節ができなくなるだろうから、急がなくてはいけず、完璧に綺麗にしたい自分の心を制しながらの作業だった。


風呂から出ても、苦難は続く。

まず幼児服の着せ方がよくわからない。

大きく開いて着せ易いのは良いが、スナップボタンが多すぎて、どことどこを合わせるのか、わからず迷う。

そして熟睡している幼児の頭が中々乾かせない。

頭の向きを変えたり、持ち上げたりするが、髪の毛が完全に綺麗になっておらず、複雑に絡み合っており、ドライヤーの風が中々通らないのだ。

ようやく何とか身なりを整えて、布団に向かうも、よく見たら布団が垢だらけで使えない。

慌てて新しい布団を敷く羽目になる。

そしてまだ今からなら乾くかもしれないと、前の布団や枕からカバーを外し、洗濯機に詰め込む。

ここまでビショビショに濡れた服を脱ぎ捨ててやっていたので、素っ裸である。


酷い絵面だと自分で思いつつ、流石に冷え切って、最後にアーシャを入れようと思って溜めていた風呂に入って温まる。

(風呂を出たら、アーシャの様子を見に行って、昼食の準備して……あぁ、まず飲まなかったジュースを冷凍しないと変色するな……そうだ、ナルコレプシーの事も調べて……あぁ、『若奥の会』にもお礼のメッセージを入れないといけないな……シーツを干して……寝てる間に本家に食材分けてもらいに行けるか?いや、目覚めた時、居なかったら不安だろうしな……)

何てやる事が多いのだろうか。

弟と二人だったら、休みは昼過ぎまでジャージ姿でダラダラ好きな事をやって過ごしているのに、この忙しさは何だろう。

(幼児の面倒を見るって、凄い大変なんだな)

改めて自分の抱え込んだ責任を思い、勢い良く顔にお湯をぶつけて気合を入れ直し、禅一は風呂から上がった。

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