第7章 約束

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 都内にある落ち着いた雰囲気のバーで、昼間は東堂とお酒を飲んでいた。

「うへへへへぇぇ、昼間せんぱぁい。付き合い始めたからってぇ、こんなところでダメですよぉ、もぉ~」

 隣では唯がカウンターにうつ伏せの状態で寝ている。彼女は先月二十歳になりお酒を飲めるようになったのだが、一杯飲んだだけでこの有様だ。昼間がいる時以外は控えさせた方がいいだろう。

「ふにゃっはあああぁぁ! まだまだいけるなのよおおおぉぉ!」

 一方フィジーはカウンターの内側、バーのマスターの横でシェイカーを振っている。振れば振るほど的な競技と勘違いしているらしい。苦笑するマスターと目が合う昼間。思わず頭を下げた。

 東堂はそんなふたりの姿を見て笑いつつ、杯を少しだけ傾ける。

「君の周りの女の子は面白い子が多いねぇ。羨ましい限りだよ」

「馬鹿にされてるようにしか聞こえませんが」

 昼間もグラスを傾けながら、恋人となった人気声優の横顔を眺める。頬が緩み切って幸せそうな顔をしていた。あ、涎が垂れそう。

 あの衝撃の呟きから一日。炎上は現在も続いている。

 後輩の元には明科から何度もメッセージや着信が来ているが全て無視。東堂が業界に手を回してくれたおかげで彼女の仕事には影響が出ないようにしてくれたが、それもとりあえず今関わっているものだけだ。このままだと将来に影が差してしまうことは避けられないだろう。

「それで? 彼女を酔いつぶしたところで本題を聞かせてもらえるかな?」

「いやこれは狙ったわけでもないんですけど。まあ、そうですね。折角なんで話をしておきますか」

 昼間はカララ、と杯を回しながら、改めて言葉を紡ぐ。

「最終審査の件なんですけど、少しお願いしたいことがあります」

「ん~? 審査に関する協力みたいなのは出来ないよ」

「分かってますよ。それで……」

 話を終えると、東堂は空になったグラスを置いて、組んだ手の甲に顎を乗せて考え始めた。

「……それは本気かい?」

「言ったじゃないですか。俺たちは負けないって」

「でも、それは……」

 さらに続けようとして、しかし昼間の担当編集者は首を振る。

「いや、そうだね。君ももう大人だ。守られてるだけの存在じゃないってことか」

「すみません。ご迷惑をかけるかもしれませんが」

「構わないさ。僕は君のお兄さんだからね」

 違うだろ、と反射的に口から出そうになったが、今日だけは黙っておく。

 東堂は何か思うところでもあるのか、そういえば、と語りはじめた。

「知ってるかい。歌が音痴のひとって、自覚がないひとがほとんどなんだ。演技もそれと似たところがあって、本人は出来てるつもりでも他人からみると酷かったりするんだよ」

「……それが何か?」

 含みのある言い方ではあったが、それ以上は何も話す気がないらしい。支払いを済ませると先に席を立った。

「今日は特別に奢ってあげるよ。流石にタクシー代までは出せないけれど、自力で帰れるかい?」

「あ、はい、大丈夫ですよ。でもついでにフィジーが今作ってるお酒の代金も払っていってくださいよ。俺にそんな支払い能力ありませんから」

「……頼むから彼女にお金借りるとか格好悪いことは止めてくれよ」

 追加で支払いを済ませる担当編集者。

 最後に、と前置きをして、東堂は口を開く。

「なんというか、君の今回の行動は愚行と言わざるを得ないけれど、僕は今、かつてないほどに興奮している。はは、ようやく君の本気が見られるからかな」

 昼間が言葉を返す前に、彼は背中越しに手を上げて去っていった。昼間はもったいないので氷までガリガリと食べる。

 すると昼間の前に新しくグラスが置かれた。

 マスターの方を見上げると、手で横を示す。

「あちらのお客様からです」

 指示された方に目を向けると、カウンター席に座り、ドヤ顔で親指を立てているフィジーの姿があった。マスター本当にすみません。

 差し出された杯の中身は一体なにを入れたのか七色に輝き、グツグツと煮えたぎるかのように気泡が溢れては弾けている。

 息を飲む昼間。覚悟を決めると、グラスを一気に傾ける。


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「先輩って、お酒弱かったんですね」

 酔いつぶれた昼間をフィジーが召喚した車椅子に乗せて運びつつ、唯は夜の帰り道を歩いていた。唯の酔いもまだ完全に抜けたわけではないが、少し寝たのでだいぶマシになっている。

「ゆい~ゆい~、帰ったら一緒にお風呂入るのよぉ~。昼間も一緒に入るのよぉ~」

 無邪気な笑みの妖精の言葉に、唯は真っ赤になる。

「ちょっ!? そ、そそそそそれはまだ、まだ早いよフィーちゃん!? それに昼間先輩の家のお風呂は狭いから……いや、それならわたしの家に……そ、そうだ、今なら先輩寝てるし、ハアハア、連れ込んで何をやっても……ハアハア、ハアハア!」

 静かな寝息を立てている先輩を見つつ、邪な考えの過ぎる唯。

 ふと、前方から誰かが歩いてくるのが分かった。ジュルリ、思わず垂れていた涎を拭う。

「……やっと見つけたよ、唯ちゃん」

 暗がりから掛けられた、少年マンガの主人公のような声。唯は目を見張る。

「明科、さん……っ!」

 暗がりから一歩前に出て、青年は街灯の下に立つ。

 明科明。双方同意であったとはいえ、唯を我が物にしようとした人気声優。

 彼がしたことを、唯は忘れていない。約束以上の強引な手法で、明科は唯の――

 恐れから、唯は一歩後ろに下がる。昼間は眠ったまま。フィジーは主人の膝の上に乗り、唯と青年を不思議そうに見上げている。

 どうやって逃げようかと考えを巡らしていたが、しかし明科は両手を上げて首を振った。

「いや、ごめん。別に今さら唯ちゃんをどうこうしようとは考えていない。ただ、きみと話しておきたかっただけなんだ」

「……なんですか、話って」

 力ない笑みを浮かべる青年に、唯は警戒を解かない。人通りも皆無というわけでもないため、いざとなれば大声を出せばいいだろう。

 明科は迷うような表情を見せていたが、自然に浮かんだと思える疑問を投げかけてくる。

「どうして、そいつと一緒に?」

「……わたしの、大切なひとです」

 今この状況を聞かれたらどう答えていいものか分からなかったが、幸い迷うことのない質問だった。

 青年は驚いた顔をしていたが、唇を噛みしめて、感情を押し隠す。

 そして意を決したかのように、明科は語り始めた。

「きみは、信じてくれないかもしれないけれど、僕は本当に、きみのことが好きだった。汚い手を使ったと思うし卑怯であったことに変わりはない。けれど、本当にきみを幸せにするつもりだった」

「…………」

 彼の言葉に、唯は何も言わない。

「僕は、これほど誰かを好きになったのは、その、初めてだったんだ。きみと初めて逢った時、きみの夢を聞いて、僕は、きみが僕と同じ夢を抱いていると知った時から、ずっと唯ちゃんのことが気になっていた」

「もう、止めてください」

 思わず口を開く。

 だが明科は堪えきれないといった様子で、さらに続けた。

「本当は、あんな脅しをするつもりじゃなかった。ただ、父さんがAzaleaのアニメ化について話をしていたのを偶然聞いて、最初に少しだけ、推薦をエサにしてきみを食事に誘ったら上手くいったから、魔が差したんだ。その、先月のことも、きみがそいつと一緒にいたのを見て、頭に血が上っていた。本当にごめん」

 青年は頭を下げてくる。唯はどうしていいか分からずに、ただ慌てるだけだった。

「わ、分かりましたから、もういいです。帰ってください」

「その上で、改めて言わせてほしい」

 明科は顔を上げると、真っすぐに唯の目を見てきた。

 本気の、覚悟を決めた顔。唯はつい昨日、彼と同じ表情をした人を知っていた。

「――神代唯さん。僕はあなたのことが好きです。どうか僕と付き合っていただけませんか?」

 協力も脅しも、一切の条件もなく。

 ただひとりの男として。

 明科明は泣きそうな顔で告白していた。

 唯は小さく深呼吸をして、握っていた車椅子のハンドルから手を放し、腰を折った。

「……ごめんなさい」

 答えは決まっていた。

 青年はまだ何か言おうと口を動かしたが、ギュッ、と強く引き結び、やがて背を向けてしまう。

「いや、こちらこそ無理を言ってごめん。僕にはもうそんな資格なかったのに、きみを前にしたら言うのを堪えきれなかった」

 唯も彼の背に言葉を掛けようとしたが、しかし、止めておいた。

 もしも、明科がただ真摯に、対等な関係で友人として情を育み、告白をしてくれていたのなら、もしかしたら答えが変わっていたかもしれない。

 だがそんなことを彼に伝えても残酷なだけだ。

 唯はもう、昼間を選んだのだから。

 明科は腕で顔の辺りを拭うと、そうだ、と思い出したかのように尋ねてくる。

「きみは、yakan先生に会ったのか?」

「……はい」

 青年の背中がピクリと動く。流石に今目の前にいる唯の先輩がyakanであるとは思いもしないようだ。

 明科は拳を強く握り、迷うような、震えた声で訊く。

「yakan先生は……彼は、どんな人だった?」

 彼の息を呑む音が聞こえた気がした。

 長いような、短い沈黙。

 唯は口を開く。

「yakan先生は――普通の人でしたよ」

 目の前で眠る昼間を見下ろしながら、小さく笑む唯。

 そして、自然と浮かんできた思いだけを口にした。

「頭が良くて、手先が器用で、何だって上手に出来て。でも、言い訳が下手で、口喧嘩も弱くて、周りに振り回されてばかりだし、すぐ調子に乗って、でも失敗すると凹んで。そんな、わたしたちと何も変わらない、普通の人ですよ」

「……そうか」

 それだけ言葉を零し、明科は去っていった。

 角を曲がったところで一瞬だけ見えた彼の横顔に、笑みが浮かんでいるのが分かった。

 小さく息を吐く唯。

 車椅子のハンドルを握りなおす。

「帰ろうか、フィーちゃん」

 しかし妖精からの返事はない。

 見ればフィジーは唯の恋人の膝の上で、猫のように丸くなって寝ていた。

 今度わたしも真似しよう、と。

 唯は車椅子を押し始めた。


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 それからの日々は、瞬く間に過ぎていった。

 yakanの呟きの余波はあまりにも大きく、唯は大学でも仕事でも好奇の目にさらされた。

 しかしどういうわけか明科が、全ては最終オーディションで判断すればいいと広く伝え、騒ぎは彼女への批判ではなく、最終審査への期待に移っていった。

 そして、一か月後。

 業界初。視聴者投票型、『Azalea』の主人公透役とヒロインのソラ役を決める、最終オーディションの日がやってきた。


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 服を着替え、髪を整え、鏡の前で最後の確認。

 笑顔。

「お母さん、行ってくるね」

 写真の中の母に挨拶。変わらぬ笑みで応える母。

 と、誕生日に昼間から貰ったメルティの髪飾りがテーブルの上に置きっぱなしになっていたことに気づく。唯は手に取ると、髪には付けず、バッグの取っ手部分に付けておく。さすがにこんなイタイ髪留めは付けられない。

 代わりに会長に直してもらった形見の髪留めを付け、そっと撫でる。

「準備出来たの?」

 部屋を出ると、リビングのソファに昼間が座っていた。フィジーはフィギュアケースの箱を改造した更衣室に入って、何やら騒いでいる。

「フィーちゃんどうしたんですか?」

 唯の問いに、昼間は呆れて首を振る。

「なんか着ていく服が決まらないって」

「にゃふぁふぁふぁふぁあああぁぁ! これも嫌なのよぉ~。折角の晴れ舞台なのに地味すぎるのよぉ~」

 ポイッ、更衣室から服が投げ出される。先輩が代わりの服を放り込む。

 いつもの光景。大切な日常。唯は自然と微笑んだ。

「もう。フィーちゃんがオーディション受けるわけじゃないのに」

「唯は先に行ってていいよ。俺はフィジー連れて後から行くから」

 苦笑する昼間。

 そこで唯は頬を赤らめて、事前に考えていた台詞を言ってみる。

「せ~んぱい♪ ちゃんと準備はしてくれてます?」

「準備って、お祝いか何かの?」

「それもありますけどぉ、もし落ちちゃった時用の準備ですよぅ」

 指を絡めてモジモジ。唯は恋人の答えを待つ。

「準備って……葬式とかの?」

「違いますっ! 縁起でもないこと言わないでくださいっ」

 相変わらずの天然を炸裂させる先輩にヤキモキさせられながらも、唯はふふ、と小さく微笑んだ。

「指輪ですよ。ゆ・び・わ♪ ちゃ~んと、責任とってくださいね♪」

「そ、れは……あの、大学卒業するまで待ってもらえませんか?」

「だ~め~で~す~。……安物でもいいですから。じゃないとわたし、ホントに死んじゃうかもしれませんよ?」

 ギュッ、と自分の腕を強く握り、震えそうになる身体を抑える唯。

 オーディションの前はいつも不安になるが、今回は今までとは比べものにならないほど不安、いや、とても、怖かった。

 もしもソラ役の最終審査で落ちたら、唯の声優生命が終わるだけじゃ済まされない。

 唯を推薦した昼間も、彼の最高傑作である『Azalea』も、アニメ化プロジェクトにまで泥を塗ってしまうかたちになる。

 だから、怖い。とても怖い。

 唯の不安を察したのか、先輩は立ち上がると自然な仕草で唯の身体を引き寄せて、気づいた時には彼の腕の中にいた。そのまま唇を重ねる。

「ん……ふ。先輩、エスコートが上手すぎます。なんか手慣れてる感が」

「そ、そう? 別に普通だけど」

 昼間の目が泳ぐ。怪しい。

 しかしそれも含めて、これから少しずつ彼のことを知っていけばいいだけだ。

 唯は抱きしめられたまま。昼間が耳元で囁く。

「大丈夫だよ。唯がソラ役を勝ち取るところを、正面から見てるから」

「あ……あふ。耳に、息がかかって……あぁん」

「聞こえていないようですねはい」

 呼吸の荒くなった唯を離し、先輩は苦笑する。

「あぁん、ダメですよ先輩。わたしもう行かないと、ハアハア、ハアハア!」

「痛い痛い痛いって! じゃあさっさとこの手を離してよっ!」

 跡が残るほどの力で彼の腕を握っていた手を解かれて、残念がる唯。

 妖精の方を見てみれば、まだ服選びに夢中のようだ。そろそろ自宅を出なければ本当に間に合わなくなる。

「それじゃあ先輩、行ってきますね」

「はい。気をつけて」

 最後にもう一度だけ軽くキスをして、家を出る唯。

 昼間はただの一度も、頑張って、とは言わなかった。

 きっと、唯が勝つことを本当に信じてくれているからなのだろう。

 自信はある。実力もある。

 負けるつもりはない。

 でも、絶対に勝てるとも思っていない。

 それだけ最終審査に残った声優は、全員が天才レベル。

 誰が選ばれても不思議じゃない。

 ずるをして事前審査から逃げた唯は、最初から不利だ。

 ネットでの評価も最下位。評判もここ一か月で一気に落ちた。

 東堂が仕事に影響が出ないよう計らってくれたとはいえ、明科が『Re→talk』で批判を抑えてくれたとはいえ、誹謗中傷が全くなかったわけじゃない。

 あることないことが噂され、ファン離れも一気に加速した。

 騒動後、新しく入ってきた仕事は皆無。事務所の電話は鳴りっぱなし。

 苦情に脅迫、嫌がらせ。気が滅入るどころの表現では足りないほどの苦悩。

 しかし、唯自身に向けられる悪意や失望よりも、何よりも一番耐え難かったのは。

『Azalea』の作者、伝説の小説家yakan――昼間に向けられる中傷であった。

 あの呟き以降、昼間は一度も『Re→talk』で呟きをしていない。

 皮肉なことにフォロワーはまた増えたと言っていたが、彼のその寂し気な笑みを、唯は忘れることが出来なかった。

 マンションを出て、空を見上げる唯。

 十月に入り空気が冷たくなってきていたが、とても気分の良い秋晴れだ。

 今の唯は、一月前までの、十年前の約束にすがっていた唯ではない。

 自分のためだけに夢を追い、夢をまるで逃げ場所のように追い求めていただけの唯ではない。

 バッグに付けられていたメルティの髪留めを見てクスリと笑い、パチリと取り外す。

 形見であるアザレアの髪留めの隣に、昼間に貰った髪留めも付ける。

 ――大切なひとが出来た。

 過去に約束をした少年としてではなく、希望をくれた物語を書いた作家としてでもなく。

 神崎昼間という、唯のために、唯が一生懸けても絶対に届かないほどのものを懸けてくれた青年。

 今の唯の全ては彼のために。

 唯は昼間のために、声を紡ぐ。

 夢へ挑む。


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 昼間は唯を見送ったあと、オーディションの会場へ直接向かわず、大学のほうへ来ていた。

 サークルには運良く誰もいなかった。

 昼間は隠していた箱を引っ張り出し、中に入れていた衣装を広げる。

 試着。鏡の前に移動し、いくつかポーズを決めてみる。

「おや、それは『Azalea』の主人公、透くんの衣装だね」

「――~~っ!? か、会長っ!? いつからそこにっ!?」

「ははは。きみが来るのが見えたから、カーテンの中に隠れていたのさ」

 意地悪な笑みを浮かべる会長。この人絶対分かっててやってるだろ。

 会長は椅子に座ると、昼間のコスプレ姿をマジマジと見てくる。

「ふむふむ、なるほどね。それを着て唯ちゃんの応援に駆けつけるというわけかい。なかなか粋なことをするねぇ、きみは」

「いや、別に、応援に行くわけじゃないですよ」

「ふむ?」

 首を傾げる会長。

 昼間は澄みきった声音で、静かな瞳で告げた。

「応援なんて必要ありませんよ。だから、一緒に戦いに行くんです」

 昼間の言葉に会長は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた余裕のある笑みを取り戻すと、椅子を差し出し座るよう指示した。昼間は意味が分からなかったが、とりあえず言われた通りに腰を下ろす。

「コスプレは非常に似合っているけれど、髪型も整えないとね。任せたまえ。これでも私はスタイリスト志望だ」

「……金取ったりしませんよね?」

 鏡越しに見える会長の手がピタリと止まる。

 そしてフフ、と怪し気に微笑むと、何処からか取り出した櫛の先を昼間の髪に差し込んだ。

「安心したまえ。きみが卒業するまで待ってあげるよ」


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 都内にある有数の大型スタジオ。

 アニメ『Azalea』、主人公の透役とヒロインのソラ役を決める最終オーディション会場。

 詰めかけているのは関係者と報道陣のみ。一般の入場は制限されていたが、複数のカメラとテレビ局による中継がなされ、オーディションの様子は全て生放送で伝えられる。

 肝心の投票方法は、個人認証を済ませている『Re→talk』のアカウントのみが投票出来る、ひとり一票、リアルタイムで集計され即座に発表される、完全に公平公正な投票システム。

 無論、本番は一発限り。やり直しは効かない。

 唯はステージ裏にある控室で椅子に座り、台本を握りしめていた。

 唯の他に、透役とソラ役を受ける声優は唯を除いて男女五人ずつ。いずれも一次、二次オーディションを勝ち抜いた強豪揃いだ。明科の姿もその中にあった。

 今回の事前オーディションは、話によると通常のアニメの主人公クラスと比べ、実に三倍以上の人数がオーディションを受けたらしい。そういった話を聞くと心の痛む唯ではあるが、今さら後悔することなんて許されはしない。

 唯は誰よりも早くに『Azalea』を知り、誰よりも長くソラの役を練習してきた。

 大丈夫だ。勝てる可能性は十分にある。

 わたしは負けない。わたしは負けない。唯は目を閉じて繰り返し念じる。

 スタッフから声を掛けられた。

 瞼を上げる。

 唯は席を立つ。


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 ステージに出て、唯は指示された椅子に腰を下ろした。

 関係者席から見て、右に透役志望の五人。左に唯を入れたソラ役志望の六人。

 フラッシュが炊かれ、写真を撮られる。心なしか唯に向けられる視線が多く感じる。

 一般人の立ち入りは禁止されているはずだが、予想していたよりも人が多い。複数の企業が関わっている制作陣は元より、報道関係者だけでも軽く百人は超えていた。

 そして関係者席の最前列。その中央。

『Azalea』の作者であるyakanの担当編集者であり、今回のアニメのプロデューサーでもある男性、東堂天地。

 ひとつの空席を挟んで座っているのは、アニメ『Azalea』の監督を務める明科の父の姿。

 その時、唯よりも先に気づいた他の声優陣から驚きの声が漏れる。

 東堂と明科の父の間の空席。そこに立てられたネームプレートの文字を見て、唯も目を見張った。

 ――『yakan』

 あまりにも見慣れ過ぎた、伝説の小説家の名前が。

 唯の大切な、大切なひとの名前が、

 ――唯は先に行ってていいよ。俺はフィジー連れて後から行くから。

 ステージの中央に、添えられていた。

 騒ぎはじめる声優たちを面白そうに眺めて、責任者である東堂が口火を切る。

「ああ、言い忘れていたけれど、後からyakan先生も会場に来るから。まあみんなは気にせずいつも通りにやってよ」

 その声はあまりにも軽く、しかし会場の空気は一気に張り詰めたものへと変わった。

 明科の父も苦い顔。視線を向けた先にいる息子は、ステージ上で固まっている。

 だが唯は黙っていられずに立ち上がり、東堂に向けて叫んだ。

「ど、どうしてですか!? ひ……yakan先生は覆面作家のはずですっ! 人前に出てくるなんてこと、しかも、テレビ中継だってされるのに!」

「どうしても何も。全ては君のせいだろう? 神代ちゃん」

「え……?」

 yakanの担当編集者の声は、刃物のような鋭さを伴っていた。

 サングラスの奥の瞳は、仇敵を睨むかのような冷たさに満ちている。

「全ては、君のせいだ。君がyakan先生を誑かして、聖域から追い出した。今の彼はもう、ただの悪者扱いだ。その責任を君は……」

「東堂さん。その辺りでよろしいのでは? 過度なプレッシャーを与えることは公平性に反しますよ」

 言葉を失った唯をかばったのは、意外なことに明科の父だった。監督に苦言を呈されて、東堂は息を吐く。

「そういえば、監督はyakan先生と同じく、神代ちゃんをソラ役で推薦していましたね。つまりは彼女の味方というわけですか」

「自慢の息子が私に初めて頭を下げて頼んできたのです。結局、推薦は無意味に終わりましたが、息子の意志を尊重することも親の役目ですからね」

 明科の父はそう言うと、ニコリと頬を緩ませて唯に視線を送ってきた。明科に目をやる唯。彼は赤くなってそっぽを向いている。

「まあ、あなたがyakan先生の唯一ではなくなり、嫉妬する気持ちも分かりますが」

「あっはっは。流石は明科先生。それを言われると痛い。まだまだあなたには敵わないものですね」

 業界の大物であるふたりは笑いあい、東堂は改めてステージ上に視線を送る。

「それじゃあ仕切り直して。もう時間だから始めようか」

 その一言で、空気が変わる。

 かつてないほどの緊張。

 空席をひとつ残したまま、オーディションの幕が開く。


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 →Re:会場のプレッシャーすげぇww

 →Re:これじゃあいつもの実力が発揮出来なくない?

 →Re:ああ、またトチッた。これはもう終わったな。

 →Re:yakan先生まだー?

 →Re:最後は明科くんだー♪ 頑張ってー♪


 演者用に置かれたステージ前のモニターには、リアルタイムで『Re→talk』の呟きが次々に投稿されている。

 二百人を超える関係者。百を超える報道陣。無数のカメラ。そのうえ正面の席に座る業界の大物たち。中央は未だ空席のまま。

 審査は『Azalea』の主人公である透役から行われていた。

 現在、ステージの中央、マイクの前に立っているのは誰もが知る人気声優のひとり。実力は問うまでもない。本来であれば、彼が透役に選ばれても異議を唱えるものはいないだろう。

 しかし、数人の関係者の前で行われる通常のオーディションとは全く違い、これ以上はないくらいの圧力を掛けられた環境の中で、彼は本来の実力の半分も出し切れていなかった。何度も台本を読み込み練習してきたであろう台詞を、噛み、間違い、声がこもる。

 そのまま審査が終了。

『Re→talk』には批判と落胆の弾幕が流れる。

 声優全員が同じ条件とはいえ、これではあまりにも理不尽で無情に過ぎた。

 しかし、誰も異論を唱えることは出来ない。

 現在、この状況はリアルタイムで中継され、放送されている。弱音を吐けば投票権を持つ視聴者に悪い印象を抱かせることになるからだ。

 審査を終えて席に戻る候補者。悔しさを堪えきれず、目尻の端を密かに拭っている。

「はーい、ありがとうございましたー。それじゃあ次は五人目。明科明君、お願いしまーす」

 司会進行はプロデューサーである東堂自らが行っていた。実に楽しげだ。

 明科は席を立つと、真っすぐマイクの元へと向かい、息を吸い、吐く。


 →Re:大本命キターーーー!!

 →Re:とりあえず間違わなければ高評価。

 →Re:明科くん落ち着いて! 大丈夫! 絶対に勝てるよ!

 →Re:寝取られ王子が意地を見せるかww


 善意と悪意。信頼と好奇心。様々な感情の入り乱れた『Re→talk』の呟きが嫌でも目に入ってしまう。

 それでも明科は台本を強く握ると顔を上げ、全身全霊の演技を始めた。


 →Re:うおおおおおおおお! めちゃくちゃ上手いぞコイツ!

 →Re:やべぇ! これは勝ったぞっ!

 →Re:冷静に冷静に。大丈夫だよ落ち着いて。

 →Re:ちょっと子供っぽすぎないか? 透ってもう少し大人なイメージがする。


 唯は思わず身体が前のめりになり、気づけば手に汗を握って応援していた。

 明科は堂々とした演技を続けている。考えてみれば彼は唯と同じアイドル声優。公演で二万人以上の観客を動員したこともある。唯も明科には及ばないが、それでもライブで万を超える客の前に立ったことがあり、それを踏まえると人前での演技は他の声優たちより慣れているところがあった。

 最後までミスすることなく、明科は演技を終える。

 関係者席からは拍手。声優陣たちからも初めてのノーミス演技に拍手が送られていた。


 →Re:ここだけ拍手とかww

 →Re:でも確かに上手かった。この中じゃダントツ。

 →Re:これはもう投票前から決定してるだろww

 →Re:ミスしなかっただけ。透に合ってるか合ってないかは別。


 流れる『Re→talk』の呟きも概ね好評。

 投票するまでもない結果だった。

 明科は嬉しさのあまり涙を零す。人前での演技に慣れているとはいえ、やはり相当のプレッシャーだったのであろう。

 声優全員が席に着き、スタッフが投票の準備を開始する。

 緊張の瞬間。

 しかし、

「あ、ちょっと待って。投票はまだだよ。最後にもうひとり、透役を受ける子がいるからね」

 東堂の告げた言葉に、その場にいた全員が意表を突かれていた。

 明科の父も初耳であったようで口を開く。

「それはどういうことですか東堂さん。私も聞いていませんでしたが」

「あっはっは。すみませんね明科先生。でもこれ、yakan先生が推薦した人ですから。文句は全部yakan先生に言ってくださいよ。言えるものならね」

 昼間が推薦した人と聞き、唯は思い出す。

 先月の、yakanが呟いていた内容だ。


 ――私の担当編集者である東堂さんから、Azaleaの主人公である透と、ヒロインであるソラを担当する声優をひとりずつ、推薦してもいいというお話を頂きました。そこで私は各一人ずつ、候補を上げさせて頂きたいと思います。

 ――透役は後に発表するとして、今日はヒロインのソラ役を発表したいと思います。


 今の今まで忘れていたが、昼間は確かに、主人公とヒロイン、ひとりずつ推薦すると言っていた。

 そして今この時まで、彼は透役に推薦した者をまだ発表していない。


 →Re:はああああ!? ここに来てチート発動かよっ!

 →Re:そんな話あったな。完全に忘れてたわw

 →Re:これ以上自分の価値を落とすなよyakan先生。

 →Re:サプライズのつもりかもしれないけど、ファンはそんなこと望んでません!


 混乱は視聴者だけでなく、演者に報道陣、制作関係者にまで広がっていく。どうやらこの場で六人目の候補者を知っているのは東堂ただひとりであるようだ。

 昼間の担当編集者で兄代わりと言っていた東堂の顔に、今日一番の笑みが浮かぶ。

「それじゃあ入ってきてー。――彼が透役、六人目の候補者の方です」


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 呼吸が止まる。

 目を見張る。

 口を開くが、言葉が出てこない。

 唯の見つめる先で、『Azalea』の主人公透役、六人目の候補者がマイクの前に立った。

 明科も同じように、驚いて固まっている。

 やや伸びた黒髪に白い肌。整った鼻梁だが眠たげな眼。背中に欠けた十字架がプリントされた白いロングコートに黒いブーツ。

 ――『Azalea』の主人公、透のコスプレだ。

 六人目の候補者は頭を掻きながら、とりあえずと言った感じで口を開いた。

「えっと、神崎昼間です。大学生です。年齢は二十一。というか年齢も言うんだっけ? あ、声優の経験はありません。でもすごい練習してきました。あー、他には……」


 →Re:誰だよお前www

 →Re:やべえイケメンだぞコイツww

 →Re:コスプレ気合入ってんな。

 →Re:声優初挑戦って……舐めてんのか?

 →Re:この演出に意味はあるの? 滑ってるよ運営。

 →Re:普通にカッコイイ。


 一気に溢れる『Re→talk』からのコメント。しかし多くが戸惑い、もしくは彼を批判するものだった。

 昼間の目にも見えているはずだが、彼は全く意に介した様子もなくマイペースに語る。

「あ、ちなみにこの衣装、自分で作ったんですよ。コスプレって初めてしましたけど、これが案外……」

「ひ~るま~! 御託はいいからさっさと始めるのよぉ~!」

 突如、ステージの上空から降ってきた謎の物体が昼間の頭に着弾する。

「ついにこの時が来たのよぉ~! わたしもめじゃーでびゅーするのよぉ~!」

 舌足らずで鼻につくソプラノ声。

 背に広がる蝶の羽。

 謎の物体の正体に気づいた者たちが、一斉に騒ぎだす。


 →Re:まさかの妖精乱入www

 →Re:おい! こいつ妖精憑きだぞ!!

 →Re:妖精に触ってるうううぅぅぅ!!

 →Re:すげえええええええぇぇぇ!! 初めて見た!

 →Re:マジか!? 妖精憑きって国内に数人しかいないんだぞ!

 →Re:妖精ちゃん激カワじゃん! 羨ましすぎるww


 批判が一転、好奇へと変わる。

 それでも昼間は全く気にした素振りすら見せずに、苦笑しながらフィジーを己の肩に乗せた。

「この子はフィジー。俺の妖精です」

「おれのじゃないのよぉ~! ひるまがわたしのモノなのよぉ~!」

 ペシペシ、主人の頬を叩く妖精。会場から笑いが起きる。

「それから今日はわたしだけじゃないのよぉ~。ともだちいっぱい連れてきたのよぉ~」

 フィジーが両手を天に掲げる。

 次の瞬間――

「ふにゃにゃにゃにゃー」

「きたのよぉ~。ふぃーちゃんにおよばれされたのよぉ~」

「あわわわぁ~。にんげんさんがいっぱいなのよぉ~」

「おかしちょうだいなのよぉ~」

 ステージの上から、袖から、テーブルの隙間から、会場の入り口から、天井から、椅子の下から、さらにはあの子のスカートの中から。

 次から次へと妖精が溢れだし、会場の天を縦横無尽に駆け巡った。


 →Re:ちょww 妖精の大集会かww

 →Re:ステージが見えねぇww

 →Re:きゃああああああ!! 可愛いいいいぃぃ!!

 →Re:これは中止不可避ww


 会場は軽くパニックに陥る。

 しかし、

「ほら、今本番中だから、みんなお利口にしてないとダメだよ」

 昼間が一言、優し気な笑みを携えて告げた。

「あ~い」

「ひるまにおこられたのよぉ~」

「だっこだっこだっこしてぇ~」

 すると妖精たちは彼の頭に肩に腕に捕まり、周囲をフワフワと漂い始める。〈妖精憑き〉は自身に憑りついている妖精だけでなく、野生の妖精にも触れることが出来、好かれやすいと聞いたことがあるが、まさかここまでとは唯も知らなかった。

「ぬぐわあああぁぁ! ひるまはわたしのモノなのよぉ~! 気安く触れるななのよぉ~!」

 フィジーが癇癪を起して妖精を追い払っていたが、周りは苦笑するだけだ。

「ノラの子はフィジーと違って聞き分けが良くて助かる。ほらみんな、ステージの前に座ってなさい」

「あ~い」

 昼間の指示に妖精たちは素直に頷き、まるで遠足で集合した園児たちのようにステージ前に並び、ちょこん、と座り始めた。妖精たちの微笑ましい光景を見て、会場の雰囲気が和む。


 →Re:あら可愛い。

 →Re:うおおおおおぉぉ! めっちゃ行きてえww

 →Re:まるで妖精の王様だなコイツw

 →Re:こんなに妖精が集まってるの初めて見た……。


 終始黙って事の成り行きを見守っていた東堂であったが、状況が落ち着いたところで口を開いた。

「はいそれじゃあ神崎君。演技を初めてもらえるかな?」

 両肘をテーブルに付き、手の甲に顎を乗せて昼間を見上げるyakanの担当編集者。

 昼間は頷くと台本を開き、軽く呼吸を整える。

 しかし、

「わたしも一緒にやるのよぉ~♪」

 おもむろにフィジーがご機嫌な声を上げた。

 次の瞬間。彼の台本が光ったと思ったら装丁が豪華なものに変わり、先輩の肩に乗る妖精の手にも同じものが握られていた。ペラペラと中身を確かめて、昼間の顔が引きつる。

「おいっ! これ中身だいぶ変わってんじゃねえかっ!? せっかく毎晩押入れの中で練習してきたのにっ!」

「だって妖精の台詞が入ってなかったのよぉ~。わたしとひるまはいつだって一緒なのよぉ~」


 →Re:始まる前から終わったww

 →Re:押入れの中で練習てww

 →Re:いや、流石にやり直せるでしょ。

 →Re:↑でも妖精のお願いには逆らえない。


 ステージ前の席に座る東堂が苦笑しながらも、流石に可哀想と思ったのか声を掛けた。

「元の台本を用意するよ。流石に君が不利過ぎるからね」

「……いえ。このままでいいですよ」

 溜息と共に昼間は答える。

 唯も付き合いが長いから知っているが、こういうご機嫌状態のフィジーの機嫌を損なうようなことをすると、とてつもない不運が主人を襲うことになる。以前、妖精の食べていたソフトクリームを昼間が落としてしまったところを見たことがあったが、その日一日、口にしたもの全てが激辛に感じてしまうという呪いをかけられて苦しんでいたことを覚えている。

 先輩は軽く台本を捲って中身を確かめていたが、やがて意を決したかのように深呼吸した。

 今回のオーディションでは、役のクオリティを上げるために最終審査を受ける候補者は皆、事前に台本を受け取っていた。もちろん唯もページが擦り切れるほどまで読み込んで、今日の審査に臨んでいる。

 つまり説明するまでもなく、台詞を直前で変えられてしまった昼間は圧倒的に不利だ。

 そんな考えを巡らしているうちに、フィジーがマイクの前で浮遊しながら、台本を両手で広げて演技を始めた。

『マスター! わたしはお腹が減ったのよぉ~! お昼はチーズケーキが食べたいのよぉ~!』

 これは……! と。

 左右に分かれて見守る声優たちも、ステージ正面に座る大物ふたりも、制作報道の関係者、さらには画面の向こう側の視聴者ですらも。恐らくは皆が皆、同じ感想を抱いていた。


 →Re:嘘だろ! めっちゃ上手いぞ!

 →Re:意外と演技派過ぎるww

 →Re:おいこの子合格にしようぜ!

 →Re:妖精役を妖精がやるという……話題性抜群やな。


 何故だか自分のことのように嬉しくなり、自然と口元がほころぶ唯。

 しかし昼間はそんな妖精のことは目に入っていないようすで、台本の内容を注視している。

『カマンベールがたくさん入った数量限定のやつが食べたいのよぉ~』

 フィジーの台詞を受けて、主人である昼間が台本を持ち上げる。

 そして――


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「――あ、思い出した! あの青年ってあの時の!」

 関係者席の一角で、若手のスタッフがステージ上に立つ〈妖精憑き〉の姿を見て声を上げた。隣に座っていた製作関係者が注意する。

「大声出してうるせーぞ。黙って見てろ」

「いや、あの子のこと覚えてないっすか? 前にアニメの収録の時遊びに来てた〈妖精憑き〉の青年っすよ」

 若手に指摘されて、業界のベテラン勢である製作スタッフが記憶を手繰る。

「……ああ、そうか。あの時の子か。確か妖精が収録の邪魔をしてそれを止めた」

「そうですそうです! それで、覚えてないっすか? 収録終わった後に少しだけ、スタジオを貸したこと」

「ああ。でも、それがどうしたんだよ?」

 若手スタッフの言わんとしていることが今一つ分からないベテランスタッフ。

 彼は興奮を抑えながらといった感じで説明する。

「あの時自分、機材の片付けをしててあの子らが何をしてたのか見てたんすけど……」

「妖精に付き合ってレコーディングの真似事をしてたんだろ?」

「いや、そうなんすけど……違うんすよ」

 疑問符を浮かべるベテランに、若手スタッフは息を呑んで、告げた。

「妖精の方は唯ちゃんが担当した女の子の声をやってたんすけど、あの青年はそれ以外全部を担当してて……」

 次に彼の発した言葉に、ベテランのスタッフも息を呑んだ。

「それが――」


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 昼間が口を開く。

『昨日は別の店の限定モノを食べたばっかじゃねーか。今日はプリンで我慢しろよ』

 静寂が、会場を支配した。

『それに甘い物ばっか食べてると今に太るぞ。秋だからって、食べ過ぎなんだよお前は』

『Re→talk』からのコメントが止まった。

『はあ、メンドくさい。なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだ……』

 テレビの前で放送を見ていた多くの者が、口をあんぐりと開けて、絶句していた。

『それはマスターの自業自得なのよぉ~』

 フィジーの流暢な演技。

 時が動き出す。


 →Re:こ、これは……。

 →Re:なんというか、うん。

 →Re:なあ、嘘だろ……誰か嘘だと言ってくれ……。

→Re:へ、下手くそ過ぎる……。


 目元を抑え、頭を振る東堂。

 大口を開けたまま固まる明科の父。

 驚きのあまり呼吸を忘れる声優陣。

 どよめく会場。

 騒ぐ製作関係者たちに笑いを堪えることに必死な報道陣。

 妖精たちだけが無邪気に笑いながら、昼間の演技を聞いている。

『リディア! 索敵範囲を広げろ! 捕捉されるなよっ!』

『うるさいのよマスター。もうやってるのよぉ~』

 シーンが変わり、臨場感のある戦闘シーンに移る。

『――っ! ふざ、けるなっ! なんで、俺がそんなこと……っ!』

『でもマスターが行かないとソラが死ぬことになるのよぉ~』


 →Re:やめてぇ! これ以上私の透くんを汚さないで!

 →Re:wwww やっべww 腹痛いんだけどwww

 →Re:今世紀最大の黒歴史確定。

 →Re:いや、この雰囲気の中でこの演技……ある意味大物だぞ。


唯はまるで自分のことのように恥ずかしくなり、真っ赤になって顔を伏せることしか出来なかった。

 しかし当の昼間はまるでどこ吹く風の様子。台本を畳むと唯の方に向きを変え、少し照れつつも優し気な笑みを浮かべながら告げる。

「――約束、忘れててごめん」

 唯の胸が締め付けられる。

 それは、『Azalea』において、主人公の透がヒロインのソラへと向けた台詞の一節。

「ずっとずっと、待たせてごめん」

 過去に出逢っていたふたり。

 交わしていたひとつの約束。

 唯は昼間の姿に、透の姿を幻視する。

「だから、ちゃんと約束を守るよ」

 透の姿がぶれ、唯の大好きな先輩に戻る。

それは演技ではなく、台詞ではなく、昼間個人としての言葉。

「――これからは、ずっと一緒だ」

 彼がどれだけ大勢のひとの笑い者になったとしても伝えたかった、昼間の本当の想い。

「もう……先輩ったら」

その呟きは誰にも届かず、唯の緩んだ頬を一滴の涙が伝い、落ちてゆく。


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「――それでは、投票に移りましょう!」

 東堂の声で、スタッフたちが思い出したように動き出す。

 ステージ上の大画面に映された六つの選択肢。

 結果は、すぐに表示された。


 ①安藤守 2.8%

 ②志村龍之介 1.5%

 ③一之瀬すばる 2.1%

 ④二階堂朔 7.8%

 ⑤明科明 85.4%

⑥神崎昼間 0.4%


 ――大喝采。

「はい決まりましたー! 『Azalea』の主人公、透役の声優は明科明くんです!」

 拍手を送る東堂。ガッツポーズを掲げる明科。ただ黙って頷く明科の父。

 妖精たちが舞い踊り、天から花吹雪を散らす。

「だからひるまはへたくそすぎなのよぉ〜!」

 フィジーが主人の頭をペシペシと叩く。

 いつもと変わらない様子で苦笑する昼間。

 唯は胸に手を当てたまま、拍手を送ることも出来ず、ただ茫然と立ち尽くしていた。

 また涙が頬を伝う。

 昼間が姿を晒してまで、舞台へと上がった理由。

 ――また一緒に、本を読もうね。

 あの日の約束を。

 彼は、覚えていてくれていた。


 →Re:きゃあああぁぁぁぁ! 明くんおめでとおおおおおお!

 →Re:これは完全勝利だな。

 →Re:実際明科はかなり実力あるからな。

 →Re:てか⑥に票入れたヤツ誰だよww


『Re→talk』からの呟きも意外なことに昼間に対する批判的な意見は少なく、完全なネタ扱いされているようだ。

 取材陣の何人かが壇上に立ったままの昼間へコメントを求めている。

 鳴りやまない拍手。酔いの冷めない顔をした声優たち。

 明科は嬉しさからか涙を流している。

 明科とは違う理由で濡れた目の端を指先で拭い、サングラスを掛け直した東堂が機を見計らって言葉を発した。

「はいはーい。まだオーディションは終わっていませんよー。……おーっとその前に、会場にyakan先生が到着したようです。先にyakan先生から今回のアニメ化についてお言葉があるようですよ」

 プロデューサーの安い演技じみた言葉で、会場に再び衝撃が走る。

 我に返る制作関係者たち。入口へとカメラを向ける報道陣。

 声優たちは立ち上がり、伝説の小説家の姿を探して会場に目を配る。

 その混乱ぶりを楽しむかのように笑みを深めて、東堂は告げた。

「それではyakan先生。お願いしまーす!」

 鎮まる会場。

 昼間が瞼を下ろし、長く息を吸い、細く吐き出す。

 そしてゆっくりと目を開く様子を、唯だけが見ていた。

「――初めまして」

 会場に散っていた視線が、カメラが、テレビの前の視聴者の意識が。

 再びステージ上の先輩の元へと集まっていく。

 昼間の目つきが、顔つきが、雰囲気が、凛と張り詰めたものへと変わる。

「私が『Azalea』の作者、神崎昼間こと――yakanと申します」

 そこには、唯の知らない先輩の姿。

 伝説の小説家――yakanの威容があった。


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 →Re:なにを、言ってるのこの人……。

 →Re:嘘、だろ?

 →Re:でも東堂さんが頷いてるよ。

 →Re:本物、なのか?


 皆が皆、驚きというよりも、信じられないといった思いが強く上手く言葉が出ない。

 東堂だけがニヤニヤと悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべ、明科の父は立ち上がり、目を見開いたまま動けないでいる。息子である声優も硬直。

 昼間――いや、yakanが静かな笑みを浮かべた。

 唯の知らない先輩の顔だった。

「この度は私の作品の映像化に多くの方々がご協力を下さり、誠に感謝しております」

 落ち着きのある、芯の通った声音。

 静寂に満ちた会場内に、彼の声だけが木霊する。

「さらには主役のキャストを決めるため、この場に集って下さった声優の方々にも、厚くお礼を申し上げます」

 yakanが左右に控える声優たちへと向き直り頭を下げる。

 慌ててお辞儀を返す候補者たち。唯だけが動けない。

「そして何よりも、『Azalea』をお読み下さった読者の方、投票に参加して下さった視聴者の皆さま、お集まり頂いた報道関係者の方々にも感謝を申し上げます。ありがとうございます」

 正面へと向き直り、深々と頭を下げる昼間。

 何処か儚げにも映る、落ち着いた笑み。


 →Re:こ、れは……本人だわ。なんというか、雰囲気がすごい……。

 →Re:男の人だったのか。確かに年齢は合ってるし。

 →Re:すごい。すごすぎるでしょyakan先生。

 →Re:かっこよすぎる……。


『Re→talk』のコメントも、ようやく彼がyakan本人であると認識し始めた。

 すると我に返った報道陣のひとりが、おもむろに手を挙げる。

「す、すみませんyakan先生。質問があるのですが」

「質問は受け付けていませんよー。事前の説明で言ったはずです」

 間髪入れずに東堂が止めに入った。しかし、

「構いませんよ。質問をどうぞ」

 あろうことか、微笑を携えて昼間の方が自ら促した。

 報道陣は狼狽えながらも、改めて尋ねる。

「あ、ありがとうございます。中央テレビの者です。こ、この度は何故、yakan先生自らカメラの前に立たれたのでしょうか?」

 皆が思っていた疑問のひとつに、yakanは微笑みながら答える。

「私の前作の映像化作品『ぱれっと』で起きた悲劇を繰り返さないためです。この度アニメ化される『Azalea』の脚本は、作者である私自身が務めさせて頂きます。製作陣として作品に関わる以上、もうこれまでのように覆面作家で居続けることは出来ないものだと思ったからです」

 衝撃の回答。

 負の産物とまで言われた『ぱれっと』の映像化問題に触れただけではなく、アニメ『Azalea』の脚本も手掛けるというこれまでにはない積極性。制作関係者に動揺が走り、報道陣からは次の質問が飛ぶ。

「で、では、何故yakan先生自らオーディションに?」

この問いもまた、誰しもが尋ねたい内容であった。何故ならばyakanを――昼間をよく知る者でさえ、彼の今回の行動は理解出来ない部分が多い。単純に道化(ピエロ)やネタ扱いされるならばまだマシだが、見方を変えれば声優への冒涜に近いものがあるからだ。

昼間は少しだけ間を空けて、静かに語り始めた。

「無論、この場が真剣に役を勝ち取ろうとする神聖な場であることは理解しています。にも関わらず私のような素人が立つことは許されざることでしょう。しかし、私の妖精がどうしてもオーディションを受けたいとワガママを言うものですから、致し方なく」

苦笑混じりの彼の言葉に皆もつられて笑う。妖精を免罪符にされては流石に誰も否定することは出来ない。

確かにフィジーもオーディションを受けたいと言っていた気はしたが、それが全てではないことを唯だけが分かっていた。

それを皮切りに報道関係者の波から次々と手が挙がる。

「今回の投票システムについて一言お願いします!」

「アニメは原作を忠実に再現する方向だと思ってよろしいのでしょうか?」

「前作の映像化作品ぱれっとについてですが、脚本家と監督に言いたいことは?」

「妖精の方はとても演技がお上手でしたが、実際に妖精役に抜擢したりなどはしないのですか?」

「yakan先生はいつから〈妖精憑き〉なのでしょうか? 妖精に執筆を邪魔されたりなどは?」

「『Azalea』の最終巻の進捗具合は如何でしょう? 多くのファンが待ち望んでいますが……」


 →Re:一体いつから小説を書いてるんですか!?

 →Re:大学生と言っていましたが、何を勉強なされているんですか?

 →Re:好きな食べ物は? あと趣味と、好きな異性のタイプを教えて下さいっ!!


 次々と飛び交う質問ひとつひとつに丁寧な回答をしていくyakan。

 しかし黙って聞いていたフィジーが昼間の頭に上ると、突然奇声を上げ始めた。

「ふしゃああああぁぁぁぁ! わたしのこと無視するんじゃないのよぉ~! わたしにも質問してなのよぉ~!」

 ポカポカポカポカ、先輩の頭が被害を受けている。苦笑する昼間。

「――では最後に、私の方から質問してもよろしいですかな? yakan先生」

 すると関係者席の最前列、業界の大物が並ぶ席の中から手が挙がった。今回のアニメ化に際し、監督を務めている明科監督だ。

 yakanが頷くと明科の父は立ち上がり、真っすぐに昼間を捉えて口を開く。

「ははは。ご存知であるかもしれませんが、私の妻もyakan作品の大ファンでして、今日yakan先生に会ったら必ず聞いてほしいことがあると念を押されてしまいましてな。無礼を承知でお聞き致しますが……」

 一拍の静寂。軽く息を整えて、明科の父は尋ねた。

「彼女――神代唯さんとはどういったご関係で? そして何故、彼女をヒロイン役に推薦したのでしょう?」

 それは報道陣のみならず、誰しもがyakanに最も訊きたかった質問。

 しかし昼間の雰囲気に呑まれてしまい、誰しもが問えなかった問い。

 先輩が唯に視線を向けてくる。唯も視線を受け止めて、頬を染める。

 昼間が微笑と共に口を開いた。

「彼女、唯さんは『Azalea』の、私を除けば最初の読者です。初めて逢ったのは十年ほど前ですが、再会したのは同じ高校で。そして大学では同じサークルに所属しています。関係は、と言いますが、彼女はその、後輩で……」

 その時、言葉を選んでいた先輩を無視して、フィジーが無情の鉄槌を下した。

「ゆいはひるまの恋人なのよぉ~♪ 昨日はふたりでお風呂入ってたのよぉ~。でも夜はベッドで……」

「きゃああああぁぁぁ!! ふぃ、ふぃふぃふぃふぃフィーちゃん!! 変なこと言っちゃダメーーーー!!」

 唯は一瞬で真っ赤になり、慌てて妖精を止めに入る。しかしフィジーは唯の手が届かない高さにまで浮かび、無邪気に笑っていた。流石の昼間も少し赤くなりながら苦笑いする。


 →Re:まさかの大胆発言ww

 →Re:やっぱデキてたのかぁ~。唯ちゃんファン死亡w

 →Re:う、嘘だ。俺の唯にゃんが……。嘘だ嘘だ嘘だ……。

 →Re:【悲報】妖精は嘘を吐かない。


 荒れる『Re→talk』のコメント。

 先輩はゴホン、と咳ばらいをひとつすると、自信に満ちた表情で告げた。

「何故彼女を推薦したのかについてですが――それはこの後すぐに、彼女自身が証明してくれることでしょう」

 静寂。

 そして再び、会場が緊張の渦に包まれる。


 Page 14


 五人目の審査が始まった。

 唯は膝に両手を付き、台本にシワが出来るほど強く強く拳を握る。

 ステージの真正面。全て埋まった最前列の関係者席。

 中央には唯の恋人である神崎昼間――伝説の小説家yakanが座っている。

 その視線は真っ直ぐに、演技を見せるソラ役の候補者へと注がれていた。声優は先の透役のオーディションの時よりも遥かに張り詰めた空気の中で演技を続ける。

 これまで完璧に台詞をこなせた者はまだいない。それでも候補者たちは全身全霊で戦いに臨んでいた。

 そして五人目の候補者でソラ役最有力と呼ばれている女性の演技が終わる。

 ――拍手喝采。


 →Re:うおおおおぉぉぉ!! やっぱ断然yukaが良い!!

 →Re:初のノーミス! このプレッシャーの中でよく頑張った!

 →Re:……勝ったな。

 →Re:完全に一致。


 拍手は長く続き中々鳴りやまない。候補者は緊張から解放されて涙を流し、嬉しそうに何度も頷く。恐らく本人も満足出来るほど最高の演技を見せられたのだろう。

「はーい。yukaさんありがとうございましたー。続いてラスト、神代唯さんどうぞー」

 昼間の隣に座る東堂が唯の名を呼ぶ。

 その瞬間、会場の空気が一瞬で変わった。


 →Re:出たよ枕営業。

 →Re:悪いけどこれは0%確実。

 →Re:やっぱ見た目がタイプだからyakan先生に選ばれたのかなぁ?

 →Re:失せろビッチ。


 溢れる悪意に中傷。罵詈雑言の羅列が弾幕となってモニターに流れる。

 会場の空気も概ね同じ。声優たちの疑問の眼差し。製作関係者の失笑。報道陣の好奇心に満ちた顔。

 唯はマイクの前に立つ。先輩が真っ直ぐに唯を見上げてくる。

「か、かみしりょ、神代唯です。よ、よろしくお願いします」


 →Re:自分の名前で噛むとかww

 →Re:でかい。

 →Re:ねえ今どんな気持ち? ずるしてそこに立ってて恥ずかしくないの?

 →Re:おいもうコイツ抜きで投票に移ろうぜ! 時間の無駄!


 yakanの恋人だからといって容赦はない。いや、むしろ逆。

 唯がただの後輩であったならまだ、声優として目をかけてもらった、ただの運の良い奴程度で済んだかもしれない。

 しかし妖精という名の不可抗力で、唯と昼間が深い間柄であることが世間に知られてしまった。

 結果、視聴者の目には唯がyakanの恋人という立場を利用し推薦をもらった悪女に見え、唯に偶像を抱いていたファンの失望も大きい。

 だが一番の問題は、唯自身もずっと感じていたこと。


 ――唯は、yakanに相応しくない。


『大賞五作』という衝撃のデビューを皮切りに国内の文学賞を総なめにし、伝説へと至った希代の天才小説家。

 対して唯は、まだ二十歳の大学生で、人間としては愚か、声優としてもアイドルとしてもまだまだ未熟な少女なのだ。誰の目から見ても天と地ほどの格差であるし、それは唯自身が一番分かっている。

 息を吐いて、吸う。

 深く呼吸が出来ない。

 心拍が荒れる。

「それでは始めてくださーい」

 プロデューサーの心ない声。サングラスの奥の瞳は険しく、唯のことを睨むかのように見ていた。

 一ヶ月前、唯が無理を言って彼の元に推薦を頼みに行った時のことを思い出す。

 昼間には言っていないが、その時唯は、東堂にボロクソに非難された。

 その程度の声で『Azalea』に関わるなと。ソラ役が務まるわけがないだろうと。

 当時に感じた胸の痛みも蘇り、心に絶望がよぎる。

 呼吸は浅い。

 台本を開くが、文章が台詞として入ってこない。ただの文字の羅列としてしか映らない。

 手が震える。

 足がすくむ。

 ――怖い。

 怖い怖い怖い。

 先輩が唯の方を見ているのが分かる。しかし唯は顔を上げることが出来ない。

 もしも唯がオーディションに落ちたらどうなる?

 きっと声優としてはもうやっていけなくなる。大学も通い続けられるかどうか分からない。今までの日常を失ってしまう。

 でも、昼間は?

 唯の大好きな先輩はきっと、みんなから褒め称えられて、メディアへの露出も増えるだろうし、作家としても――

「――っ!」

 そうだ。

 もしも唯がソラ役を落とされても、昼間は作品のために脚本家を務める。

 唯ではない、他の女性が演じているヒロインのために。

 ――怖い。

 怖い怖い怖い。

 震えが、止まらない。

「神代さーん、どうしましたー?」

 唯の異変に気づいた周囲がざわめき始める。


 →Re:おいとっととやれよ。

 →Re:手めっちゃ震えてて笑えるw

 →Re:それでは投票に移りまーすw

 →Re:↑自己紹介だけで終わったww


 台本は理解出来ないのに、眼前で流れる『Re→talk』のコメントだけはしっかりと脳内に入ってくる。

 唯は、どうすればいい?

 なにか、何か言わないと。

 声を出そうとして、止まる。

 思うように言葉が出ない。

 頭が熱い。

 視界が揺らぐ。

 息を吸わないと。

「――……あ」

 ダメだ。

 声が震えている。

 静まる会場。

 ――その時。


『ゆい~~~~!! ぐわぁ~んばるのよぉ~~~~!!』


 大音量のソプラノ声が、会場内に木霊した。

 思わず耳を塞ぐ関係者たち。

 見れば妖精フィジーが東堂のマイクを奪い、ぴょんぴょんと跳び跳ねていた。

「ゆい~ゆい~!! ゆいなら出来るのよぉ~! わたしはゆいの声がだいすきなのよぉ~~!!」

「うるさいよお前はっ! ……すみません、うちの子が失礼しました」

 昼間が妖精からマイクを奪い取り申し訳なさそうに謝罪する。

 会場から笑いが起きた。

 しかし笑い事だけでは済まなかったらしく、妖精が一時的に全てのスピーカーをジャックしてしまったために再調整が必要になった。少しだけ待つよう、唯は指示を受ける。


 →Re:まさかの妖精乱入(二回目)。

 →Re:まあ妖精のやることだからしゃーない。

 →Re:空気が変わった……キリッ。

 →Re:どちらにしろ結果は変わらん。


「……フィーちゃん」

 文句を言っているフィジーを適当に宥めている先輩。

 唯と目が合う。

 昼間はただ頷いただけで、何も特別なことは言わなかった。

 何故だか恥ずかしくなって顔を伏せる唯。誤魔化すかのように髪を整えるふりをする。

 その時――指先が、何か固いものに触れる。

 唯が想う、ふたりの大切なひとがくれた、ふたつの髪留めだった。

 ――唯はそっと、瞳を閉じる。

 思い出す。

 唯の大好きだった母親は。

 唯のために、遅くまで仕事を頑張ってくれて。

 唯のために、泣く時はひとりで泣いてくれて。

 唯のために、深い愛情を注いでくれて。

 そして唯の十歳の誕生日に、母のアザレアの髪留めをプレゼントしてくれた。

 唯の大好きな先輩は。

 唯のために、ソラ役へ挑戦出来る道を用意してくれた。

 唯のために、自らも批判の渦に飛び込んできてくれた。

 そして唯との約束を守るためにアニメ化に関わることを選んでくれて。

 伝説の小説家yakanとしても――

 そう。そうだ。

 思えば別に彼は、yakanとして皆の前に立つ必要なんてなかった。

 脚本はメディアに顔を出す必要のない仕事だ。唯との約束を守るだけならあんな大仰なことまでして正体を明かす必要なんて全くない。

 そして何よりも、yakanであることを告げれば今までと同じように生活出来なくなるし、これまで『Re→talk』だけであった交流も、きっとこれまで以上のことが求められてくる。

 彼に掛かる負担は、今までとは比べ物にならないほど増えるだろう。

 それなのに、どうして?

 ふと、今朝家を出る前に、先輩が言っていた言葉を思い出す。

 ――大丈夫だよ。唯がソラ役を勝ち取るところを、正面から見てるから。

 ――あ。

 まさか。まさか。

 唯は昼間を見る。

 昼間は苦笑しながら、頷いた。

 そこには唯の知らない伝説の小説家ではない、唯の良く知る大好きな大好きな先輩の姿があった。

 調整が終わり、審査が再開される。

「――神代唯です。よろしくお願いします」

 深く頭を下げる唯。

 顔を上げる。


 →Re:今度は噛まなかったな。

 →Re:なんか雰囲気変わった?

 →Re:さっさと終わらせろよ。

 →Re:今のうちにトイレ行ってこよ。


 ぶつけられる悪意。

 失意の眼差し。奇異な視線。

 浮かぶ失笑。欠伸を噛み殺す者もいる。

 ――関係ない。

 唯の大好きな先輩が。

 全てを懸けて、この場に来てくれた恋人が。

 約束を守るため、先に待っていてくれる彼の前で。

 真っすぐに、唯のことを正面から受け止めようとしてくれている昼間の前で。

 情けないところなんて見せられない。

 台本を閉じる。

 見つめるべきは唯の正面。

 口を開く。

 声を紡ぐ。

 ――――。

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