第4章 妖精のいない日常
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暑かった。今日は暑かったのだ。
だから昼間は、後に面倒となる言葉を口にしてしまった。
「――白、か」
「……え?」
昼間の呟きに、人気声優と会長が同時に反応する。
昼間はマイボトルに入れた水道水を一口飲み、虚ろな目で答えた。
「神代さんは白が似合うよね。いつもは黄色いけど」
「おおっと神崎くん。まさかの開幕セクハラかい?」
「え? ……な!? ななななななんで知ってるんですかいつ見たんですか!?」
途端、唯は真っ赤になってスカートの裾を押さえ、会長はニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべる。何を言われているのか全く分からない。
「え? だって今まで見たことなかったから新しいやつなんでしょ? 前のも良かったけど、今日のは少し大人っぽいよね」
「きゃああああぁぁぁ! なんでわたしの下着事情把握してるんですか!? 確かに今日はちょっと攻めたレース付きのショーツですけど!?」
「下着事情? って、ち、ちが、というか答えなくていいから!」
後輩の混乱ぶりを見てようやく自身の失言に気づく昼間。慌てて訂正する。
「違う違う。その髪留めだよ。いつもはタンポポだけど、今日のは何の花なの?」
「あ、ああ、なんだ。これのことですか」
ふう、と胸を撫で下ろす唯。会長はクククと笑いを堪えている。というかこの人は分かっててわざとミスリードしただろ。
少女は頭に付けた髪留めをそっと撫でながら、何処か照れくさそうに言う。
「あの、はい。これ、お母さんのなんです。その、今日は借りてきたんです」
「ほう。それはアザレアだね。今日は重大発表とやらがあるから願掛けで借りてきたのかな?」
会長の指摘に唯は困ったような笑みを浮かべた。昼間は表情には出さなかったが、胸中で複雑な思いを抱く。同時にポケットに入れたスマートフォンが振動するが無視。
「唯ちゃんはどう思う? 重大発表について。やはり最終巻の発売日が決まったか、もしくはかねてより噂されているアニメ化か」
「ど、どうでしょう……アニメ化は、まだ無理かと思いますけど……」
人気声優はチラリ、と昼間に視線を寄越す。意見が聞きたいということだろうか。
だが実を言うと、昼間も先日東堂が『Re→talk』で告知した『重大発表』が何なのか聞いていない。というか現在進行形で東堂からの連絡を無視し続けている。どうせまたろくでもない内容に決まっているからだ。
昼間は少し考えるふりをして、適当な意見を述べることにした。
「俺はアニメ化だと思いますけどね。いくらyakan先生が反対をしていたって、最終的な権利は出版社にあるわけですし」
「いやいや、それはないだろうさ。yakan先生が反対ならファンも全員反対する。いくら最大手の出版社とはいえ、yakan先生のあの膨大な数のフォロワーを敵には回せないだろうしね。それに今急いでアニメ化を強行する意味はないと思うから、やっぱり最終巻の発売だろうね」
会長の意見は尤もであったが、昼間自身は最終巻の発売ではないことを知っているためその選択肢はない。
だが会長は自分の説に自信があるようで、最終巻の発売という体で話しはじめた。
「しかしyakan先生も最終巻にはえらく時間を掛けたものだね。一時期は年間に六冊も小説を出版するぐらい筆が早いことで有名なのに」
「そう、ですね。もう一年半近く出てませんから」
ふたりの言葉が昼間には責められているようにも聞こえ、胸が痛くなる。
と、またもスマートフォンが振動。無視する昼間だが目ざとい会長が気づき指摘してくる。
「神崎くん。さっきから電話が来ているみたいだけど出ないのかい?」
「いいんですよ別に。それよりちょっとその髪留め見せてくれる? フィジーにもそういうの作ってやろうかなって」
「……先輩って、結構親バカですよね」
髪留めを外し、昼間に渡す唯。昼間としてはただ話題を変えるための言葉であったが、満更でもないのも事実だ。
「ふーん。割と肌触り良いんだね。裏は……え? 何これ? 結構厳ついんだけど、どうやって付けるのこれ?」
「あ、昼間先輩。あんまり無理にいじると……」
――バキッ。
コスプレ研究会に、乾いた音が木霊した。
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「……本当にごめん」
「い、いえ。わざとじゃないんですし。もう謝らないでください」
何度目か。また謝る昼間に唯は苦笑しながら優しい言葉をかける。今はその優しさが逆に心苦しい。
街の中。真夏の日差しが傾く頃に、昼間は唯とふたりで買い物に来ていた。昼間が壊してしまった髪留めを修理するためだ。
少女は構わないと言ってくれたが、持ち主は彼女の母で、しかも会長曰く、結構値の張るものらしいので弁償となると非常に厳しい。なので昼間に可能な範囲で修復を試みようと、こうして街中までやってきたのだ。
「でも本当にフィーちゃん置いてきてよかったんですか? あとで怒りそうな気も……」
「いいんだよ。あいつがいると余計な出費が増えるだけだから」
唯は妖精がいないことに落ち着かないらしく(昼間はもちろん落ち着く)、若干顔を赤らめてソワソワしている。フィジーは大学の連中から貢ぎ物を徴収する巡回に出ていたため、置いてきてやったのだ。
「というか、神代さんこそ一緒に来なくてもよかったのに」
「い、いいじゃないですか今日くらいは。それに、たまにはふ、ふふふふたりっきりで、で、でででで、デー……買い物も」
彼女の挙動不審ぶりはいつものことなのだが、今日はいつにも増しておかしい気がする。嬉しそうにしたり残念そうにしたりと忙しい子だ。
唯は業界では天使と例えられることもあるアイドル声優なので、噂される前に早く事を済ませたい昼間であったが、ふとゲームセンターの前で少女が立ち止まる。
「あ、先輩見てくださいよ。『Azalea』のキーホルダーがありますよ」
弾んだアニメ声に導かれて見てみれば、『Azalea』の主要キャラクターがキーホルダーとなって集合していた。アニメ化と同じで、昼間の関知していない部分でこうして『Azalea』のグッズ化も進んでいる。
暑いし早く行こうと急かす昼間であったが後輩はその場を動こうとしない。
「……獲ってあげようか?」
「え? 昼間先輩、こういうの得意なんですか?」
意外そうな顔をして見上げてくる唯。昼間は少女が返事するよりも早く、お金を入れてアームを動かしていく。――ガシャン。
「う、嘘……一発で……!?」
「まあ、お金に困った時とか景品獲って売ったりしてるから、それでね」
何とも情けない理由ではあったが、こうして役に立つこともあるようだ。昼間は取り出し口からキーホルダーを取って唯に渡す。
「すごいです、けど、もうっ! だから何でメルティなんですか!? 先輩って実はロリコンだったりするんですか?」
「ち、ちがうよ! あれ、でもなに? 他のが欲しかったの?」
少女のイメージ的にてっきり彼女はメルティが好きだと思っていたのだが、しかし言われてみれば確かに、唯は一度もメルティの声優がやりたいとは言っていない気がする。
「ぶう、もういいです。先輩のバカ」
「ああ、そう……あ、じゃあ百円になります」
「先輩のバカっ!」
投げつけられた硬貨をしっかりと受け取る昼間。何もタダで取ってやるとは一言も言っていない。
ゲームセンターを離れ、いつも懇意にしている手芸屋へと訪れる昼間と唯。
入る前、またもスマホに着信。もちろん無視。
「電話、出なくていいんですか? さっきから何度も掛かってきてるみたいですけど……」
「いいんだよ別に。それより早く済ませよう」
不思議そうにする唯を連れて店に入る昼間。
朝からずっと呼び出してきている相手は東堂だったが、どうせアニメ化に関する報告なのだろう。先ほどメッセージを確認したら迎えに行くと言っていたが、無論大学に昼間はいない。そして昼間が覆面作家であり、彼がテレビにも出ている有名人であるという特性上、誰かに居場所を尋ねたりは出来ないはずだ。無駄足を踏むがいい。
手芸屋にはコスプレ研究会に入ってからというもの、この一年で何度も訪れている。しかし普段主に利用している布類が並ぶコーナーではなく、今日はほとんど見るのも初めてなアクセサリー売り場へと足を運んだ。
「接着剤、は良くないよなぁ。肌に触れるものだし。壊れ方からして部品変えればいけそうな気もするんだけど……」
隣にいる後輩に話かけているつもりで昼間は呟いたが、期待していたアニメ声は返ってこない。目を向けてみれば唯は少し離れたところで違う商品を見ていた。昼間にとっては親の顔より見慣れたキャラクター、またも『Azalea』のグッズだ。まさかこんな小さな手芸屋にまで侵食しているとは。自身の作品ながら恐ろしさを感じる。
昼間は店員に壊れた髪留めを見せ意見を仰ぐ。幸いなことに壊れた部分の部品は他の髪留めでも使われている型だったので、そこだけ交換すれば大丈夫とのことだった。
修理はすぐに終わり、ついでにフィジーの服用に新しい布を買って店を出るふたり。
「良かったですね。すぐ終わって」
「ああ、うん。今日は本当にごめん神代さん。もし何か不都合があったら言ってくださいって、お母さんに伝えてくれる? 今度は弁償するから」
苦笑しながら頷く唯。髪留めの見た目自体は全く変わらないが、部品を一部入れ換えたために留め具の部分だけが新しいものに変わってしまった。これで許してもらえるだろうか。
駅までの道のりで、またもスマホにメッセージが届く。少しだけ見てみると、東堂は大学に行ったらフィジーに捕まって面倒なことになっているようだ。ざまあみろ。
「先輩、このあと用事あります?」
「帰る。フィジーを置いて」
「じょ、冗談ですよね?」
大丈夫。もちろん冗談ではなく本気だ。
しかし昼間の浮かべた笑みを冗談だと受け取ったらしい後輩は、何か言いたそうにモジモジし始めると、意を決したようにまたも上ずった声音で尋ねてきた。
「あ、あの! ひ、ひひひひ昼間先輩! よ、良かったら、わたしの家に来ませんか!?」
「そ、それは何故に?」
「だ、だって、あの、その、あれです! 今日はいい天気で暑かったし……そ、それに、お、お母さんに、ちゃんと挨拶してもらわないと……あ、ちがっ、へ、変な意味じゃなくて……」
何を慌てているのかよく分からない昼間ではあったが、しかし彼女の言葉は一理ある。
昼間は唯の母親の髪留めを壊した上に勝手に修理して一部とはいえ作り変えてしまったのだ。その事情説明を娘ひとりに任せてしまうというのは何だか無責任な気もする。
「そうだね。じゃあちょっとご挨拶に行こうかな」
「え……うぇ! ホントですか!? あ、あの、ほら、それに前言ってた本を貸す約束まだでしたよね! だから、あのその、え、選んでもらっていいですから! 何だったら一緒に読みましょう! あ、あの、変な本はありませんから安心してください! 恋愛のハウツー本とかベッドの下に隠してたりしませんから!」
「ああ、うん。楽しみにしてるよ」
とりあえず、ベッドの下は調べないであげようと思う昼間であった。
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唯の住まいは昼間の家から駅ひとつ、歩いても二十分ほどの距離という、割りと近い場所にあった。しかし昼間のオンボロアパートとは違い、流石は人気声優といったところか。新しく綺麗なマンション、警備員常駐、当然の如くオートロック&カードキーという、苦学生の昼間から見たら異世界にも近い様相を呈していた。
「景色が高い……高すぎる! あれ? ちょっと神代さんエアコン付いてるじゃんめちゃくちゃ涼しいんですけど!?」
「あの、先輩さっきから驚きすぎです。それからエアコンなんて別に珍しくもないと思いますけど」
反応がいちいち大袈裟な昼間に少女は若干呆れている模様。なんだろう。いつもはただ元気で可愛いアニメ声の後輩がすごく大人に見える。
昼間は勧められたソファーに座り、唯がお茶を入れるのを待つ。巷で人気のアイドル声優の部屋は、なんというか思っていたものと違い、シックで落ち着いた感じの部屋だった。
「神代さんって、けっこうお嬢様だったりするの?」
「そんなことないですよ。まあ家賃はちょっと高いですが」
冷えた麦茶とクッキーをテーブルに置いて唯は対面に座る。まあ確かに、女の子、それも声優でアイドルをしている身だ。安全面の理由からそれなりに警備が整った物件でないと事務所や親御さんも安心出来ないのだろう。
そういえば、と昼間はクッキーを食べながら本来の目的を思い出す。
「お母さんは出掛けてるのかな? 一緒に住んでるんだよね?」
言ってから後半の質問は不要であったと悟る昼間。でなければ後輩の自宅に来た意味がない。
唯は麦茶を飲みながら、寂しげな笑みを浮かべた。
「……いますよ」
「え、何処に?」
「ここにですよ。ずっと傍にいますよ」
昼間は部屋を見渡す。ベッドに机。テーブルにソファ。本棚と箪笥。姿見。クローゼット。
――クローゼット。
「ち、違いますよ。ホラーじゃないんですから」
少女は立ち上がると本棚に歩みより、立て掛けてあった写真立てを手に取る。そして昼間の隣に座るとテーブルの上に置いた。
「ほら、これがお母さんです」
「え? なんか若くない?」
写真の中で微笑む女性は、昼間と同じか少し下くらいの年齢に見える。手を繋いでいる幼い女の子が唯のようだ。
「あはは、そうですね。若作りしてたみたいです」
後輩は曖昧な笑みを浮かべるだけでそれ以上は語ろうとしない。昼間も無理に聞こうとは思わないため、本題に入る。
「それで、お母さんはどちらに?」
唯は写真を見つめたまま答えない。
静寂。
少女のアザレアを模した髪留めが、小さく揺れている。
「あの、おかあ、さんは……」
唯が口を開いた直後――
ピリリリ、ピリリリ。
マナーモードにしていたはずの昼間の電話が鳴った。
おかしいと思いつつもスマートフォンを取り出す昼間。着信は東堂からだ。もちろん無視。
しかし、
『――ひ~るま~! わたしを置いてゆいとデートなんて許せないのよこの浮気ものぉ~! 今から迎えに行くから覚悟しておくのよぉ~!』
親の声より聞き慣れた妖精の声が、スマホから発せられた。
唯と顔を見合わせる昼間。
クスリ、と後輩は小さく笑う。
「残念ですけど、そろそろ帰りましょうか、昼間先輩」
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駅から徒歩二分。最寄りのコンビニまで三分。近くに公園。羨むばかりの立地条件。
大学を出たらこんな場所で暮らしてみたい。
「どうしたんですか先輩?」
マンションの偉容を見上げてため息を吐く昼間を、不思議そうに眺める唯。
と、彼女にマンションの前まで見送りに出てきてもらってから昼間は気づく。先程の電話、相手はフィジーであったが着信には東堂の名前が出ていた。つまりは妖精だけでなく、うるさい担当編集者も一緒に昼間を迎えに来る可能性が高い(ちなみにフィジーは例え昼間が地球の裏側にいようとも居場所が分かるらしい。恐怖でしかない)。
彼と会うところを後輩に見られるわけにはいかないため、早々に退散せねば。
「神代さん、今日はありがと。あんまりゆっくり出来なかったけど」
「い、いえ、そんな。またいつでもいらしてください。今度はちゃんと本も貸しますから」
その約束は正直破棄してくれて構わないのだが、唯は一度した約束は必ず守るとてもいい子だ。昼間は微笑む。
「あ、そういえば、これ……」
言いつつ、買い物袋から忘れていたものを取りだそうとする昼間。
しかし、
「――唯っ!」
後輩の名を呼び捨てにする、聞き覚えのある少年ぽい声が背後から届いた。
一瞬にして、少女の顔が青ざめる。
「そんな、明科、さん……どうしてここに……」
振り返る昼間。
金髪の少し伸びた髪。黒のハーフジャケットとジーンズ。数多の女性を虜にするであろうその美貌は、しかし今は怒りに歪んでいる。
そこにいたのは唯と同じ人気声優――明科明。
ツカツカ、と昼間に歩み寄ってくる明科。
次の瞬間、そのままの勢いで昼間に殴り掛かってきた――ので、昼間は軽く体勢をずらして避ける。今度は逆の手でもう一発。難なく避ける昼間。フンっ! と鼻息荒く明科の三発目は、わざと手のひらで受ける。次が面倒なのでその場で青年の体を回転させ、腕を後ろで固定、取り押さえる。
「いだだだだだだだ! やめろやめろおまえちょっ、つよっ!? 僕が誰だか分かってやってるんだろうなっ!?」
「明科さん、ですよね? 声優とモデルに、その他色々やってらっしゃる」
他にも何かやっていたような気がしたが、思い出すのも面倒くさい。まあうるさいので解放してやる。
明科は若干低姿勢ながらも真っ赤になって昼間を睨んできた。フウフウ、と荒い息。どうやら相当ご立腹のようだ。
「明科、さん。どうして、ここに……」
呆然とし、事の次第を見ていた唯であったが、思い出したかのように口を開く。
「はあ、はあ。僕のフォロワーが教えてくれたんだよ。唯ちゃんが男と歩いてるって」
息を整えながら、キッ、とまたもキツく昼間を睨みつけてくる明科。
何だろう。もしかしたらこれが修羅場というやつか。
「ち、違うんです。昼間先輩はただ、あの、今日は仕方なく……」
後輩は何かを誤魔化そうとするかのように必死に言葉を紡ぐ。だが少女に失言でもあったのか、青年の目つきがさらに鋭くなった。
「昼間、だって?」
明科に昼間の呼び方を指摘され、初めて気づいたかのように目を見開く唯。
「……あ! あの、ち、違くて、その……」
「何が違うんだよ! 約束しただろ! コイツとはもう……!」
青年が怒りに任せて少女の腕を掴もうと手を伸ばした――ので、その前に明科の腕を掴み、捻りあげる昼間。
「いだだだだだ! だからなんでお前そんなに強いんだよっ!?」
「今日はただ、大学で神代さんの髪留めを壊してしまったので修理に付き合ってもらっただけですよ。いつもはふたりきりで出かけるようなことはしません」
青年を開放して事情を説明する昼間。
嘘は言っていないだろう。普段であればフィジーも一緒なのだから。
明科は捕まれた腕を抑えて涙目になりながらも、皮肉気な笑みを浮かべる。
「はっ! そうやってわざと唯ちゃんの気を引いて付き合ってもらっただけじゃないのか? 妖精がいないと相手にされないからって」
「それ、は……」
意外なことに、青年は的確な指摘をしてきた。
恐らくは、それも嘘ではない。昼間は何も言えなくなる。
昼間が黙ったのを形勢逆転と見たのか、明科はここぞとばかりに責めてくる。
「僕は彼女と同じ声優だ。彼女がどれだけすごいのか理解してるし、彼女がどれだけ努力しているのかも、悩んで葛藤しているのかも知ってる。でもお前は唯ちゃんのこと、何も知らないだろう?」
「あかし……明、さん。それは違います。先輩はわたしのこと、ちゃんと知ってくれてます」
後輩が彼を名前で呼びなおした。
たったそれだけのことなのに、何故だか心がひどく締め付けられる。
「本当か? じゃあ今日が何の日かも、もちろん知ってるんだよな? だから一緒に出掛けてたんじゃないのか?」
「あ、あの! それは……」
彼らが何を言っているのか、昼間には分からない。
何だろう。明科と唯を見ていると、ひどく心がざわつく。
彼は恐らく、少女のことが好きなのだろう。
それも昼間が知らない唯を知って。唯が昼間には見せない姿を見て。
明科が何か怒鳴っている。後輩がそれを必死に宥めている。
「おい、聞いてんのかよ! だったらお前、僕の知らない唯ちゃんのこと、ひとつでもいいから言ってみろよ? 何か言えるようなことあるのか?」
なんでそんな話に、と昼間は思わないでもなかったが、ふと、思いついたことがあったため、言ってみることにした。
ただ、ひとつだけ言い訳が許されるのならば。
暑かった。今日は暑かったのだ。
だから昼間は、後に面倒となる言葉を口にしてしまった。
「――ショーツ」
「……は?」
昼間の呟きに、明科が聞き返す。
青ざめる唯。
「今日の神代さんは、少し攻めた感じでレースの付いた白いショーツを穿いてる」
一瞬の、静寂。
遠くで蝉の声が聞こえる。
昼間の言葉に、後輩は絶叫した。
「せんぱあああああああい!! なんでいまそれを言うんですか状況理解してますかバカなんじゃないんですかあああぁぁぁ!!」
青年の方は最初意表を突かれたかのように呆然としていたが、やがてその顔が歪み始める。
「――っ! ふざけ、やがって……!」
明科は今度こそ唯の手を掴むと、路肩に止めていた車に彼女を乗せ、自身で運転席に座ると早々に去って行った。
ひとり残される昼間。
――やってしまった。
プップー。クラクションの音。
視線を向けてみればそこに、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた東堂が乗る赤いスポーツカーが止まっていた。ため息をひとつ。昼間は助手席に乗り込む。
「昼間君。そのときどき空気が読めなくなる病気は一体いつからだい? フィジーちゃんのKYが移ったみたいだね」
車を出す東堂。彼の言葉は無視して昼間は簡潔に尋ねる。
「フィジーは何処に?」
「巻いてきたよ。話し合いの邪魔になるだろうからね」
「そうですか。でも話し合いは必要ありません」
担当編集の目つきが鋭くなったのを感じとる昼間。
しかし次に彼が口を開く前に、昼間はひとつの決心を口にしていた。
「アニメ化の話、東堂さんの好きにしてもらって構いません。でもひとつだけ、お願いがあります」
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「いやっ! 離してくださいっ!」
明科のマンションに連れ込まれたところで、唯は青年の手を振りほどく。腕がヒリヒリして痛い。
明科の息は荒く、いつものアイドル然とした余裕は消え去っていた。
「どういう、ことなんだよっ! 今日は僕と過ごす予定だったろ!」
「で、でも、あかし……明さんとの約束はディナーだけだったから、まだ……」
バンッ、と青年は近くにあった花瓶を腕で払う。花瓶は壁にぶつかって割れる。
唯は怖くなって続きを言えなくなった。
「嘘吐くなよっ! よりにもよって、あいつとデートだなんて……」
「で、デートなんかじゃ……」
「デートだろ!? しかもきみの誕生日にっ!」
指摘されて、唯の胸に痛みが走る。
誕生日。
そう。今日は唯の生まれた日。二十歳の誕生日だった。
しかし、唯にとってはそれ以上に――
「お前分かってるのか!? 僕がいないとお前は夢に挑戦することさえ出来ないんだぞ!? もう協力してやらなくていいのか!?」
「そ、それは……ご、ごめんなさい。これからは気を付けますから……! 明さんの言ったこと、ちゃんと守りますから!」
明科の言葉に焦り、涙交じりで懇願する唯。しかし青年の怒りは治まらない。
「それに、あいつのことやっぱり名前で呼んでたんじゃないか。それからなんであいつがきみのマンションの前にいたんだよ!」
「あの、たまたま、です。べ、別に、特別なことは……」
「嘘吐くなって言ってるだろっ!」
「きゃっ!」
明科は唯を突き飛ばし、唯はソファに倒れる。母の髪留めが飛ぶ。
「……う、あう、あっ」
勢いでスカートが捲れてしまい思わず赤くなるが、慌てて直す唯。
しかし明科は何か衝撃を受けたように信じられない顔をして、固まって唯を見ていた。
「……入れたのか?」
「え?」
青年の問いの意味が分からない。
明科は激昂する。
「あいつを……部屋に入れたんだなっ! だからあいつ……っ!」
「いやっ! なに、を……っ!」
青年が唯に覆いかぶさってくる。
何が起きたのか、唯には一瞬、分からなかった。
ただ、初めての感触。
想像していたよりも熱い。
――唯は明科に、唇を奪われていた。
「――っ! い、いやっ!」
思わず青年を突き飛ばす唯。胸元に手を寄せ、必死に身を守る。
怖い。怖い怖い。
震えが、止まらない。
明科は満足そうに笑っている。
荒い呼吸。紅潮した頬。
青年が一歩を踏み出す。
唯の背筋に、最大級の怖気が走る。
しかし、
プルルルルル、プルルルルル。
明科の胸ポケットから電子音が響いた。青年が舌打ち。
だがスマホを取り出してその着信を見ると、驚いた表情をしてすぐ電話に出た。
「は、はい、明科です。どうしたんですか東堂さん。……え? ほ、本当ですかっ! は、はい。それで……今ですか? ……は、はいっ! だ、大丈夫です、すぐに行きます!」
見る見るうちに明科の表情が明るいものへと変わっていき、最後にはいつもの少年声で通話を終えていた。
青年は唯を見下ろすと、ご機嫌な笑みを浮かべる。
そして明科が言った次の言葉に、唯は衝撃を受けた。
「朗報だよ。――『Azalea』のアニメ化が決まった」
「……え?」
彼の言葉を、唯は受け入れることが出来ない。
興奮した口調で明科は続ける。
「やっと、やっとだ! 長かった! 本当に長かった! 今、これから東堂さんと話をしてくる。東堂さんは僕を『Azalea』の主人公役で推薦してくれるって! やった、やった! これで僕の長年の夢が叶うっ! yakan作品の、それも透(とおる)役をやれるなんて……夢みたいだっ!」
言うだけ言って、青年は手早く準備をすると唯を置いて部屋から出て行った。
呆然とする唯。立ち上がろうとして、足に何かがぶつかる。
「……あ」
そこには、母の形見であるアザレアの髪留めが、壊れて転がっていた。
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壊れた髪留めを手に持ち、明科のマンションを後にする唯。
ロビーから外へ出ると、丁度明科が赤いスポーツカーに乗って走り去るところだった。運転席に座っていた茶髪で濃い赤のスーツを着た男性は、業界では大物中の大物で、伝説の小説家yakanと直接会うことの出来る唯一の人物、東堂天地。彼が明科を『Azalea』の主人公役で推薦してくれるという話は本当なのだろう。
夕暮れの中。自宅のある方向へ歩き出す。ここから自宅へは、歩いて一時間くらいだろうか。急だったのでスマホも財布も持って来ていない。外出用の変装もしていない。乱れた髪に、パーカーとスカート、ちょっと外出する時用のサンダルという何とも飾り気のない格好だ。
フラフラと歩きながら、唯は呆然と思考を動かしていく。明科に強く握られた腕がまだ痛む。
奪われたファーストキス。壊れてしまった母の形見。
ずっと待ち望んでいた『Azalea』のアニメ化。
不思議と辛さも嬉しさもない。涙も出ない。
ただひとつ。心に浮かんできたのは。
「……あいたい」
ただひとり。
大好きな大好きな、先輩の姿。
「あいたい、会いたいよ……昼間先輩」
「神代さん?」
背後から、声。
驚いて振り返る唯。
「会いたいって……ついさっきまで一緒にいたけど?」
そこには何処か困ったような笑みを浮かべる、昼間の姿があった。
唯はあまりの驚きで目を見開いたまま動けなくなり、言葉も出ない。
すると先輩は、あ、そうだ、と言って、持っていた買い物袋から何かを取り出す。
「いや、あのさ。これ渡し忘れてて、追ってきたんだよ。ほら」
唯の手に、昼間は何かを乗せる。
「これ、神代さん、手芸屋さんで見てたでしょ? いや、今日のお詫びもかねて買っておいたんだよ。あ、もちろん代金はいらないから」
照れた笑みを見せながら昼間は言う。唯は手のひらに乗ったそれをまじまじと見つめる。
それは、唯の大好きな『Azalea』のキャラクターグッズ。それも髪留めであった。
ファーストキスを奪われても、母の形見を壊されても、『Azalea』のアニメ化が決まっても流れなかった涙が、
「ごめんね。それに今日はありがと」
先輩のたったそれだけの言葉で、滂沱となって溢れだした。
しかし、
「ひ、昼間せんぱああああい!! だからなんでいっつもメルティなんですかああぁぁ!!」
「あ、ごめん。他のが良かった?」
あはは、と乾いた笑いを零す昼間。
日が暮れて、夜が来る。
ふたりは並んで、帰宅への道を歩きだした。
『Re→talk』今日の呟きピックアップ。
akira akashina:ついに来ました! Azaleaのアニメ化です! yakan先生のひとりのファンとしてとても嬉しいです! そしてなんとこの僕、yakan先生の担当編集者である東堂さんから、主人公透役の推薦を頂きました! ついに長年見ていた夢への第一歩です! 絶対にオーディション勝ってみせます! yakan先生! 見ていてください!
→Re:わああ、明くんおめでとう♪ 私もとっても嬉しいです♪ 明くんなら絶対透役になれるよ!
→Re:すごいすごい! 私も嬉しくて涙出てきちゃいました♪ 私も明くんが一番透役向いていると思います。応援してるね♪
→Re:それって言ってもいいことなんですか?
→Re:yakan先生はアニメ化オッケーしたわけ? 東堂さんの独断だったりするんじゃね?
→Re:そんなことよりアンタの彼女、今日誕生日なんだろ? ヤリまくりな感じ?
→Re:透役は明科か二階堂。ソラ役はyukaか東雲だと思う。でも明科は金持ちだからその分有利かw
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