捨てられ聖女の幸せ餌付け生活
まなみ つるこ
プロローグ 捨てられた聖女
その少女は『そこ』に、あまりに不似合いな存在だった。
日の光の届かぬ石畳は、かび臭い埃が舞い、落としきれなかった罪人たちの排泄物や血の汚れが染み付いている。
窓一つないその部屋は、動物の油から作られた灯りの獣臭と、凄惨な『処刑』によってこびりついた死臭が混ざり合い、呼吸する事すら不快になる。
部屋の最深部には禍々しさを感じる漆黒の扉がある。
一見、
扉は人が一人滑り込めそうな隙間があり、そこから仄かな光と、柔らかな風が吹き込んでいる。
その光は部屋を照らす事すら出来ない弱さなのに、扉の隙間を直視しようとすると、何故か、太陽を見た時のように、目が眩む。
この部屋は表向きは『源の間』と呼ばれ、奥にある人智を超えた扉は『神々の門』と呼ばれる。
「嫌だ!嫌だ!!俺は魂まで喰われる程の罪は犯していない!!そうだろう!?」
罪人―――強盗殺人を犯した男は、騎士たちに引き摺られながら泣き叫ぶ。
筋肉質で体のつくりは大きいが、騎士たちに敵うほどの実力はない。
「口を慎みなさい。貴方は現世で犯した罪を神の元に赴き、償うのです。償いが済めば……」
「嘘だ!嘘だ!!俺は知っているぞ!!この国の王侯貴族の奴らは悪魔と契約しているんだろ!!俺たちを悪魔の生贄にして魂まで食わせるんだ!!」
司祭が諭そうとするが、男は口から泡を飛ばしながら騒ぎ立てる。
気が狂ったように体を捻って逃れようとするが、騎士たちの拘束は緩まない。
「……貴方の罪を神の前で告白しなさい」
司祭は諦め気味の声音で男に告白を促す。
「これが神だと!?これは『罪人の門』だろうが!!罪人を喰わせて、お前らが力を得るためのモンだ!!何が神だ!!」
しかし男はやはり声を張り上げる。
『ここ』に連れてこられる罪人はいつもこうだ。
この部屋を掃除するのも罪人なので、これから自分がどうなるか、牢の中で同じ囚人に伝え聞いているのだろう。
司祭はため息をついて、騎士に目配せをする。
すると騎士たちは罪人を引き摺り、『扉』に近づく。
「やめてくれ!!魂まで喰われたくない!!」
男は叫ぶが、騎士たちは容赦しない。
罪人やそれを抑える騎士、そして聖職者達は、部屋の中に描かれた、円と幾何学模様からなる『結界』中に立っている。
その縁まで行って、騎士たちは罪人を円の外に押し出す。
突き出された男は悲鳴をあげる。
すぐに戻ろうとするが、槍を持った騎士達がそれを阻む。
「行け!神の元へ!!」
そう口々に言いながら、騎士達は男を門の方へ追いやる。
刃物を向けられた男が、たたらを踏んで、後ろに下がる。
そして、とん、っと、男の肩が軽く『扉』に触れた時だった。
少しだけ空いている扉が、更に数センチ開き、隙間から溢れる光の量が増える。
「ひっ!!!」
怯えた声を上げた男が振り返ったのと、光に紛れて、真っ黒な闇で作られたような触手が飛び出してきたのは、同時だった。
「ひぃっっ!!た、たすけ……!!」
『闇』としか表現できない、光を飲み込む触手は幾重にも男に絡まり、抵抗する男を扉へと引き摺る。
男は小便を漏らしながら抵抗するが、圧倒的な力で扉に引き込まれていく。
大柄ゆえ、扉に肩がつかえるが、闇の手は容赦なく男を引っ張る。
「あ、あ、あぁぁぁあああ!!!」
ゴリゴリと腕が折れる音と、断末魔の叫びが室内に響き渡る。
司祭も、騎士達も、目を閉じたり、視線を逸らしたりしてその光景から、目を背ける。
音が止むまで待つと、そこには男の小便と飛び散った血だけが残っている。
いつ立ち会っても胸糞の悪い儀式だ。
男を槍で追い立てた騎士は、あまりの気分の悪さに唾を吐き捨てる。
「魔力なしではこれが限界か……」
僅かに開いた扉を見て、司祭は呟く。
罪人を取り込んだ扉は、よく見れば、最初より少し開いている。
騎士は司祭の呟きに、吐き気が込み上げる。
この『神々の門』は人を喰う。
そして喰った人の力に対応して扉が開くのだ。
昔は魔力持ちの人間も多く、比例して、魔力を持つ罪人も多かった。
その為、『神々の門』は大きく開き、多くの恵みをもたらした。
しかし今は毎日のように罪人を喰わせても、人一人通れるか否か程度の隙間しか維持できない状態だ。
もっと隙間が小さくなれば、人を取り込む事すらできなくなるだろう。
神々の『恵み』が無くなる日は遠くない。
「偽りの聖女、神を欺いた大罪人をここへ」
司祭がそう宣言した時、部屋の中には、えも言われぬ緊張が走った。
カシャン、カシャンと遠くから鉄が擦れる音が聞こえる。
その音が近づくにつれ、部屋の中の騎士達は視線を下げる。
見たくない。
その姿を見たくない。
皆の顔がそう言っている。
槍を持った騎士も皆と同じである。
これから現れるであろう、その痛ましい姿を見たくなかった。
ギィ、と扉が開かれる音と共に現れたのは、深い緑を帯びた黒髪の少女だった。
かつては大きく波打ち、柔らかに彼女の背を覆っていた髪は、無惨に切られ、油ぎって、汚れが絡まっている。
騎士たちに柔らかな慈愛を降り注がせていた、オリーブ色の瞳は、伏せられた長い睫毛に隠されてしまっている。
『お役に立ったなら良かったです!』そう小鳥のような愛らしい声で囀っていた唇はひび割れ、色を無くしている。
元農民である事が信じられない程、白く輝くような肌は、垢や汚れで黒ずみ、激しい責苦を与えられてられたであろう鞭の痕が各所に残っている。
どんな下級の兵士であろうと区別せず癒した細やかな指は、爪という爪を剥がれ、歪に曲がってしまっている。
軽やかに舞い、神々の恵みを勧請した足は、足枷が食い込み、引き摺るようにしか動けなくなっている。
それはかつて『豊穣の聖女』と呼ばれ、国に召し上げられた少女の末路だった。
ここにいる騎士達は、十にも満たない頃に親元を引き離され、怯え、泣いていた彼女を知っている。
そして望まぬ『聖女』の名を押し付けられながらも、健気に皆を癒し、豊穣の祈りを捧げていた姿も。
『私の力がお役に立つなら』
そう言って微笑む穏やかな少女だった。
幸せになるべき子だった。
間違っても、拷問の末に、偽りの罪を告白させられ、人柱にされて良いはずがない子だった。
しかし魔力を持たない、下級の騎士達に発言は認められない。
彼女が歩く度に、足につけられた枷から、痛ましい金属の擦れる音が生まれる。
隣を歩く騎士は、彼女がよろける度に手を出そうとして、強く拳を握る。
力があったなら、彼女を攫って、遠くの国に逃してやれるのに。
無力な騎士は歯を食い縛る。
「大罪人・アカートーシャ。貴方の罪を神の前で告白しなさい」
司祭の声には嘲りが混ざっている。
何もない農民の娘で、貴族の後ろ盾も、神殿との繋がりもなかった彼女は常に粗末に扱われた。
『豊穣の聖女』等と呼びながらも、彼女を敬う奴はいなかった。
彼女を愛したのは力もない、彼女の力に救われた民草だけだ。
声をかけられた彼女は、伏せていた顔を上げた。
真っ直ぐに歩けない程の拷問を受け、汚れ切った姿だったが、その瞳は美しく澄んでいた。
この悍ましい部屋に似つかわしくない神々しさがあった。
「私の罪は、愚かであった事」
かつては小鳥の囀りのようだった声は、掠れてしまっていたが、それでも彼女ははっきりと宣言した。
「民を救うとの妄言に惑い、言われるがままに『力』を使ってしまった事」
そう言い切る彼女は美しかった。
そして悲しかった。
この部屋には彼女の奇跡によって命を救われた者が幾人もいる。
彼女はその奇跡を全て否定した。
騎士達は辛そうに顔を歪ませ、司祭は怒りに顔を歪ませた。
この司祭こそが彼女を『偽聖女』と言い、罪人として、『神々の門』に捧げるべしと声高に謳った先鋒だ。
骨の髄まで彼女を利用し尽くした司祭にしてみれば、痛烈な皮肉に聞こえたのだろう。
司祭は彼女を罵ろうと口を開いたが、彼女はその言葉を待たずして、歩み始め、円陣から出て行く。
彼女の横顔は薄ら汚れながらも、燐光を発しているかのように美しかった。
槍に追い立てられる事もなく、彼女は緩やかな歩みで門に近づいて行く。
誰も彼女の歩みを邪魔する事はできなかった。
「……『過剰なる恵みは人心を腐らせる。手の届く人々の細やかな幸せを祈りなさい』……お母さんの言う事を守っていれば良かった……私さえ……生まれていなければ、皆が死ぬ事もなかったのに……」
彼女は嘆きのような呟きを残し、扉の取っ手を掴む。
部屋の各所から騎士達の息を呑む音が響く。
先程の罪人のように、汚らわしい闇の手に彼女が飲み込まれると思ったのだ。
しかし扉から闇の手が生まれることはなかった。
頑なに開かなかった扉は彼女が引くと、あっさりと開いていく。
「おおおおお!!」
司祭が歓喜の雄叫びを上げる。
仄かだった光がどんどん光量を増し、直視できないほどの眩さになっていく。
「やった……やった!!思った通りだ!!聖女程の力の持ち主が必要だったのだ!!儂の、儂の功績だ…!!」
狂ったように祭司は笑い声を上げる。
「アシャー!!行くな!!!」
騎士は我慢できずに、叫んだ。
目が焼けるような光の中、彼女は確かに一度振り向いた。
そして小さく頭を下げて、光に溶けるように消えていく。
「アシャー!」
「聖女様!!」
「アシャー様!!」
「ちび!!」
「アカートーシャ様!!」
最初の叫びを皮切りのように、騎士達は声を上げる。
彼女はこの世で一番『門』に相応しくない人だった。
眩むかのような光は、やがて収束し始める。
騎士達は膝を折ったり、地面に伏せたりして嘆いていた。
そんな中、顔を紅潮させた司祭は喜色満面で扉を見る。
「見ろ!『恵みの扉』が全開だ!!陛下に、いや、まず猊下に報告を……!!」
そう言って彼が踵を返した時だった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーンと鐘が鳴り響いた。
一回の鐘は時を知らせる。
二回の鐘は慶事を知らせる。
三回の鐘は弔事を知らせる。
四回の鐘は使われていない。
そして五回の鐘は……敵襲などの禍事が起こった事を知らせる。
「な、何だ!?」
司祭は狼狽えたように、視線を彷徨わせる。
鐘はきっちりと五回づつ、止まる事なく何度も何度も繰り返される。
「門が………!!」
誰かが叫んだ。
全開になった扉は、光を失った、ただの鉄の塊になっていた。
気色悪い鼓動も無くなっている。
光が溢れていたはずの、扉の中には、ただの古びたレンガの壁があるだけだ。
「ど、ど、どう言う事だ?光が……恵の光が……」
司祭の狼狽えた声が虚しく響く。
彼女は貴族の後ろ盾も、神殿との繋がりもなかった。
故に冤罪で『門』に喰わされる人柱にされた。
しかし無力に見えた彼女には、決して弓引いてはならぬ存在がついていた。
聖女は神より与えられた、最大の慈しみ。
彼女はこの部屋には決して入れてはならぬ存在だったのだ。
この日、王国は『恵の光』を失った。
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