1.聖女、神の国に降り立つ / 因習の村
1.聖女、天国を知る
顔に柔らかな光が当たっている。
(いけない、もうお日様が出ているわ!!お勤めが!!起きなくちゃ!!)
彼女は慌てて目を開けようとした。
………が、
(でも、何かしら、すっごく気持ちいい……このサラサラでヤワヤワの毛皮……?ぬくぬくする………)
体に掛けられている、極上の肌触りの温かな物が気持ち良すぎて、体が目覚めを拒んでいる。
(しかもこのシーツに枕、スベスベでフワフワで、なんていい匂い……花園にいるみたい………)
何とか起きようと体を動かすと、貴族が使うような極上の布の感触がする。
その布はふわふわと温かくて、芳しい匂いがして、まるで花園の上に広がる雲の上に眠っているようだ。
(あぁ、私、きっと天国に召されたのね。この罪深い身を受け入れてくださるなんて、神は何と慈悲深い事かしら……)
感動のあまり、未だ目覚めを拒む目から涙が溢れる。
「和粗爺団性複紙?殖諭類、髄坂激?」
そんな彼女の耳に全く耳慣れない言語が入ってくる。
「餐阻帖鴎?蒋鴫挑障沸函蓉糟寧未装」
全く理解できないが、何か語りかけられている事はわかる。
低くてはっきりとした男性の声だ。
天国の神様に、何か語りかけられているのかもしれない。
彼女は頑なに目覚めを拒む目を、こじ開ける。
「鈴阜砦直?遭柘衡郎甘之癌鷺鋪蕎期」
涙で視界がボンヤリとする中、誰かが自分を覗き込んでいる。
彼女は素晴らしく
(戦神様だわ……)
はっきりした視界の中に現れたのは、意志の強そうな眉と、思慮深さを兼ね備えた黒い目、太陽の恵みを存分に受けた色の肌を持った男性だ。
その体躯は均整が取れ、威風堂々としており、『覇者』を思わせる。
彼からは他者を圧倒するような、荒々しくも清廉な神気が溢れ出ており、彼女は直感的に、彼が戦を司る神であると感じる。
身に纏っている服は真っ白で、神が着るにしては、かなり素朴な形をしているが、何やら力強さを感じる図が胸に描かれているし、下に履いている服も、形こそ簡単だが、見た事のない材質で作られている。
きっと間違いない。
「塘迷瀬鰹興開庖猪距繋謎?」
低いながらも、慈しみを感じる声で、何やら問われてる。
(どうしよう……)
しかし全く神の言葉がわからない。
これでは折角のお言葉に、返事をする事すらできない。
せめて神学を学ばせてもらうのだったと思いつつ、彼女は魅惑の寝床と決別し、何とか身を起こす。
「神しゃま、身に余るお言葉、感謝いたしゃます。しかしにゃがら申し訳ごじゃいましぇん。無学にゃ私にゃは貴方しゃまの言葉が理解できましぇん」
そう言って深々と頭を下げ、平伏する。
彼女は平伏しながら、内心、首を傾げる。
どうも舌がもつれて、喋りにくい。
体も上手く力が入らなくて、動かし難い。
優雅に頭を下げたかったのに、ぽふんと柔らかいベッドに顔が埋まってしまうし、頭が妙に邪魔で腕も伸ばし難い。
「重苫!?白萱外剛綴笹慨類輩埴!?」
あまりに品の悪い平伏に、神様も驚いたようで、何やら声を上げている。
そして畏れ多い事に、神は手ずから平伏した体を起こしてくれる。
「………?」
思ったより、神は大きい。
脇の下に入れられた両手だけで、上半身の大半が覆われてしまう。
前に座られると、ほぼ上を見ないと顔が見えない。
(流石、神様。お体も大きいのね)
彼女は尊顔を見上げて、感心してしまう。
戦神は穏やかな顔をして、その巨大な手の平で彼女の頭を包む。
「樽歎順語註遊徹警婿」
何を言っているかわからないが、とても穏やかな声で、少なくとも彼女の非礼に怒ったりはしていないようだ。
威圧感のあるお顔立ちだが、微笑むと、とても柔らかい。
自分の心が暖まるのを感じて、彼女も微笑んでしまう。
「渦允産穂磯遡峯」
大きな手で彼女の頭をもう一度包んでから、神は立ち上がる。
そしてずしんずしんと歩き去って行く。
「あ、あの……私、どうしたりゃ……」
声をかけると、神は振り返り、『寝ていなさい』とでも言うように、手で押し返す仕草をする。
寛大な心で惰眠を勧めてくれているのだろうか。
妙に体が動かし難いので、彼女は有り難く、雲のようにフカフカな布の上に留まらせてもらう事にした。
そして改めて彼女は周りを確認する。
(まぁ、このフカフカなベッド、木枠が無いわ!)
よく見ると、彼女が寝ていたのはベッドではなく、床にそのまま布が敷かれている。
しかもこれは、ただの布では無い。
(凄い……こんな上質な布を惜しげもなく……中に入っているのは、もしかして羊毛かしら?)
貴族の寝具には、羊毛が使われていると聞いた事があるが、こんなにふわふわにするまで入れるには、一体何頭の羊の毛を刈らないといけないのだろう。
しかも羊毛を包む布は、熟練の職人の手によるものなのか、糸が恐ろしい程緻密に織られ、目が整っている。
王族すら、こんなに滑らかな手触りの寝具を持っていないのではなかろうか。
枕ともども、思わず顔を埋めたくなる程素晴らしい肌触りだ。
あまりの豪華さに、彼女はため息を漏らす。
藁のベッドにしか寝た事がない身としては、畏れ多さすら感じてしまう。
そして彼女は自分に掛けられていた、毛皮だと思っていた物を改めて見て驚く。
(これは毛布!?いえ、そんな…………でも、確かに毛布だわ……一体、どうやって、こんな毛皮のように作っているのかしら!?)
彼女の知る毛布は、毛を織り込んで編まれた布だったのだが、これは獣の毛皮のように、細い繊維が立てられた状態で織り込まれている。
一体どのような手法で織られたのか、想像すらできない、素晴らしい品だ。
撫でると、儀式の時に着た事のあるビロードにそっくりな、まろやかな手触りだ。
いや、あのビロードより素晴らしい手触りかもしれない。
撫でるだけで、手が蕩けそうだ。
あまりに素晴らしい感触なので、無限に撫でていられる。
こんな素晴らしい物で眠らせてくれるなんて、神とは何と心の広い存在だろうか。
彼女は手を組んで、神に感謝の祈りを捧げる。
(こっちは……凄い!草?を編み込んでいるのかしら?)
次は寝床が敷かれている床に目が行く。
草と思しき物が、これまた丁寧に編み込まれ、端に美しい刺繍をした布が巻かれている。
長方形のそれが、部屋全体に敷き詰められ、何とも爽快な匂いを漂わせている。
まるで草原に居るようだ。
触ってみたら、すべすべとしており、汚れはおろか、埃一つない。
成る程、土埃を避けるための天蓋がなくても快適に眠れるはずだ。
彼女はそっと、雲のような寝具から這い出る。
そして陽光の差し込む方へ近寄る。
(不思議な……鎧戸……?)
縦横に交わる木製の枠に、真っ白な物が張られている。
「…………紙だ!!」
薄い布だろうかと触ってみて、彼女は驚きの声を上げる。
人の世で使われているのは羊皮紙で、南の国から届けられたと言われる『紙』は、まだ珍しい。
しかも彼女が知っている紙は、もっと分厚くて手触りが悪く、色も薄汚れた灰色だった。
なのに、この紙は汚れを知らぬ神の衣のような美しい白で、陽光を通す程に薄いのだ。
それでいて強度に不安を感じない。
流石、尊い神の技術だ。
「成再昆瓦蛋卵惹歎?」
感動していた所に声をかけられて、彼女は飛び上がる。
「っっっ!!!!」
その瞬間、ズボッと紙に指が入ってしまった感覚がした。
「あぁぁぁぁぁ!!ああああ!!」
神の住まいを壊してしまった。
彼女は悲鳴を上げながら慌てて指を引き抜くが、汚れなき白い紙は無惨に破れてしまった。
「も、も、申し訳、申し訳ごじゃいましぇん!!」
一も二もなく、彼女は
神の持ち物を壊す事などあってはならぬ事だ。
どんな神罰を与えられても文句は言えない。
「ひっく……も、もゔじ訳ありましぇん!うぅぅ、もゔしわげごじゃいましぇん!!」
あまりの恐ろしさに両目からボダボタと涙が溢れ出す。
十五の花の盛りの娘にあるまじき、鼻水まで吹き出してしまう。
「ゔぅううう、も、もうじわげ、ごじゃいましぇ……」
そんな彼女を大きな手が、再び持ち上げる。
「廿了梁化旺徳楊。憎鴻惹芥険」
ひょいと持ち上げられた彼女は、畏れ多くも、戦神の膝の上にのせられる。
そしてやたらと柔らかで、紗のように薄い布で優しく顔を拭われる。
「しぇ、しぇしんしゃま……」
高価そうな布なのに、何枚も何枚も、濡れたら取り替えて、丁寧に拭かれる。
見上げた戦神は、黒い慈悲深い目で彼女を見ている。
「ふーん」
そして鼻に薄い布をあてがう。
「???」
彼女が首を傾げると、再び、
「ふーん」
と言われる。
「???………ふ、ふーん」
真似せよという事なのかと思い、控えめに真似てみると、鼻に残っていた鼻水が飛び出してしまう。
花も恥らう乙女がやって良いことではない。
彼女は慌てたが、戦神は飛び出した鼻水を優しく拭いてくれるのだ。
そして良くできましたとばかりに、大きな手が頭を撫でてくれる。
涙と鼻水が拭き取られると、何とも芳しい香りが、鼻腔をくすぐる。
(な、な、何なの!?この、嗅いだ事はないのに、問答無用に美味しい事が予想できる匂い!!)
あまりの匂いの美味しさに、思わず、クンクンと空気を吸い込むと、彼女のお腹が、物欲しげな声を上げる。
「ひっっ!!」
彼女は慌ててお腹を押さえるが、音は止まらない。
寧ろ、更に声高に空腹を叫ぶ。
神様の前でこんな辱めを、よりによって、自分の内臓に受けるなんて。
鳴り止まない腹を抱えて、彼女はうずくまる。
「民錆徹迷潅柊」
そんな彼女の頭がまた撫でられる。
顔を上げると、戦神は赤く塗ったお盆を引き寄せる。
盆の上には厚みのある器がのっており、とても熱いようで、湯気が上がっている。
戦神は同じ盆の上にあった布を器にのせ、その蓋を開ける。
「ふわぁぁぁぁ〜」
芳しい匂いが湯気とともに周囲に広がったお陰で、思わず彼女は声をあげてしまう。
器の中には湯気をあげる白い粒と、何かの葉っぱ、恐らく人参と透き通った野菜、そして……
「お、お肉!!」
彼女の知っている形状ではなく、まん丸だが、見間違うはずがない。
お肉なんて食べたのはいつぶりだろう。
二月ほど前の新年祝いの場で食べた鶏スープだった気がする。
あの時はカケラがうっすら入っている程度だったが、神の器には丸々とした塊が3つも見える。
こんな物を見せられたら、腹の虫はオーケストラ状態だ。
一つしかないお腹から、複数の音が響くのは何故だろう。
(これから戦神様はお食事なのね)
彼女は乙女にあるまじきヨダレを必死に飲み込む。
(あまりじっと見てはいけないわ。失礼になっちゃう。で、でも、目が、目が離れない!!!)
人の食事を見つめるなんて無作法、やめなくてはいけない。
しかし彼女の目は、どんな意思の力を持ってしても、美味しそうなお肉に吸い付いてしまう。
戦神は陶器の豪華そうな匙で、器の中の物を掬う。
そしてフウフウと息を吹きかける。
(あぁ〜〜〜美味しそうすぎるぅ〜〜〜!トロッとして、ピカピカ輝いて……お肉とお野菜の匂いが混じって……あぁ、この、嗅いだことのないのに不思議に食欲を誘うこの匂い!!!正に神の食べ物!)
うっとりと匙の中身を見つめていたら、何とその匙が彼女の方に近づいてくるではないか。
(そ、そんなに口に近づけられたら……じ、じ、自制心が、自制心が………)
獲物に食らいつく蛙のように、匙に飛び付きそうになるのを、彼女は自制心の出力を最大にして堪える。
「七平、弄超鰭膝安郷津畢?材染酢砂駕川較用」
そんな彼女を煽るように、匙がチョンチョンと唇をつつく。
「ふ、ふ、ふ……」
もう自制心が弾け飛ぶ寸前だ。
唇が開きたいと、変な声を出す。
「あ〜ん」
そんな彼女に、また戦神が言う。
「?」
彼女が戦神を見上げると、もう口を閉めていてもヨダレが溢れ出てきている姿に、噴き出されてしまう。
「あ〜ん」
そして優しい、この上なく優しい笑顔で、また神は言うのだ。
これもやはり真似しろという事なのだろうか。
「あ、あ〜……っん」
口を開けたら、飛びつくより早く、匙の方が口に飛び込んで来る。
「!!!!!!!!」
彼女は思わず頬を押さえる。
ジュワッと大量の唾液が漏れ出たせいで、顎の後ろが痺れるように痛んだのだ。
美味しい。
美味し過ぎる。
味わったことのない、この味は何と表現すれば良いのだろう。
味付けといえば、塩味くらいしか知らない彼女には到底表現できない。
とろりとした液体が舌を包んだ瞬間に、頭から足先に向かって毛穴が開いていく。
あまりの美味しさに、全身が歓喜している。
とてつもない旨みの中、噛み締めると、何ともまろやかな甘味が広がる。
あの白い粒々だ。
何て豊かな味を持つ食材なのだろう。
もっと味わっていたかったのに、喉がこの美味しい物を早くくれと反旗を翻し、ごくんと飲み込んでしまう。
勿体無いが、温かく、柔らかな喉ごしが、これまた堪らない。
「お……おいひぃ!!!」
思わず彼女は声を上げてしまう。
こんな美味しい物が、この世に存在したのか。
いや、神がいるから、ここは神の世界だ。
流石神。
神凄い。
彼女が最大限の尊敬を込めて神を見上げると、
「あ〜ん」
と、まさかの二杯目が口元に運ばれて来た。
もう彼女の頭から遠慮の二文字は消え去っていた。
二口目も震えるほど美味しい。
一口目はすぐ飲み込んでしまったので、今度こそ味わおうと思うが、あまりの美味しさに、すぐにごくんと飲み込んでしまう。
「………!!!」
そして彼女は目撃してしまった。
神のお匙がお肉を小さくして、掬い上げたのだ。
(まさか、まさか、まさか………)
彼女の目は、匙の上のお肉に釘付けだ。
匙はゆっくりと彼女の口に運ばれてくる。
「あ〜ん」
そして神はそう言ってくれたのだ。
もう蛙も顔負けの速度で、彼女は匙に飛びついた。
(お肉……!お肉………!!お肉………!!!美味しい!美味しい!美味しい〜〜〜〜)
迸る唾液に顎が決壊しそうだ。
彼女は頬を押さえて、お肉に震える。
塩っぱくて、噛むとホロリと崩れる。
何のお肉かわからないが、とにかく美味しい。
美味しくて、美味しくて、涙まで出てくる。
「帳閑仔込!?」
戦神が驚いたように顔を覗き込んで来る。
「おいひぃれひゅ」
彼女は思わず口に物を入れたまま喋ってしまう。
「おいひぃ……おいひぃよう……」
噛む毎に口に広がる旨味に、もうそれしか言えない。
ごくんと飲み込むと、旨味が全身に染み渡る。
感動に震える彼女に、匙は再びお肉を持ってくる。
「おいひぃ……おいひぃ……」
最早、彼女は美味しいと咽び泣きつつ、神の差し出す匙に飛びつく人蛙へと成り果てた。
お肉も美味しいが、入っているお野菜も、味が濃くて美味しい。
栄養がたくさん入っている味がする。
そして、そのお肉やお野菜を包み込む、仄かな甘味の、白くて柔らかな粒も堪らなく美味しい。
あぁ、ここはやっぱり天国なんだ。
なんて素晴らしい世界に迎え入れられたのか。
こんなに死後の世界が素敵なら、重病人や重症患者には悪い事をした。
一秒でも早く、ここに来たかっただろうに、祈祷と舞踏により、現世に長く繋ぎ止めてしまった。
とすると、自分は結構悪いことをしたのか?
いや、今、天国にいる事実を鑑みれば、悪くはなかったのだろうか?
彼女はあまりの素晴らしい食事に、思考を羽ばたかせつつ、いつの間にか満腹になり、再び眠りの世界に誘われ始める。
こんな素晴らしい食事を中断などと冗談ではない。
一口でも多く胃に収めようと、彼女は頑張ったが、優しい手が、ポンポンと一定の間隔で、背中を叩く。
(あぁ、せめてお礼を……こんなご飯の途中で寝てしまうなんて……謝罪も……)
そう思いつつも、瞼の重さに勝てず、彼女はついに目を閉じてしまった。
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