黄色いパーカー
大枝 岳志
黄色いパーカー
朝。男は雨が止んだ曇天の下を、歩いている。工業団地の線路沿いの道を行く男は、一体何処からやって来たのか分からない。気付いたら、男が歩いていたのだ。そうとしか言いようがない。
男の職業はおろか、年齢さえも見た目だけでは分からない。おおよそ三十半ばに見えるが、顔の傾き加減によっては二十代半ばにも見えなくもない。
だか、決して少年の面影は無い。深く落ち窪んだ目元には影が浮いて、霞んだ肌は荒れている。髪型は耳が隠れるくらいの黒髪で、かなり強めのパーマが掛けられている。細面に顎髭を蓄えているものの、あまり似合ってるとは言い難い。
遠目でも目立つ黄色いパーカーを着ているのだが、妙な違和感を覚える。まるで着せられた物のように、男には似合っていないのだ。茶系のパーカーの方がまだ似合いそうだ。
男が何処へ行くのかは分からない。そもそも誰も男の足取りになど、興味も湧かない。その証拠に、時折男と擦れ違う人達は老若男女問わず、誰もが男に目を向けようともしない。
男がもしも指名手配犯ならば、目撃される機会が少なくて済んだであろう。何かの罪を犯したかどうかは誰にも分からないが、きっと捕まる事なく余生を過ごせるはずだ。
何せ、誰の興味も誘わない風貌の持ち主なのである。
男は延々と続く線路沿いのフェンスに歩きながら指を伸ばし、水滴を飛ばして遊び始めた。その姿はまるで、歩く事に飽きてしまった子供のようだ。
さらに男は恐らくだが、ふと感覚的な思いつきのみで、フェンスから弾かれた水を飲もうと空中に舌を伸ばし始めた。
ここまで来ればもう立派で奇怪な光景なのだが、やはり誰も男に目を向けようともしなかった。
意図的に目を向けようとしないのではなく、見向きさえしないのだ。
曇天の下で水は光を弾く事なく、飛び散り続けた。しかし、水は男を拒むように伸び切った舌へ届く事はなかった。
すると男は立ち止まり、ムキになった様子で幾度となく挑戦し始めた。運動神経が鈍いのか、水に嫌われてしまったのか、ついに弾かれた水が男の舌に届く事はなかった。男はその行動に興味を失くしたようで、濡れた指先を黄色いパーカーに擦り付けながら再び歩き始めた。
ぬかるんだ泥道を歩いて来たのだろう。カングールのスニーカーの爪先に泥が溜まっている。よりによって、淡いカーキ色のスニーカーだった。
歩いているうちに泥が気になり出したようで、男は泥を落とす為に爪先を思い切り地面に叩きつけた。前方から自転車に乗ってやって来た老婆が、怪訝な目を男に向けた。やっと人目に触れられた男はスン、と鼻を鳴らして老婆に微笑んだ。下の前歯が二本、薄黒く汚れている。
クリーム色の電車が男の真横を通り過ぎて行く。十両編成に詰め込まれ、揺られる人々の顔は朝から疲れ切っている。溜息が充満する車内で、人々は神経質な呼吸を繰り返している。
泥を落とした男は歩く速度を少しだけ上げ始めた。何処へ行くのか、何をしようとしているのか、誰にも分かりはしない。分かるはずもない。
ただ、周りの人々からは工業団地に良くある風景の一つとして男は見えているのかもしれない。語弊があるかもしれないが、工場や倉庫で主に作業に従事する人間には得体の知れない特徴を持つ者が多い。
駅へと向かう夜勤明けと思しき人々の中にも、やはりその特徴が良く現れている。歩きながら楽し気に独り言を呟き続ける者や、大量の紙袋をぶら下げながら歩く者、聞こえない程度に女性器の名を連呼しつつ、駅へと向かう女子高生にジロジロと視線を這わす者、捲くった腕から刺青が見え隠れする者等、種類は豊富に揃っている。
彼らの共通事項としてはやたら大きなバッグを持っていたり、くすんだ色のリュックサックを背負ったりしている点が挙げられるのだが、男に荷物は無かった。完全に手ぶらである。
男と逆方向の、駅へと向かって歩く無数の男達は皆くたびれた様子で、くたびれた服装で、くすんだ色のリュックサックの花を咲かせている。あれはきっと、あだ花だろう。
それらに比べ随分と身軽な出で立ちのこの男は、家の近所を散歩しているだけなのかもしれない。
今更ながら、男の靴はまだ真新しい。それで、先ほどの泥を気にしていたのだろう。
男は歩き続けたのだが工業団地を抜け掛けた途端、T字路の手前で突然立ち止まった。
ピタリ、と止まったまま動こうともしない。
緩い風が音もなく男の髪を揺らしている。
すると、男は急に踵を返し、ここに至るまでの多少長い道のりを今までの倍の速度で歩み始めた。男の背中が上下に揺れ、肩で息をしているのを伝えている。黄色のパーカーが、激しく揺れる。
どうやら男はそれなりに薄毛のようで、パーマの掛かった髪が揺れる度に、白い地肌が見え隠れしている。
揺れている男の背中が、段々と遠くなって行く。一歩、また一歩と、猛烈な勢いで黄色のパーカーは遠く小さくなって行くのだが、やはり誰もが男に目を向けようとはしない。
そうして米粒のように小さくなった男は突然、左に曲がった。工業団地から、一粒の黄色が消えた。
残されたのはくすんだ色の花々と、白灰の工業団地の景観のみだ。
男は一体、何処へ向かったのだろうか。
男のその先は、もう誰も、何も知らない。ここからはパーカーの色すらも、もう見えやしない。
黄色いパーカー 大枝 岳志 @ooedatakeshi
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