第5話 一人が蜂に刺されて 五人になった


 一度でも限界を越えて狂気に走ってしまった精神という物はそうた易くは元には戻らないものだと思っていたが、軍事顧問は違った。良く考えて見れば軍事顧問の発狂は、自分の目の前で人が死に、次は自分の番かも知れないという恐怖に対する一時的な逃避行動だったのかも知れない。あるいは部下達の間に膨れ上がる軍事顧問への不満と殺気を感じ取って、怒りの矛先を逸らすためにあえて狂人の振りをしただけなのかも知れない。

 どちらにしろ、帰り道で軍事顧問は喚き、騒ぎ、所構わず噛みつき、武器を取り戻そうとして見張り役の部下に格闘をしかけ、そのお返しに部下達に手ひどく殴られ、止せば良いのにそれに対する返礼としてその場に居あわせた全員を罵倒した。私を罵り、部下を罵り、私の家族と先祖に関して罵り、挙げ句の果ては私の架空の性的嗜好に関して罵った。さすがに、この悪口雑言に溜まりかねたのか、止めるのも聞かずに部下達は軍事顧問をロープでぐるぐる巻きに縛り上げるとおまけとして口に猿ぐつわをかませ、二人がかりで担いで運ぶことにした。

 人間を担いで運ぶというのは実際にやってみると判るが、担いでいる方よりもむしろ担がれている方が苦痛である。担いでいる方は肩の筋肉にかかる荷重が苦しいわけだが、担がれている方は全身のありとあらゆる場所にそのごつい肩が遠慮も何もなくぶつかることとなる。それも自分の全体重がその上に乗せられているのだから、これは傍から見ているだけでもその痛さが判る。その打撲による痛みにだらだらと油汗を流した軍事顧問が、猿ぐつわを噛みしめながらも目だけで私に懇願するので、結局私は部下を説得して軍事顧問を肩から降ろさせると、元どおりに歩かせることにした。それでも軍事顧問は諦め切れないのか、実にしつこくこちらの腰にぶら下がる拳銃へと視線を向けて来るので、とうとう最後には彼の両手を縛って部隊の前を歩かせることになった。すでに我が守備隊の人数は軍事顧問を入れても六名にまで減少している。これで帰り道に敵の小隊とでも遭遇したら、戦いと言えるものにはならないだろう。斥候一人出していないこちらが、敵の一方的な攻撃を食らって全滅するのは間違い無い。そもそも当初の計画からして、グスニーオ要塞守備隊だけで街を一つ占領しようというのが無理な計画だったわけで、それをさらに警戒厳重な敵の首都に乗り込んで敵の最高司令官を暗殺しろなどとは気違い沙汰以外の何物でも無い。

 日も高く登り、丈の低い潅木が生えているだけの、じかに日にさらされる山道は無視できないほど暑くなっていたので、前方に農園が見えて来たのを機会にここで休息を取ることにした。この辺りの農園が栽培しているのは葡萄である。無数の葡萄の葉が棚から垂れていて格好の日除けになるし、またその下に隠れていれば万一敵が道を通りかかっても死角になって見えないだろうと、我々は葡萄棚の下に潜り込んで休むことにした。

 農園には人の気配というものが無く、きっとこの辺りでは幾つもの農園を巡回する形で複数の農家が協力して作業をしているのでは無いかと思われた。共同作業の約束をした農家のグループ全員でそれぞれの家の農園を一つずつ巡り、雑草取りや収穫物の刈取を行う方式である。このような場合は全員がなんらかの形で親戚であり、一つの大きな家族であることが多い。とすればこの農園で作業する順番が回って来るまでは、我々は人目を気にすることなくここでのんびりと日を過ごすことができるわけである。グスニーオ要塞へ帰還するのが遅れれば遅れるほど、軍部への言い訳をするのを先伸ばしにすることができるわけで、私にはその方が都合が良かった。

 この寂しい農園の光景は、グスニーオ要塞の崩れ掛けた中庭に我々が作った菜園を思い出させた。食料調達の不便さから、働くことを渋る部下達を押しなだめながらようやく作り上げたものだったが、さてそこで出来た野菜と言えばどれもひどく固くて不味いものばかりで私は非常に落胆したものだった。それでもたまに見事なトマトなどが取れることもあり、それなりに我々は期待を込めて時々水をやりに通ったものだった。今となってはあれほど毎日が退屈でひたすらそこからの脱出を願っていたグスニーオ要塞がとても懐かしく、まるで自分が母親の胎内へ戻ろうとしている赤ん坊のように思えた。

 いつとも無く、私は眠りに引きずり込まれ、その眠りの中でグスニーオ要塞の中庭へと私は降り立った。足元には小さな黄色い花をつけた名前も知らない雑草が生えていて、その先のモグラに荒らされた菜園の土の真ん中には先の尖った靴のつけた足跡が一つ見て取れた。これは何か古い時代の騎士の金属製のブーツがつけた跡であると、直感的に私は悟った。例の幽霊騎士のものである。彼は時たまこの中庭へと足を踏みいれているようではあるが、まだ目撃される所までは行っていない。カラスが一羽、どこからともなく飛んで来ると、崩れ掛けた中庭の噴水の上に止まり、そいつは私の瞳をじっと覗きこんでから、驚いたことに人間の男の大きな声で何やら喚き上げた。あまりにもその声が大きいので私は自分の両手で耳を覆い、そうして夢から覚めた。

 喚き声の主は例によって軍事顧問だ。

「や、くそ。蜂だ。蜂だ。こいつめ、このわしを刺しおった。痛い。痛いぞ。なんてまた痛い蜂だ。

 ええい、いまいましい。どうして善良で忠実で勇敢である軍人たるわしばかりがこんな目に遭うのか。

 どうせ刺すならば、この卑怯者達が先であろうに。ええい、許せん。皆殺しだ。この世の蜂を全て、皆殺しにしてくれるわ。

 ええい、痛くてたまらんぞ。ええい、くそ、蜂め、わしを憎んでおるのか」

 再びうとうとと半睡眠状態の心地好さの中に戻りながら、そう言えば何週間前になるのかグスニーオ要塞にまだ我々が居た時も、この軍事顧問は今みたいに蜂にさされたと大騒ぎしていたことを思い出した。中庭に殆ど自生状態で生えている作物の幾つかを手に入れようと足を踏みいれて、どうやらそこにいた蜂の機嫌を損ねたらしかった。してみるとこの軍事顧問は自分でも言っている通り、蜂に憎まれる何かを持っているのかも知れないな、と勝手に納得した。少なくとも私や部下に憎まれていることは知っているはずで、恐らくはそうやって他人に憎まれることで、自分は何か特別な存在でありその類まれな能力ゆえに他人から嫉妬されるのである、と思い込んでいるのだけは間違い無い。

 この旅が終わってグスニーオ要塞に戻った後は、このような嫌われ者の性格を持った人物を相手に過ごすことになるのであるから、軍部からの命令に逆らったという負い目を持つ自分は法律的にも人間関係の上でも非常に危険な状態にあるわけであり、下手をすれば部下ともども銃殺されることもありうるぞ、と物騒なことを考えたが、眠りの気持ち良さに負けてそれ以上思い悩むことも無く、再び夢の待つ暗闇の中へと私は引きずり込まれた。

 どのぐらい眠っただろうか。何か恐ろしい悪夢の中でうんうんとうなりながら脂汗をだらだらと流した所で、部下に揺り起こされて目が覚めた。日はすでに沈みかけていて、空一面が夕焼けの赤さに染まっており、その赤さがまるで意志あるものかのように、さらなるより激しい赤へと変貌していく様を見ていると、自分は果たしてまだ深い眠りの中にあって夢を見続けているのか、それとも変えようの無い厳しい現実の中の幻想的な一端を見ているのか、どちらとも判別がつかなくなって来た。

 そうしている内に、私を起こした部下の真剣な顔が目に止まり、少し離れた所に残りの部下達が集まって人垣を作っているのを見て、私は何かまずい事態が起きたことを悟り、ようやくはっきりと目が覚めた。皆で一体、何を見ているのかと思って部下の肩越しに人垣の中を覗きこんで見ると、なんとそこに横たわっているのは軍事顧問であった。

 軍事顧問は縛られた姿のままで世にも恐ろしい形相で宙を睨み、その両手の指はまるで何かをかきむしるかのように鉤状に曲げられて体の前に突き出されていた。誰かがまた猿ぐつわをかました後で、その歯を食いしばったらしく、彼の歯茎から血が僅かに流れ出してそのまま固まっているのが見えた。夕日の赤に染まって巨大に膨れた顔はとても先刻まで生きていた人間とは思えないもので、一瞬、やはり自分は眠っていて、これはひどい悪夢を見ているのだと信じこみそうになった。

 隊に入る前は少しばかり医学をかじったことがあるという部下が、軍事顧問の死体を指差すと死因を解説してくれた。

「蜂の毒によるアレルギー性のショックです。ほら軍事顧問が蜂に刺されたと騒いでいたでしょう。アナフラシキーというやつです。

 この種の蜂は一度刺されると体内に蜂毒に対する免疫が出来るんです。次に刺された時にはそれが毒と反応して凄まじいアレルギーを引き起こすんです」

 軍事顧問の死体の頭がその説明に納得したかのように肯いたように思えた。死体の周囲にいる部下の誰もそれには気付かなかったようであり、私は再び自分が悪夢の中に捕らえられたことを感じ取った。

 空は真っ赤に染まり続け、私はいつまでもその中に立ち尽くしていた。

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