第5章 忘れていた約束

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 彼女と初めて会った時のことを、昼間はよく覚えている。

 あれは高校生活最後の冬。昼間は授業を休んで保健室で寝ていた。

 原稿の締め切りには十分余裕があったのだが、筆が乗っていたために遅くまで小説を書いていて、結果授業中に気分が悪くなり保健室送りとなったのだ。幸い少し寝たら気分も良くなり、眠気覚ましにと先生から貰ったノド飴をポケットに入れ、教室へ戻ることにした。

 今は授業中。廊下には誰もおらず、遠く校庭から小さく声が届く程度。

 保健室を出たはいいが授業の途中参加はあまり気が進まない。

 高校時代、特に問題を起こした記憶のない昼間ではあったが、決して優等生だったわけでもない。父に怒られない程度に頑張り、バレない程度にサボる。そんな特色のない毎日を送っていた。

 階段を上っていき、自分の教室がある階を素通りしてさらに上へ。

 屋上へと続く扉は鍵が掛かっていたのでその前に腰を下ろした。廊下の床が冷たい。

 授業が終わるまでまだ時間がある。昼間は天井を仰ぎ、漠然と思考を巡らす。

 あの頃の昼間は時間さえあれば、小説のことを考えていた。

 部活へも入らず、友人もほとんど作らず(彼女なんて以ての外だ)、好かれず嫌われず狭く浅く。必要最低限の交流。強いて言うならば会話、勉強、運動、見て聞いて考え、高校生活その全てを小説の糧とするだけだった。

 ただ母の遺した原作だけが、今までも、そしてこれからも昼間の全てであった。

 カツ、カツ、と誰かが階段を上ってくる。

 一瞬焦る昼間。もしも先生であったら怒られる可能性がある。

 咄嗟に上手い言い訳を何か……よしそうだ。屋上に忘れ物をしたから取りにきたとでも言おう。あ、やばいダメだ。屋上は常に施錠されているからこの言い訳は通用しない。

 時間切れ。

 昼間は息を呑むが、しかしそもそも言い訳は必要のない人物が階段を上ってきていた。

 ふたつに結わえた黒い髪。人形のように整った顔。胸の辺りが盛り上がった制服。身長は昼間よりもだいぶ小さい。一瞬中学生かと思ったくらいだ。

 彼女の名を、昼間は知っていた。というより、この学校で知らない者はいないだろう。

 少女の名は、神代唯。

 中学生の頃から声優として活動する、昼間よりひとつ年下の美少女だ。

 唯は昼間の姿を見て驚いたようで目を見張る。もちろん昼間も軽く驚く。

 少女の存在こそ知っていたが、彼女は芸能科の生徒。普通科の昼間とは学年が違う以上にまず会うことがほぼ不可能な高嶺の花。いや、雲の上の存在といった方が適格だろう。

 ある意味で、教師よりも厄介な存在だ。

 少女は階段を上がりきる前に固まってしまっている。昼間も動けない。

 この空気、どうしたらいい。

「……あ、いや。勉強で、遅くまで起きてて、さっきまで保健室で寝てたんだけど、授業の途中参加は何か気まずかったからここでサボってましたすみません」

 何故だかよく分からないが、昼間は後輩の女の子に謝っていた。

 唯は声を掛けられてようやく硬直が解けた様子で、しかしどう返したらいいのか分からない曖昧な笑みを浮かべる。

「あ、そ、そうなんですか。ひる……神崎先輩、学年主席ですからね。やっぱり遅くまで勉強してるんですね」

「ま、まあね。……というか、俺のこと知ってるの?」

「え? あ、は、はい。あ、あの、せ、せせせ先輩は、ゆ、有名ですから、あの、その……」

 何故だか慌てた様子で後輩は必死に説明する。思えばこの頃から彼女は挙動不審だった。

 唯は昼間からは少し離れたところに座り、チラチラと昼間の様子を伺ってくる。

「俺は別に……君の方が有名でしょ。神代さん」

「わ、わわわ、わたしのこと知ってるんですか!?」

 ガタガタッ、と持っていた鞄の中身をぶちまけて狼狽える少女。落ち着きのない子だ。

「知ってるよ一応。声優さんなんでしょ?」

「あ、そ、そういう意味でしたか。なんだ……」

 後輩は何故かがっかりとした表情で鞄の中身を拾い始める。他にどういった意味があるというのだろう?

 彼女の態度に疑問を抱きつつも手伝う昼間。落ちていた一冊の本を手に取る。ブックカバーが外れて本の表紙が見えてしまっていた。目に飛び込んできたのは、ふたつに結わえた空色の髪をした少女。昼間は息を呑む。

「あ、あの、ご、ごめん、なさい。た、ただわたし、『Azalea』の最新刊が読みたくて……」

 鞄を胸に抱き、不安げな顔をして唯は言う。

 つまりは彼女も授業をサボって、こうして人気のない場所までやってきたということだ。

 昼間は本を後輩に返すと、改めて座りなおす。

「……好きなの? 『Azalea』」

「え? ……あ、は、はいっ! 大好きですっ!」

「ちょっ!? し、静かに、静かにっ」

 昼間の問いに大声で返事をする少女。慌ててボリュームを下げるよう指示する。

 唯は小声でごめんなさいと謝りながらも、興奮冷めやらぬといった感じで語る。

「あ、あの、あ、『Azalea』は、わたしの人生そのものですっ。いつか、いつか『Azalea』がアニメ化した時は、声優をやらせてもらいたいって思ってます」

「ふーん。アニメ化ねぇ」

 この時の昼間は、アニメ化に対して消極的だった。何故なら昼間自身がアニメどころかテレビすらほとんど観ず、小説や漫画もほとんど読まない人間であったからだ。

 後輩はまだ何か言いたそうにモジモジしていたが、やがて諦めたかのように目を伏せる。よく分からないが変わった子だ。

「あ、あの。神崎先輩は、大学に進学するんですか?」

「え? ああ、まあ。○○大学に行くよ」

「え、ほ、ホントですか!? そ、そんなレベルの高いところに……」

 ガックリと肩を落とす少女。彼女も成績は悪くないのだろうが、良いという話も特に聞かない。何を残念がっているのかは分からなかったが、まあ昼間の行く大学へは来れないだろう。

 それから昼間たちは、他愛のない話をした。学校のこと。声優のこと。それから『Azalea』のことも。昼間は割と人見知りする質ではあったが、不思議と唯相手には普通に話すことが出来た。

「あの、わたし、どうしてもやりたい役があるんです。そのためにわたし、声優になったんですよ」

 頬を赤くし、照れくさそうに語る少女。やりたい役と言っても『Azalea』ではないだろう。

『Azalea』の刊行が始まったのは当時から数えても一年半くらい前。彼女は中学生の頃から声優をやっているらしいので、計算が合わない。

「なんの役がやりたいの?」

 話の流れからして別に変な質問ではなかったと思う。

 しかし昼間の問いに少女は困ったような笑みを浮かべるだけで、答えようとはしない。昼間も特別興味があったわけではないので、それ以上は追及しなかった。

 その代わりに、

「あ、じゃあ、これあげるよ」

 後輩の手を取り、ポン、とそれを乗せる。

 保健室から帰る時に貰ったノド飴であった。

「声、大事にしなよ」

 自然と笑みが浮かぶ。

「――っ! は、ひゃいっ、あ、あのっ」

 すると少女は一瞬のうちに顔を真っ赤にして、貰った飴を握り潰さんばかりの力で胸元に抱くと、呂律の回らない舌で言い放ったのだ。

「あのっ、あのっ! か、神崎先輩っ! あのっ! あのっ、わ、わた、わわわわわたしっ! わたし神崎先輩のことが付きですちゅき合ってくださいっ! じゃ、じゃなくて好きですちゅきあ、つきあ、あの……」

 目を回す唯。呆然とする昼間。

 そこに授業の終わりを告げる鐘が鳴り響く。

「ひゃっ、ひゃいっ!? す、すみません嘘ですごめんなさいわたし帰ります~っ!」

 脱兎の如く逃げ出す後輩。途中壁にぶつかりまた鞄の中身をぶちまけながら、それでも構わず走り去っていった。

 ひとり取り残される昼間。

 遅れて笑みが零れる。

 それから卒業までの間。昼間は一度も唯と顔を合わせることはなかった。

 だが今思い返しても、彼女と初めて会った時のことを、昼間はよく覚えている。

 というか、多分一生、忘れることは出来ないだろう。


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 長く続いた暑さもようやく陰りをみせ始めた夏の終わり。

 長らく待望されていた『Azalea』のアニメ化が発表されてから、すでに二週間が経過していた。

「まあ『Azalea』のアニメは大ヒット間違いなしだと思うし、今回は出版社のほうで全部出資ってのも良かったんだけど。まーた色んな会社が関わりたがってきてさぁ。だから今回は多くのアニメがそうであるように、独占じゃなくて共同出資って形にすることにしたよ」

 東堂が社長を務める出版社。その一室で。

 yakanと唯一直接的に接することの出来る編集者、東堂天地は、ご機嫌な口調ですでに決められた事柄を説明していく。

 昼間は机の上にうつ伏せで横たわるフィジーの背にオイルを塗りたくりながら、不機嫌を隠そうともせずに話す。

「儲け主義の東堂さんにしては珍しいことで」

「ははは。まあ『Azalea』にはもう十分過ぎるほど稼がせてもらったからね。それに今回は前回の反省も踏まえて多方面から意見をもらって、利益度外視でクオリティだけを追及することにしたんだ」

 さりげなく前回の映像化について触れてくる東堂。昼間は胸の痛みと共に不機嫌さが増す。

「あぁ~ん、ひるまぁ~そこ感じるのよぉ~。もっともっとぉ~、けんこーこつの辺りをもっとほぐすのよぉ~」

「はいはい。フィジーお嬢様」

 妖精の小さな背中を人差し指だけを使って器用に揉んでいく昼間。

 東堂はその様子を見て苦笑しながらも続ける。

「今回、僕はプロデュース業に専念することにするよ。監督は明科監督。ほら、君がこの前殴られそうになってた明科君のお父さんだよ」

「明科さんってオーディションを受けられるんですよね? 制作側の身内がオーディションを受けると公平性にかけるのでは?」

 明科の名に良いイメージを抱いていない昼間は、若干口調が鋭くなっていた。

「ああ、それは別に問題ないよ。オーディションは厳正に行われる完全な実力勝負だし、過去にも監督であるお父さんの作品に出ようとしてた例はあるけど、実際落ちた数の方が多い。たぶん明科君の方も父親が関わる関わらないに関係なくオーディションを受けているんだと思うよ」

 意外なことに、明科は両親のコネで声優をやっているわけではないらしい。そういえば唯も以前、オーディションは新人もベテランも関係ない、完全な実力勝負だと言っていた。

 フィジーのふくらはぎを指先で摘まむように揉みながら、でも、と昼間は問う。

「声優個人を名指しで推薦というのはアリなんですか? 東堂さんが明科さんを推薦したみたく」

「うーん、ほんとは言わないで欲しかったんだけどね。でも彼、よほど嬉しかったみたいでさ」

 言葉とは裏腹に、東堂はあまり怒ってはいないようだ。どうせ良い宣伝になったとでも思っているのだろう。

「ただ、推薦自体は業界では普通に行われていることだから問題はないよ。推薦者によって影響力が多少違ってくるけどね」

「なら、もう実質的に透役は明科さんに決まりですか?」

 詰め寄る昼間。

 東堂は両肘を机に置いて手の甲に顎を乗せながら、昼間のことを興味深げに見ている。

「いや、それはないよ。というかまあ、過去にそういった出来レースみたいな不正はあったかもしれないけど、今回は絶対に無理だ」

 東堂は脇に置いてあった封筒を昼間の方に放る。しかし昼間は手がオイルでベタベタなので今は開けない。

「今回のオーディションは特殊でね。業界初の試みも行われる」

 妖精の足裏を爪楊枝の柄で刺激しながら昼間は耳を傾ける。ふとフィジーの方を見てみれば、だらしなく涎を垂らして眠っていた。

 東堂は構わず続ける。

「まず第一に書類審査。はっきり言って今回はこれが一番の難関になる。というのも、今回は役に応募してきた声優の実績重視。まあ簡単にいえば名の売れている声優が圧倒的に有利だってこと」

「それって何処が厳正で公平なんですか?」

「例えるならば、今回のオーディションでは予選はなく、初戦から全国クラスの強豪同士の戦いになるってこと。新人や実績のない声優はまず選ばれることはない。書類審査でふるいを掛けて、それから実力者同時の厳正なオーディションが始まる」

 担当編集の無情な説明に納得のいかない昼間。

「新人や埋もれている声優さんの中にも適任者がいるのでは?」

「その可能性は確かにある。推薦があれば二次審査のオーディションに進める場合もあるけど、でもはっきり言って全くの新人や実績のない埋もれている声優が呼ばれることはない。声優界は完全な実力主義。名が売れているってことは、それだけ実力が認められているということだ。逆の場合は、分かるよね?」

 昼間の無言を肯定と受け取ったのか、東堂は目つきを鋭いものに変える。

「それから僕は、声優の中で一番透役に適任なのは明科君だと思っているよ。彼ならばファンの、君の期待にも応えてくれるものだと思っている」

 担当編集者はあくまでもコネではなく、実力で選んだのだと告げた。

 昼間がまた口を開こうとすると、東堂が遮って言葉を続ける。

「僕は君との約束通り、先日明科君を連れだしてドライブに誘った。その代わりアニメ化は僕の好きにやってくれていいと言ってくれたよね?」

「それは……」

「心配しなくとも大丈夫さ。今回は最初から最後まで全ての段階で僕が直接関わる。『Azalea』は最高の映像化作品にすると絶対に誓うよ」

 普段の人を食ったような笑みではなく、今まで見たこともない真剣な表情で昼間の担当編集者は語った。

 彼にそこまで言われてしまっては、昼間も口を挟めない。

「まあ、明科君と神代ちゃんの関係は気になるけど、僕らが関知する問題じゃないだろうね。君もあまり、他人の恋路に口出しするようなことはやめるんだよ」

「俺は別に、そんなつもりじゃ……」

 昼間のその呟きは、東堂に掛かってきた電話で打ち消された。

 ――『Azalea』のアニメ化。

 今までは原作者の意向だとか前作の映像化時の問題を引き合いに出して避けてきたのだが、それだけで東堂が引き下がるはずはないと昼間は思っていた。唯を助けるために仕方がなかったとはいえ、いや、そんな理由がなくとも遅かれ早かれ『Azalea』のアニメ化は決まっていただろう。

 だが昼間は今になっても、『Azalea』のアニメ化には反対だった。

 別にファンの期待に応えたくないわけではない。むしろその逆。

 ファンを裏切りたくはないからこそ、『Azalea』をアニメ化したくはないのだ。

 マッサージが終わり、片付けをしている昼間の元へ、電話を終えた東堂が帰ってくる。

「悪いね、急用が出来た。出来れば最終審査についても説明したかったんだけど、そっちの資料を見ておいてよ。分からないことがあったら電話して。それじゃ」

 手短に説明すると担当編集者は部屋から出て行った。『Azalea』のアニメ化を発表した日から、東堂は本当に忙しいらしい。

「にゃふふふぅ~、ひるま~ひるま~、今夜はすいーつばいきんぐなのよぉ~♪ 貸し切りで食べ放題なのよぉ~♪」

「お前は俺を破産させる気か」

 妖精の寝言にため息をひとつ。揺さぶっても頬を引っ張っても起きる気配がない。仕方がないのでオイルを拭き取り服を着せ、パーカーのフードに放り込んでおく。

 渡された資料片手に部屋を出て、エレベーターでロビーまで降り、ビルを出ようとする昼間。

 しかし来客用の椅子に座っていた、目立つ金髪に黒のジャケットを着た青年と目が合ってしまう。

「お前……なんでここに?」

 明科明。声優にモデル、歌手と……あとなんかやってるアイドル声優だ。

 げっ、と異音が口から漏れる昼間。それはこっちの台詞だ、などとは言えない。昼間がここにいる理由自体、業界ではトップシークレット扱いだからだ。

 答えに窮する昼間であったが、手に持った封筒、そして最近よく聞く会長の愚痴を思い出し、咄嗟の言い訳を思いつく。流石は伝説の小説家。作り話が上手い。

「まあ、ちょっと会社の説明会がありまして。就活の一環です」

「そんな恰好でか?」

 うぐ、と速攻で急所を突かれる昼間。確かに今の恰好は白いパーカーにジーンズという、明らかに普段着の姿であった。

 怪しまれるとまずい。昼間は仕方なく、彼が興味ありそうな話題を提供する。

「そういえば『Azalea』のアニメ化が決まったそうで。透役のオーディションを受けるんですね」

 今、明科に対してこれ以上有効な話はないだろう。

 そして昼間の予想通り、青年は誇るような表情に変わった。

「まあね。あの伝説の小説家yakan先生の担当編集さんからの直々の推薦さ。まあ推薦がなくとも絶対にオーディションを受ける気ではいたけどね」

「好きなんですか? 『Azalea』」

 昼間の問いに、不思議そうな顔をする明科。

「なに言ってんだお前? 好きに決まってるだろう大ファンさ! それに現役で活動する声優にとっても、yakan作品の声優を務めることは生涯の誇りになる。唯ちゃんなんて『Azalea』がアニメ化した時に声優をやりたくてこの道に入ったんだからな」

「神代さんが?」

 人気声優のその言葉は、昼間には初耳だった。

 だが、しかし、何故だろう。何か、違和感を感じる。

 昼間の反応を見て、明科の笑みは人を見下すものへと変わった。

「なんだお前、そんなことも知らなかったのかよ」

「……神代さんがやりたい役って、メルティ役ですか?」

 後輩に聞かれたらまたどやされそうな問いであったが、昼間が唯=メルティと重ねてしまうのも、『Azalea』のメインキャラクターの中には、他に少女の適役はないと思っているからだ。

 勝ったような笑みを浮かべていた青年も、昼間を見て次第に呆れたような、哀れむような表情を浮かべる。

「お前、ほんとに唯ちゃんのこと何も知らないんだな。そこまでいくと逆に残酷だろ」

 そこで明科は受付の者に呼ばれて立ち上がる。もう彼は昼間の方を見ようともしない。

 立ち去る前に、明科は背中越しに昼間へと言葉を放る。

「お前、勘違いしてるかもしれないけど、僕は唯ちゃんの味方だよ。唯ちゃんが好きだからってだけじゃなく、僕と同じ夢を追ってるから協力してるんだ。僕にしか出来ない方法でね」

 不思議なことに、彼のその言葉には悪意を感じなかった。


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 季節は秋。

 秋は昼間の死因となるものがそこら中に転がっている。

「ひるま~♪ 駅ナカのスイーツ店で食欲の秋フェスタが開催中なのよぉ~♪ 帰りに寄っていくのよぉ~♪」

「残念。今日は気分的に歩いて帰るから駅には寄りません」

「じゃあ商店街でやってる秋の食べ比べ屋台を巡るのよぉ~♪ サツマイモ味のクレープを食べるのよぉ~♪」

「残念。今日は残業で家には帰れません」

「じゃあ買い出しにフェミニーマートに行くのよぉ~♪ 秋限定のデザート十個買えば応募でお菓子の詰め合わせが当たるのよぉ~♪」

「ああ、もうっ! なんでお前はそんな流行に敏感なんだよっ! そして秋が完全に俺を殺しにきてるんですけどっ!」

 季節にまで見放されて、昼間の味方はもう誰もいない。

 涙目で財布の中身を確認しながら、昼間はふと窓の外を見た。角材を高く持ち上げて危うげに歩く学生。顔にペンキの跡が付いた学生。ワイワイガヤガヤ、ふざけあう声が閉じられた窓越しからでもうるさく感じる。この浮足立った雰囲気は窓の外だけでなく、学校全体に広がっていた。

 季節は秋。

 秋といえば学園祭だ。

 昼間にとって本来であれば生涯無縁であったであろうこのイベントも、コスプレ研究会に入ってからは無視することが許されない重大項目のひとつとなってしまった。

 別にコスプレをして構内を闊歩するわけではない。ナントカコンテストなどに出るわけでもない。

 コスプレ研究会の活動内容。それは自らがコスプレをして楽しむ――だけでなく、他から依頼された衣装を制作し、コスプレをしてもらってその記録を取るという、一風変わったものであった(歴史は一体何処へいったんだ?)。

 故に昼間も最初はフィジーの衣装作りを頼みに訪れたのだが、材料費は別途請求という現実を突き付けられて絶望した記憶がある。

 そして学園祭では無論、依頼が山のようにやってくる。

 残業で家に帰れないというのもあながち嘘ではない。昼間はミシンをフル稼働させて次々に衣装を拵えていく。

 ガガガガガガガガ、ガガッ。

「あ、あれ?」

 途中、糸が絡まってミシンが止まってしまった。焦る昼間。針を上げ、試しに蓋を開いてみる。

 そこには――混沌が広がっていた。

 少なくとも昼間の目にはそう映った。機械が苦手な昼間にとって、決まった動作でミシンを扱うことは出来るが、こうした緊急時の対応はほとんど行うことが出来ない。

「や、やばい、あう、あう、どうしよう……」

 どうしようどうしよう。やっぱり機械怖い機械怖い。ミシン怖いミシン怖い。

 と、そこに、救世主が現れる。

「おや? いるのは神崎くんにフィジーちゃんだけかい?」

「かいちょおおおぉぉぉ! 助けてくださああああい!」

 コスプレ研究会の会長こと女神が現れて、瞬く間にミシンを直してくれた。ああヤバい惚れそう。

「まあ神崎くんの奇行は割といつものこととして、他のみんなは何処に行ったんだい? せっかく近所のコンビニでデザートたくさん買ってきたんだけどね」

「ほわちゃああああぁぁぁ! さっすがかいちょーなのよぉ~♪ わたしが代わりに食べてあげるのよぉ~♪」

 差し出されたデザートをまるで飲み物のように平らげていく妖精。差し入れを持ってきた時にフィジーがいるとその全てが妖精の胃袋に入ってしまうというのはいつものことなので、会長も苦笑するだけで許してくれた。

「他の方は完成した衣装の納品に行ってます」

「なるほど。唯ちゃんは今日来ないのかい?」

「何故俺に聞くのかは不明ですが、最近忙しいみたいですし来ないのでは?」

 後輩の人気声優についてのことは、昼間は平静を装って答える。

『Azalea』のアニメ化が発表されたその日。

 そして夕暮れの中、唯が昼間に涙を見せたあの日から、もう一か月が経とうとしている。

『Azalea』のアニメ化のおかげで業界では常にない騒ぎが起こっているらしく、人気声優もその余波を受けているのかもしれない。東堂からも一度直接顔を合わせて説明を受けた二週間前以降、一切の連絡がない。作者であるyakan――昼間でさえも、現在どういった形でアニメ化が進んでいるのか全く分からない。

 大学で唯に会うこともあるが、当たり障りのない会話を交わす程度で、最近は何処か距離を取られている気がする。やはりあの日、明科と何かあったのかもしれないが、本人が何も言わない以上、昼間の方から聞くのは筋違いな気がした。東堂に言われたからではないが、他人の恋路に口を出すことを昼間は躊躇してしまう。

 そういえば、と手縫いで解れた部分を直しながら、昼間は会長に尋ねる。

「神代さん、どうしてもやりたい役があって声優になったらしいんですけど、会長はその話知ってますか?」

「……神崎くん。きみの無関心ぶりは最早犯罪レベルだよ」

 あまりの言葉にムッとなる昼間であったが、会長は呆れながらも説明してくれた。

「アニメ業界では割と有名な話なんだけどね。唯ちゃんは『Azalea』のヒロイン、ソラ役をやりたくて声優になったらしいよ」

「ソラの役を?」

 ソラとは『Azalea』のメインヒロインで、主人公の恋人と言ってもいい存在だ。大人びた美人で冷静沈着、時には冷酷な一面を見せる時もあるが、本当はとても心優しい少女。

 唯の甘えた子供っぽい声にはとても合わない、クールな声の持ち主だ。

 だが、今の疑問はそこではない。

「え、でも、神代さんって中学の時から声優やってましたよね? 『Azalea』は、彼女が高校生の時に始まったと思うんですけど」

「そこなんだよ不思議なところは。何年か前に彼女、ラジオでその話をしたら、まあ案の定炎上みたいになっちゃってね。当時は売名のために嘘を吐いた、とかひどく批判されたものだよ」

 当時のことを振り返ってか、会長は辛そうな表情を見せる。後輩の言葉が本当ならば、彼女は『Azalea』が世間に発表される前から『Azalea』を知っていたことになる。

 そんなこと、あるはずがない。

 担当編集者である東堂にも次に何の小説を書くか知らせていないし、昼間ですらも、いざ書き始める直前まで、原作者のプロットを見ることが出来ない決まりだ。

 それでも内容を知っている可能性があるのは、プロットを保管している父と――


 ――また一緒に本を読もうね。


「ひるま~ひるま~。帰りに明日おでかけする用のお菓子を買っていくのよぉ~。ひとり三千円までなのよぉ~」

 デザートを平らげ終えた妖精が、何気に聞き流せないことを昼間に尋ねてくる。

「おや? 明日は学祭本番だけど、何処かにお出かけでもするのかい?」

「遠足に行くのよぉ~。昼間がどうしても行きたいって言うから付き合ってふにゃにゃにゃにゃいたいのよひるまぁ~!」

 余計なことを口走るフィジーの鼻を摘まんで黙らせる昼間。

「すみません会長。明日なんですがどうしても外せない用事がありまして。一日留守にしても大丈夫ですか?」

「まあ構わないけれど、学祭には参加しないのかい?」

「二日目は来ますよ」

 曖昧な笑みを浮かべて何処に行くのかを追求されないようにする。だが会長はそんなことをしなくても察してくれた様子で、黙って頷いてくれた。

「フィジーはどうする? 明日は学園祭で美味しい出店がたくさん出るから、別に付いてこなくてもいいぞ」

 昼間の言葉に、しかし妖精は首を横に振ると、

「付いていくのよぉ~。昼間ひとりだときっと泣いちゃうのよぉ~」

 飾り気のない純粋な笑みを浮かべて、そう言ってのけた。

 この妖精は時々、本当に時々だが、昼間の味方をしてくれる時がある。


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 どうしようもなかったと理解しながらも、納得出来ない時がある。

 もしもあの日、昼間が起きて付いていっていれば。

 もしもあの時、ほんの数秒だけでも判断が違っていれば。

 そんな思いをあと何回、昼間はすることになるのだろう。


 都内の外れ。森林公園の奥にある小さな霊園。

「やはり妖精は人類の敵か」

 途中、広場で野生(ノラ)の妖精を集めてお菓子パーティーを始めたフィジーを置いて、昼間はひとり母の墓参りに来ていた。

 墓前にはすでに、母が好きだった花が二輪、挨拶代わりのように置かれていた。

 ひとつは東堂。もうひとつは父のものであろう。一緒に来ないのはもう恒例だとしても、帰ってきているのなら連絡くらい寄越せばいいのに。まあとりあえずは生存確認が出来た。

 昼間は一輪の花を前の二者同様、そっと母の墓前に捧げる。

 母が亡くなってから、十年の時が過ぎた。

 だが今さら考えることは、あまり多くない。

 ただ、母の遺した物語を書き続けること。それだけが昼間の生きる意味で全て。

 これからも、それはずっと変わらない。

 変わらないはずだった。

 あの時までは。


 母が遺したモノよりも、大切なひとが出来た。

 でも、

 ――ごめんなさい。ごめんなさい。

 小雨降るなか。

 ただひたすらに謝る彼女。

 ――裏切り。

 昼間はあの日。全てを失った。

 母の遺した小説、その最後が記された記録。

 ――燃える紙片。

 昼間はあの日以来、一度も筆を取っていない。

 いや、昼間は――小説を書かなくなった。


「俺は、なんでまだ生きてるんだろ」

 人知れず零れた呟きは、しかし今にも降り出しそうな秋の空へと消える。

 母の遺した最後のプロットを失い、昼間は『Azalea』の最終巻を書くことが出来なくなった。

 何故なら昼間が今までに書いた物語は全て、母が遺してくれたもの。

 原作者である母の遺志を継ぎ、昼間は小説を書いていただけなのだ。

 それだけが昼間の生きる意味で、存在理由。

 あの裏切りを経て、知った現実。

 だから、昼間は死ぬつもりでいた。

 しかしそれを止めたのは、何を隠そう妖精であるフィジーだった。

 彼女があの日、昼間の元に現れなければ、昼間はもう、この世にはいなかっただろう。


 雨が降り出す前に帰ろうと、漠然と考える。

 しかし霊園の入り口で、昼間の足が止まった。

 公園側から歩いてきた人物の足も止まる。

「あ」

 その呟きは、ほぼ同時。


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「……神代さんのお母さん、亡くなってたんだ」

 墓前で祈る唯。隣で呟く昼間。

 しかし何となく分かっていた。先月彼女の部屋へ行った時に、少女の態度を見たときから。

 唯はそっと目を開くと、寂し気な笑みを浮かべた。

「はい。わたしが子供のころに。本当は命日、昨日だったんですけど、昨日はどうしても外せない用事が入ってしまって」

「もしかして『Azalea』関連の?」

 昼間の責任ではないとはいえ、そうなのだとしたら申し訳ない限りだ。後輩は頷く。

「関係者の方に、声を聴いてもらっていたんです。それで推薦してもらえないかと」

「推薦って、ソラ役の?」

 昼間の言葉に唯は驚いた表情を浮かべたが、すぐにいつもの笑みとなる。

「今日はメルティの、って言わないんですね」

「それで、どうだったの?」

 茶化す後輩を無視し、昼間は訊く。

 唯は首を横に振るだけで答えた。

「でも大丈夫です。……まだ、オーディションを受ける方法はありますから」

「……明科さんにお願いして、お父さんに推薦してもらう……とか?」

 後輩の笑みが固まる。しかしそれも一瞬のことで、すぐにまた笑顔を張り付けた。

「ふふ、どうして先輩がそのことを知ってるんですか?」

「……明科さんと、どんな取引をしたの?」

 彼女の問いを無視し、昼間はさらに問う。

 想像はつく。だが想像したくはない。

 唯は小さく息を吐くと、視線を母の眠る墓へと向けた。

「――わたしのお母さん。自殺したんです」

「……え」

 突然の告白に、昼間は言葉を失う。

 少女はまるで何も感じていないかのような口調で続ける。

「わたしの誕生日に、母は死のうとしたんです。それから一か月後、一度も意識を取り戻すことなく母は逝きました」

「どう、して?」

「理由なんて、分かりません。ただ、母は心の弱い人でしたから、死にたくなったから死のうとした、ただそれだけだと思います」

 彼女の声は、とても冷たい。

「わたしはそれを、施設の人がこっそり話しているのを聞いて知りました。だから、わたしはあの日……」

 少女の言葉が途切れる。

 施設、という言葉が気になったが、当時の彼女は母がいなくなり、何処かの施設に預けられていたのだろう。

 続きを問えない昼間。

 やがて唯は、意を決した表情で告げる。

「わたし、子供のころ、一度だけyakan先生に会ったことがあるんです」

 彼女のその言葉に、昼間は耳を疑う。

 同時に、心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。


 ――また一緒に本を読もうね。


「もしもあの日、yakan先生に会っていなければ、きっと今ここに、わたしはいなかったと思います。だから……」

 だから、と、その言葉は虚空に溶け、続きが紡がれることはなかった。

 そして昼間は、何も言うことが出来ない。言葉が見つからない。

 今にも泣きそうな顔をした少女に、昼間は何も出来ない。

「……わたしに出来ることは、全てやったつもりです。でも、もうこれ以上、わたしに出来ることはないから、明科さんに頼るしかないんです」

「だからって、どうしてそこまでして……」

「全てだからですよ」

 唯は真っすぐに昼間の目を見て、揺らぎのない声で告げる。

「全てだからです。わたしの生きる全て。そのためだったら明科さんに身体を許すことくらい、全然大したことじゃないんです」

「そんな、なんでっ!?」

 今まで見たことのない、冷め切った目をした少女に昼間は激昂する。

「昼間先輩。あなたは、約束を覚えていますか?」

「やく、そく?」

 しかし、後輩が次に放った問いで、昼間は何も言えなくなった。

「昼間先輩は――yakan先生ですか?」

「――っ!」

 頭が真っ白になる。

 視界が揺れる。

 呼吸が止まる。

 どうして? と訊けばいいのか。

 そうだよ。と認めればいいのか。

 彼女は真っ直ぐに、昼間の目だけを見てくる。

 そんな少女に対し、昼間は、

「……違う、よ」

 目を、逸らした。

 唯はふふ、と小さく笑んで、またいつもの笑みを張り付ける。

「そうですか。困らせちゃってごめんなさい」

 そしてクルリと背を向けると、背中越しに言葉を放る。

「昼間先輩。わたしが明科さんのものになっても、変わらず仲良くしてくださいね」

 昼間はただ、去っていく後輩の背中を見ていることしか出来なかった。

 言えるわけがなかった。

 認められるわけがなかった。

 昼間はもう、小説を書くことが出来ないのだから。

 yakanはもう、とうの昔に死んでしまったのだから。

 ひとり霊園を後にする昼間。途中、肩に違和感。

 見ると妖精フィジーが肩に乗り、昼間の頬に手を当てていた。

「ひるま~、やっぱりわたしがいないから泣いちゃってたのよぉ~」

 何処からかハンカチを取りだして、せっせと昼間の頬を拭う。

 だからもっと、早く来てくれたら良かったのに。


 Page 6


 家に帰るなり、昼間は押入れをひっくり返して連絡先を見つけ、ある場所に電話を掛けた。

 父がオーナーを務める児童養護施設だ。

 昼間が名を告げると院長が快く応じてくれて、事の真相は呆気ないほどすぐに分かった。

 昼間は一度だけ、母の書いた『Azalea』を、他人に見せたことがある。


 ――また一緒に本を読もうね。


 あの日。母が亡くなる前日に出逢ったひとりの少女。

 交わした約束。

 神代唯。

 彼女こそ、十年前に昼間が出逢った約束の少女だ。

「……俺って最低だな」

 押入れの扉を背にズズズズ、と腰を落とし、ひとり罪悪感に苛まれる昼間。自己嫌悪。

 どうして今まで忘れていたんだろう?

 いや、その理由自体は分かっている。

 唯と初めて出逢った日。その翌日に、母は亡くなった。

 昼間は母のことが大好きだった。

 だから母が亡くなってから数日は、ずっとずっと泣いていた。それこそ記憶が飛んでしまうくらいには。

 当時の昼間を知る者に言わせれば、昼間は母が亡くなって以降、だいぶ変わってしまったらしい。

 活発でやんちゃだった子が、大人しくいつも俯いているようになってしまった。

 母親のことが大好きだったのに、母の話を一切しなくなってしまった。

 昼間はまた電話を取る。

 今は罪悪感に浸っている場合ではない、まだ昼間には出来ることがあるはずだ。

 電話の相手は、昼間の担当編集者、東堂天地。

『――やあこんばんは昼間くん。君から電話してくるなんて珍しいこともあったものだね。でもちょうど良かった。君にも伝えたほうがいいと思ってたことがあってね』

「東堂さん、特定の声優を推薦するって話。あれってもちろん俺にも出来ますよね?」

 東堂の軽口を遮って、昼間は口火を切る。

 担当編集の声のトーンが変わった。

『ん? 何が言いたいのかな?』

「推薦したい人がいるんです。ソラ役なんですけど」

『まさか君も、神代ちゃんを推薦する、なんて言い出さないよね?」

 読まれていた。が、昼間は揺るぎなく告げる。

「はい。神代さんを推薦したいんですけど」

 昼間の言葉に、電話越しではあるが、彼がため息を吐いたことが分かった。

『悪いけど、君の推薦は受けられない』

「……は? どうしてですか? 俺は作者ですよ」

 担当編集の予想外の返事に疑問符の浮かぶ昼間。またため息が聞こえた。

『理由はいくつかあるよ。まず、彼女にソラ役は無理だ。神代ちゃん、昨日僕のところに推薦を頼みに来たよ。まあルール違反な気もしたけどね。それで声を聴かせてもらったけど……』

 一旦言葉を切る東堂。少女が言っていた関係者とは、今回のアニメ化においてプロデューサーを務めている東堂天地のことだったのだ。

『まあでも、割と上手だったよ。これまでの彼女のイメージを覆すくらいには。相当練習してきたんだろうね。それこそ年単位で』

「だ、だったら……」

『でも、彼女には無理だ。ソラ役にはもっと他に適役がいる。努力してきたことは認めるけれど、でも、yakan作品には相応しくない』

「相応しく、ない?」

 彼の言っている意味が分からず、聞き返す昼間。

『yakan作品、特に『Azalea』は、作者の君が天才であるように、同じ天才しかその世界に踏み入ってはいけない領域だ。そして神代ちゃん、あの子は、天才じゃない。明科君とは違ってね』

「なっ……!? そんな、わけの分からない理由で……っ」

『僕は誓ったはずだ。『Azalea』を最高のアニメにすると』

 語気を強める東堂。昼間は言葉を奪われる。

 怒りか悲しみか、昼間の担当編集者は声を震わせながら続ける。

『前作の映像化、『ぱれっと』では、僕が至らないばかりに、あんな、最悪の失敗をしてしまった。僕の生涯において最大の失敗だった。君にも、君のお母さんにも、本当に申し訳ないことをしたと思っている。だからこそ、今回のアニメ化は、絶対に成功させる。そのためには、例え作者である君の意見だったとしても、不要なモノは全て排除させてもらう』

 東堂の決意に、思いに、昼間は何も言えなくなってしまった。

 一年半前、海外での仕事を終えて帰ってきた東堂が『ぱれっと』の映像化事件を知り、昼間に頭を下げた姿が脳裏に蘇る。彼が昼間にあれほど真摯に謝ったのは初めてだった。

 だが、昼間も引き下がるわけにはいかない。

「で、でも、せめてオーディションだけでも受けさせてあげてもらえませんか?」

『ふたつ目の理由だ。今回のアニメ化に際し、君には一切の関わりを断ってもらう』

「なっ……!?」

 作者であるはずの昼間に対するありえない暴虐。東堂は続きを語る。

『作者であるyakan先生には、公正公平、完全に独立した立場での傍観を求めたい。ファンの多くはyakan先生が小説以外のことに関わることを望んではいないし、それどころか些細なPRやアニメ化についての話すら嫌悪感を抱く者もいるだろう。yakan先生はファンにとって神聖そのもの。誰かを特別扱いするなんて以ての外。『Re→talk』でも、出来ればアニメが始まるまでアニメに対してのコメントはして欲しくはない』

「そんな、でも、それじゃあ、前と同じ……っ」

『だからだよ』

 昼間の担当編集者、いや、兄にも近い存在である彼の声は、とても優し気な響きを伴っていた。

『だからだよ。君には今回も、いや、今回こそは、絶対に関わって欲しくない。それが一番、君が傷つかなくて済む』

 東堂の優しさに昼間は温かいものを感じるが、それで黙るわけにもいかない。

「でも、神代さんは、明科さんと取引をしてるんです。神代さんが明科さんのものになれば、ソラ役の推薦を監督に頼むと」

『それがどうした』

「……は?」

 彼のあまりにも軽い言い方に、昼間は呆気に取られる。

 優し気な雰囲気から一転、担当編集者の声は非情に冷たいものへと変わっていた。

『確かにそれはふざけた取引だ。明科君にも問題がある。でも、そんなモノ、断ればいいだけの話だろう? だって推薦を受けたって役が貰えるわけじゃない。あくまでもオーディションを受けられるだけなんだから。それでもそんな取引に応じるなんて、馬鹿としか言いようがない』

「馬鹿って、そんな言い方……」

『馬鹿は君も同じだ』

 昼間の言葉の先を封じ、東堂は言い放つ。

『君は一体……何をしているんだ? 小説も書かず、女のケツを追って、君は一体……何をしているんだ!? 一体どれだけのファンが『Azalea』の最終巻を待っていると思ってる! そんなことにかまけている暇があるならさっさと小説を書けっ!』

 彼の声が、昼間の心臓を貫く。

 東堂が怒る姿を、声を、昼間は、初めて聞いた。

 あまりの驚きで放心状態の昼間に、ふう、とため息を吐いた担当編集が言う。

『……年内は執筆を急かさないという約束だったのに、大声を出して済まなかった。それから明科監督の方からついさっき、神代ちゃんをソラ役で推薦したいとの連絡があった。君に伝えたかった話はそれだけだ。監督からの依頼を断れば不和を生むから、推薦は受けざるを得ない。それからソラ役が落ちても、神代ちゃんにはメルティ役でのオーディションを受けてもらう。今回はどうかそれで勘弁してほしい。……それじゃ』

 通話が切れる。

 昼間は、動けない。

 昼間は、心の何処かで確信していた。

『Azalea』の作者である自分なら、唯のことを助けるのも簡単だと。

 しかし、唯も東堂も、明科も、皆が本気なのだ。

 本気で、それこそ命を懸けるつもりで臨んでいるのだ。

 そんな者たちに、母の遺した原作にすがってしか小説を書くことが出来ない昼間に。

 彼らの世界に、昼間は立ち入ることすら許されない。

 伝説の小説家であるyakanはもう、死んでしまったのだから。


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 何も出来なかった。

 昼間には何も出来なかった。

「おったからおったから発掘なっのっよぉ~♪」

 昼間が散らかした押入れの中に入り、何やら漁っているフィジー。

 昼間は電話を捨てて、ただ茫然とその歌を聴いている。

「にょわわわわ~、変なものを見つけたのよぉ~」

 気づけば妖精が何かを持ち出してきて、昼間の膝の上に乗っていた。

「ひるま~、これなんて読むのよぉ~?」

 無邪気な笑みで昼間を見上げてくるフィジー。

 昼間は妖精から手渡された本を見て、息を呑んだ。


 ――『人と自然と動物に優しくなるための百カ条(著作・母)』


「これは、また、懐かしいものを……」

 幾度となく読まれ、擦り切れた表紙。

 懐かしい思いと共に、昼間はそっと表面を撫でる。

「これはなんなのよぉ~? 読んでなのよぉ~」

 ペシペシ、と太ももを叩かれて、昼間は苦笑しながらフィジーにも見えるよう、本を開く。

『その一。ご飯は残さず食べましょう』

「初っ端からコレかよ」

「わたしはいつも残さずに食べてるのよぉ~」

「お前はいつも食べすぎだ」

『その二。ご飯はたくさん食べましょう』

「…………」

『その三。ご飯の前には「いただきます」。食べ終わったら「ごちそうさま」を忘れずに』

「ひるま~、これはいったいなんなのよぉ~?」

 ペシペシ。不思議そうな顔をして妖精は訊く。

 昼間は当時のことを振り返りながら、自然と出てきた言葉を口にした。

「これは、母さんの言葉だよ」

「ひるまのお母さんなのよぉ?」

 よく分からないといった表情でフィジーはページを捲っていく。そういえば妖精には親や兄弟姉妹といった概念がない。理解出来なくとも仕方がないだろう。

『その七。女の子を泣かせたらいけません』

「泣かされてるのはこっちだっての」

 フィジーの頭を撫でながら呟く。

『その二十。泣いている子には、本を読んであげましょう』

『その二十九。女の子は褒めてあげましょう。とりあえず褒めましょう。無理にでも褒めましょう』

 この項目は子供の頃に、唯と『Azalea』を声を出して読みあったきっかけだ。

『その三十四。妖精さんをいじめたらいけません』

『その三十八。妖精さんはみんなの友達です』

『その四十五。お菓子を貰ったら妖精さんにもあげましょう』

「妖精の項目多いな」

 母は彼女らの本性を知らなかったらしい。とても幸せなことだ。

『その六十一。本は幸せのお裾分け』

『その七十七。会計で七が揃うとなんかハッピー』

「これはもう完全にネタ切れだろ」

 苦笑する昼間。こういった無理やり感は、母の遺した原案を見て理解している。その度に多少の改変を加え、正してきた苦労を昼間は知っていた。

『その九十七。浮気は絶対に許しません。同窓会のあの夜のことを母は絶対に忘れません』

「いや分かるけどさ、それをここに書いてどうするんだよ?」

 思わず突っ込んでしまう昼間。母はこれをウケ狙いではなく、天然で書いていたのだから始末に負えない。

 ふと、気づけばフィジーはもう飽きてしまったらしく、膝の上でゲームをして遊んでいた。本当に自由な子だ。

『その九十八。出来ない約束はするな』

 耳に痛い限りだ。

『その九十九。一度した約束はちゃんと守りましょう』

「…………」

『その百。――」

 最後の項目を指でなぞって、昼間は言葉を失う。

「……フィジー」

「ん~なんなのよぉ~? わたしはいま忙しいのよぉ~」

「俺は、どうすればいいと思う?」

 妖精の小さな背中に顔を埋めて、嗚咽交じりに昼間は問う。

「俺は、どうすればいいんだよ……」

 フィジーは答えない。ただスマートフォンから発せられるゲームの音だけが部屋に木霊している。

「……フィジー?」

「ん~? 聞いてなかったのよぉ~」

「……お前なぁ」

 妖精の羽がパタパタと震える。

「そんなの簡単なのよぉ~。ひるまはただ、やりたいことをやったらいいのよぉ~」

「お前……面倒くさいから絶対適当に言ってるだろ」

「ふみゃはあああぁぁぁ! とうとうボスが出てきたのよぉ~! やったるのよぉ~!」

 フィジーはもう昼間の相手をする気はないようだ。

 妖精の自由奔放な姿を見て、昼間は自身でも気づかないうちに、頬が緩んでいた。

「やりたいことを、か……」

 昼間は本を閉じる。


――『人と自然と動物に優しくなるための百カ条(著作・母)』

『その百。――自由に生きなさい。昼間』


『Re→talk』今日の呟きピックアップ

 アニメAzalea(公式):来年放送予定のAzaleaですが、来週にもオーディションが始まる予定です。今回、審査は一部特別な形式で行われます。皆さまの期待にお応えできるよう、我々スタッフ一同、全力で制作に当たる所存でございます。どうか期待していて下さい!

 →Re:アニメ化ずっと待ってましたああぁぁ! あと最終巻もよろしくお願いします!

 →Re:すごいね。もうフォロワー百万人突破してる。

 →Re:何度も言いますがアニメ化絶対反対です! 私はぱれっとの悲劇を忘れない。

 →Re:頼むからyakan先生に宣伝とかさせないでくれよ……。イメージ崩れる。

 →Re:↑yakan先生は自分の小説の発売日であろうと宣伝したことないから大丈夫っしょ。

 →Re:yakan先生、アニメ化についてまだ一言も呟いてないけど、ほんとに許可取ったの?

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