3.聖女、尊厳を捨てる
二度目の目覚めは突然訪れた。
うつらうつらと、体を包む至上の感触と、初めて満足を得た胃袋を感じながら、心地よい眠りと覚醒を往復する。
今まで、こんなに惰眠を貪ったことがあっただろうかと、彼女は夢うつつに思う。
幼い頃、守ってくれる父を失った家は貧しく、修繕もままならない荒屋で、母と兄たちと団子のようになって眠った。
夜は風や雨、自分や家族の腹の音、時折ネズミに齧られたりして目を覚ます。
小さくても家族の戦力にならねばならなくて、疲れ切っていたのに、ぐっすり眠れる事は無かった。
神殿に召し上げられてからは、屋根や壁がある所で寝られるようになったが、朝は日が登る前からお勤めに励まねばならず、夜は日が落ちても尚、仕事が終わらなかった。
夜、枕に頭をつけたと思ったら、次の瞬間には朝になる。
そんな毎日だった。
こんなに深い眠りと浅い目覚めを繰り返す事なんか無かった。
幸せに包まれながら、また浅い覚醒を迎えようとしていた時だった。
「っっっ!!!」
彼女はカッと目を見開いた。
美味しい食べ物が胃から腸に達し、活発に腸が動き出したことによる、排泄衝動だ。
彼女は慌てて起き上がる。
そして周りを見回す。
彼女がいた神殿では『排泄は隠すべし』として排泄専用の部屋があったが、通常の民家では、口の広い壺に排泄して、外に投げ捨てる。
見回したところ、神の住まいには、それらしき入れ物はない。
(やっぱり神のお住まいだから、専用の部屋があるのかしら……?)
彼女は急いで、素晴らしい寝床を離れる。
先程破いてしまった鎧戸に触れるのは怖いので、彼女は周りを見回しながら、反対方向へ進む。
(そう言えば、ここは草原のような爽やかな匂いしかしないわ)
神殿は規律に従い、排泄物を決められた場所に廃棄していたので、市中程臭くは無かったが、それでも無臭では無かった。
(戦神様も裸足でいらっしゃったし、ここは本当に清浄な場所なのね)
厳しい神殿ですら、規律を破って立ち小便をする者がいたから、建物内でも靴は必須だった。
市中など、各家が排泄物を窓から投げ捨てるものだから、匂いがするのが当たり前だった。
王族が住まう宮殿ですら、排泄用の部屋はなく、皆が排泄用の陶器を持っていたり、ない者は廊下の隅や庭園で、用を済ませたりしていた。
排泄物を踏まないように、貴族は妙に踵の高い履き物を履いているくらいだ。
それなのに、ここの清潔さと言ったらどうだろう。
編まれた草の上を歩く自分の足が一番汚い。
こんな足で歩くことが、申し訳ない気分にすらなる。
(ここはきっと神殿より厳しい規律があるに違いない………は、早くお部屋を探すか……外に出ないと!!)
内臓が早くしろと急き立てるのを感じて、彼女は急ぐ。
そんな彼女の行手を白いドアが阻む。
(このドアも紙!?神様は紙がお好きなのね!?)
取手らしきところは、窪んでおり、黒い金属が入っているが、それ以外は木枠に紙が貼られている。
あまり手荒に扱ったら、再び穴を開けてしまうかもしれないと思い、遠慮がちに押すが、扉は揺れるだけで開かない。
(ノブがないから、ただの押し戸のはずなのに!!)
動く内臓に焦る彼女は、そのドアに蝶番がついていない事にも気がつかない。
少し力を入れるだけで、ガタガタと大きな音を立てるのに、全く動かない扉に彼女は焦る。
(も、もしかして、あの取手の所を押さないと開かないとか、そんな作りなのかしら!?)
神の居城は、全てが大きくて、彼女の手はそこに届かない。
「う〜〜〜!!」
神の居城を汚さぬために、人としての尊厳を守るために、彼女は必死に手を伸ばす。
「頭貼階賢演?」
すると、必死の声が聞こえたらしく、扉の向こうから足音が聞こえる。
「しぇ、戦神しゃま!!」
正に天の助けだ。
彼女は顔を輝かせる。
真っ白な扉が横に動き、目の前に大きな足が現れる。
「あ、横開き………」
あっさりと開いた扉に、一瞬、急務を忘れて彼女は呟いてしまう。
「嫡昧妊控?猟珪符樺予禅弓祷?」
戦神は跪き、彼女に視線を合わせてくれる。
改めてその姿を見ると、あまりの清浄さに、我が身の汚さが恥ずかしくなる。
吹き出物一つない、化粧の必要すらない健康的な肌。
成人男性だというのに、全ての歯が真っ白で、一つも欠けていない。
近くで喋っても全然嫌な臭いはせず、寧ろ何か爽やかな香すらする。
髪はシラミ一匹住んでいなさそうで、脂ぎる事もなく、サラサラと音がしそうなほど綺麗だ。
服は汚れ一つ、綻び一つない。
彼女の頭を撫でる手は、ゴツゴツしているが、爪は綺麗に切り揃えられ、垢なんか影も形もない。
彼女の知る人間の中で、こんなに綺麗な人はいない。
王族ですら、こんなに清潔な人はいなかった。
「うっ……」
この人、いや、この神に排泄物の話をするのは、とんでも無く恥ずかしい事のような気がする。
従軍経験もあり、誰から見られてもおかしくない野原でも、平気で用を足していたのに、今更乙女心が首をもたげる。
「ううっ!!」
しかしお腹はもうそろそろ限界ですと、コロコロ音を立てている。
「万票粋戻?」
戦神様の黒い慈しみ深い目に見つめられ、言葉が出てこない。
そもそも伝わる言語を持っていないので、言葉で何も伝えようがないのだが。
迷う間も、限界は近付いている。
人としての尊厳を守る為、乙女の尊厳は捨てよう。
彼女は決意して、身振りで用を足したい事を伝える事にした。
「〜〜〜〜〜っっ」
股を手で押さえ、足をばたつかせる。
これはどんな言語にも勝る意思表示だ。
どんなに恥ずかしくても、伝わるまでやるしかない。
「姉臓亘廻!!」
通じた、と、思いたい。
戦神は慌てた様子で彼女を拾い上げ、走る。
美しい物が色々見えた気がするが、彼女は人としての尊厳を守る為に下半身に力を込めるのに忙しく、何か考える暇がない。
そして一つのドアの前に二人はたどり着く。
「蝉傾、愛法創鼎貴!!」
戦神がそのドアを開け、彼女を中に下ろす。
「…………?」
そこには美しい白の敷物と、彩色鮮やかな履き物、そして白い、見た事もない材質で作られた椅子のような物がある。
「………父遁鳩喪該?」
戦神は彼女の背を押し、中に入るように促す。
「え?え?ここが排泄の部屋なんでしゅか?え?ここで?」
白の敷物は汚して良いような物に見えない。
匂いも全くしない。
「質尖、期椎牢琳楕鼎貴」
戦神は白い椅子の座面を持ち上げ、そこを指さす。
「開いちゃ!!」
彼女は驚く。
座面かと思いきや、それは蓋だったらしい。
蓋の下は穴が空いており、下の方に水が溜まっている。
「水飲み場………?」
何故そんな所に連れてこられたのだろう。
恥を捨てた身振りは通じていなかったのかと、絶望しつつ、彼女は股を押さえる。
もう我慢の限界だ。
乙女の尊厳の次は、人としての尊厳を捨てねばならないのか……限界を訴える内臓に、意志の力が負けそうだ。
「内骸之八虞!蟻稽脱械億飼印!!妊挽槻俣盟乃陣!目槻!蒸打雰!!嘱収栃打!!」
そんな彼女の後ろで、慌てたように何事か叫んだ戦神が、バタバタと走り去ってしまう。
戦神にまで見捨てられた彼女は、水飲み場の縁に手をかけて、体を震わせる。
一体ここでどうせよと言うのか。
この水飲み場は背が高すぎて、縁に掴まる以外、何もできない。
その縁に頭を打ち付けながら彼女は耐える。
(外へ!とにかく外へ行こう!!)
そう思ってモタモタと移動を開始した時に、戦神が何かを片手に戻ってきた。
「警延扱……塘菩遁妹漉総俸翼範当楚!!」
そして持ってきた物を、水飲み場にはめ込んだ。
「桟鳳、楚述葡厭!!」
「あひゃっ!?」
抵抗をする間は一切なかった。
気がついた時には、下に履いていた物を脱がされ、水飲み場の上に座っていた。
「え!?何?何々?あっあっあぁぁぁぁ!!!」
彼女は間抜けな声を上げた。
水飲み場の上に取り付けられた物に、股を広げて座った衝撃で、我慢していたものが決壊してしまったのだ。
散々耐えていたので、もう途中では止められない。
(終わった……………終わった……………色々と終わった………)
彼女はがっくりと項垂れる。
よりによって水場で粗相をしてしまうなんて、人としての尊厳も余裕で投げ捨ててしまった。
「呪牝田果支……緋朔全舵庫………」
何やら神が呟いているが、見上げることすら出来ない。
水飲み場での粗相などと、もはや神罰待った無し。
天国から地獄への逆下剋上だ。
倒れそうな彼女は、目の前の手すりに掴まる。
「………?」
陶器のように滑らかなのに、あの陶器独自の冷たい感触や、繊細さがなく、がっしりと捕まっても折れない力強さすら感じられる。
それでいて全く重々しさがない。
(これは……!!噂に聞いたことのある、神の金属、オリハルコン!?)
彼女は己が跨った乗り物を観察する。
真っ白な手すりは薄茶色の丸につながり、その丸は赤い台形に支えられている。
彩色が見た事もないほど鮮やかだ。
「………?」
薄茶色の丸の後ろには、これまた色鮮やかで、何やら記号が彫られた小さな丸が付いている。
まるで押せと言わんばかりのそれに、彼女はついつい手を伸ばす。
「〜〜〜♪ 〜〜〜〜〜〜♪ 〜〜〜」
「ぴっ!!!」
丸い突起を押し込むと、突然薄茶色の円から音楽が流れ始め、彼女は飛び上がる。
聞いたことのない音色たが、オルゴールでも仕込まれていたのかもしれない。
「凱辺、召啓、筈嬰収佳鰍藍釜」
飛び上がる彼女と対照的に、戦神は平静そのものだ。
何か感心しながら、頷き、彼女の横にある棚に手を伸ばす。
「拭炎醒隔鈴敦玖神………?」
そして鉄の串に刺さった、白い円柱形の物から、カラカラと布のような物を引き出す。
「渚拙衛遵?」
引き出したソレを、ある程度の長さで切って、戦神は渡してくる。
「…………?」
彼女はそれを不思議に思いつつ受け取る。
「また紙!?」
そして驚愕する。
見た目は薄手の布なのに、紙だ。
フワフワと素晴らしい触り心地だが、少し力を入れると破れてしまう。
間違いなく紙だ。
神は何故これほどまでに紙を愛しているのか。
疑問を込めて戦神を見上げると、彼は少し首を傾げる。
「轍纏隔自。運江礼模?ふ、く」
神は何事か言って、自分の尻を撫でて見せる。
(ま、ま、まさか!!)
彼女の脳裏に稲妻が走る。
この布のように柔らかい紙は、排泄後の清めに使う物なのだろうか。
彼女は少し躊躇ったが、その紙で不快な部分を拭く。
すると神は笑顔になってパチパチと手を叩いてくれる。
言葉は通じないが、褒められているのはわかる。
もしかして、いや、もしかしなくても、ここは本当に排泄をする為の部屋なのかもしれない。
そう言えば、王族は椅子に穴を開けた物に座って用を足すと聞いた事がある。
神の世界でも、この白い椅子に座って用を足すのかもしれない。
(凄い………柔らかな布で拭いている感覚だわ……)
神の技術に彼女は感心してしまう。
(汚い物は、まとめた方が良いのかも)
拭いた紙を引き上げるのも見苦しいので、そのまま手を離して捨てると、更に神は手を叩いてくれる。
この行為もまた正解だったらしい。
「癖巷膨勉劫緩膨?麺断蛙索茅重亘?」
神は再び、円柱から紙を引き出して渡してくれるので、ありがたく使わせてもらう。
(どうしよう………足がつかないわ)
用事が終わったのだが、足が床につかない。
「ひっひえぇ!!」
下りられなくて困っていた彼女は、再び神に持ち上げられる。
そして敷物の上に下ろしてもらい、
「祥甥、纏執卸逗〜」
目の前に小さなズボンを差し出される。
「え?え?」
「あ、し。あ、し!」
驚いていると、神が彼女の足をぽんぽんと叩く。
(ま、ま、まさか神に跪かせて、履き物を履くの!?)
これはもう人としての尊厳云々の話ではなく、神の尊厳を踏み躙る行為ではなかろうか。
彼女はオロオロとするが、神はポンポンと足を叩きながら待っている。
「くっ………女は度胸!!神罰ドンと来い!!」
そう言って、彼女はぴょんと飛んで、履き物に両足を通す。
「鯨雲住特膝召砦」
手ずから履き物を履かせてくれた神は、にっこりと笑って頷いてくれる。
神は先程彼女が乗った座席を外すと、再び椅子の蓋を閉める。
そして何やらレバーを捻ると、椅子の中から水の音がする。
「え!?水!?」
びっくりした彼女が、思わず蓋を開けようとすると、その手が引かれる。
「蕗蕗樋好。俊凱濫盃断毒鉢寡綿暮慧職棉亭。川机輪左賦翰詰」
神は入り口横に置かれた、陶器の鉢を示している。
後ろの蓋の中で何が起こっているかにも興味はあったが、彼女は示された陶器見て、うっとりしてしまう。
その陶器は、真っ白で、花弁を模した形になっている。
物の価値がわからない彼女にすら美しいと思わせる、素晴らしい品だ。
その鉢の上には、美しく磨かれた鉄の管がある。
「!!!!」
美しい鉢を見ていたら、その鉄の管から水が飛び出してきた。
凄い装置だ。
神は驚く彼女を持ち上げて、その水に触らせてくれる。
水は向こうが見えるほど透き通っており、森の川のように綺麗であることがわかる。
手をつけてみると、冷たい。
汲み置きの水とは違う。
「獣痘泡蓄桟順敦」
神は一度水を止め、隣にある不思議な容器から、白い液体を手にかける。
(何かしら……?ヌルヌルしているわ。……ちょっと気持ち悪い)
彼女はかけられた液体の意味がわからず、戸惑う。
「ごし、ごし。認順今劃場?ごし、ごし」
何か指示されているが、よくわからない。
「よっ」
神は片足を上げて、それに彼女を乗せるように体勢を変える。
そして両手が使えるようにして、彼女の手に白い液体を伸ばしていく。
白い液体はヌルヌルと手に広がり、やがて真っ黒い雫になって、ポタポタと真っ白な陶器の上に降り注ぐ。
「………豪召莞。焔逢玩倖赫四児危形契痢捺……?」
神は何事か呟いて、一度彼女の手を水で流し、もう一度白い液体をかける。
その白い液体を手に広げると、また黒くなってポタポタと垂れる。
(多分、手を洗ってくださっているのよね……?この液体は何なのかしら……とても良い匂いなんだけど、すぐ黒くなるし………)
彼女は内心首を捻る。
そしてしみじみと見ていて、ある事に気がつく。
(私の指、こんなに短かったかしら……。もうちょっと、こう、細くて長かったと思うんだけど……)
自分の手なんか、しみじみと見ている時間がなかったから、前がどうだったとは言い切れないが、こんなにちんちくりんではなかったと思う。
(戦神様の御手が大きいからそう思うのかしら?)
彼女が悩んでいる間も、神は白い液体を手に伸ばしては洗ってを繰り返している。
「墜積衛提!!」
そして白い液体が、ふわふわの泡になった時、嬉しそうに声を上げた。
白い泡もすぐに薄汚れた色になってしまうが、その泡を流すと、ピカピカの白い肌が現れた。
「まぁっ!」
手首から先が別人の手のように白くなった事に、彼女は驚きの声を上げる。
色々な所に割れ目があるのはそのままだが、びっくりするぐらい綺麗になった。
その綺麗になった手を、戦神はこの上なく上質な感触の布で拭いてくれる。
(凄い!凄いわ!!私の手が高級品のようになったわ!!)
爪は歪で、欠けたり伸びたりしているが、それでも初めて自分の手が綺麗だと思えた。
儀式前の水ごりの後でも、こんなに綺麗になった事はないのではないだろうか。
彼女は綺麗になった手に喜んでいたので、戦神の強張った顔は目に入らなかった。
「ふろ………ふろだ。うん……ふろだ」
注意深く聞いていたなら、『ふろ』との言葉が聞き取れたかもしれない。
しかし結局その単語も理解していないので、彼女は自分の未来を知る術は無かった。
丸洗い。
そんな未来を知る事なく、戦神に気持ちの良い香油のような物を手に塗り込んで貰い、彼女はピカピカの手に感動し続けていた。
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