第4話 一人が転んで 六人になった
俺達は呪われているんだ、隊員の一人がそう言い出した。いずれ誰かが言い出すに違い無いと予想もしていたし、また自分でもそうでは無いかと思っていたのだが、それでも少しばかりどきりとした。
グスニーオ要塞には昔から一つのジンクスが伝わっている。それはこういうものだ。守備隊が要塞内に止まって戦っている間は決して負けることは無いが、要塞から討って出た部隊は必ず全滅するというものだ。現にグスニーオ要塞の古い戦闘記録を調べて見ると、この言葉通りに要塞から飛び出した、あるいは逃げ出した部隊は必ずと言っていいほど壊滅に近い被害を受けている。グスニーオは不敗の要塞ではあるが、その歴史は決して勝利と栄光に満ちたものばかりでは無いということだ。
要塞からの突撃行動と、現在我々が置かれているような遊撃作戦を同じものと見るのにはそもそも相当な無理があるが、それでもジンクスを額面通りに受け取れば、我々はまさに全滅するべき部隊であり、また実際に次々と部隊員を事故で失っているわけでもあり、このジンクスを迷信とばかりに気軽に笑い飛ばすわけにはいかない状況であった。
困ったことに部下達もこのジンクスのことは良く知っている。最初に要塞を出ることを部下に告げた時にも、このジンクスを理由に上げて反対した者がいたぐらいだ。事ここに至って、部下の間に不穏な空気が流れるのを感じて、私は懐柔策を取ることにした。僅かな期間に立て続けに部下を失ったこともあり、また兵隊達が銃を手に時々奇妙な目つきで軍事顧問を睨んでいることにも気付いていたせいか、軍事顧問は表面上は私の提案に難色を示したものの、最後には私の説得に応じることにした。
そうと話が決まれば、ぐずぐずしていることは無い。重い無線機を背中に担いでただ黙々とここまで運んで来た無線係の兵隊が、無線機を地面に置くとそのアンテナを伸ばした。それを見た生き残りの兵隊達も事態の推移を見ようと周りに集まって来た。今、我々がいるのは山道の真ん中だが、周囲には敵の気配らしきものは無く、これはすでに最前線が遥かに先、恐らくは我が国の首都付近にまで進んでいるはずであることからもむしろ当然と言える状態であり、それゆえに見張りを立てるべきであるとは私は考えなかった。
電波の状態が悪いのか、山の中という位置が悪いのか、なかなか無線はつながらず、いらいらとした気持ちを抑えるために私は薬を幾粒か飲み込んだ。すでに最初の一瓶は空になってしまっていたので、今は二瓶目を飲んでいるところである。手持ちの薬が尽きるまでにグスニーオ要塞に帰ることができるのかどうか、私は少しばかり不安になってきていた。そうこうしている内に無線係の努力が実り、ようやく無線が通じるようになった。さすがに面子というものを面計って軍事顧問は無線に出るのを断ったので、交信が確認されるのを待ってから私は通信兵からマイクを受け取った。ここまでの部隊の経緯を適当に潤色し、三人の部下は敵との戦闘で死んだことにして、私は事態を手短に報告した。いくつかは暗号を使ったが、ほとんどの部分はそのまま話した。どの道、この無線を傍受している敵軍も我が部隊のような小さな部隊のことは気にも止めまい。私は報告の最後を締めくくった。
「聞こえますか。こちらグスニーオ守備隊長。繰り返します。敵と交戦の末、兵三名が死亡。撤退を許可願います」
しばらく無線の上での沈黙が続いた時、何か嫌な予感が私の頭の隅を掠めた。無線機の向こうから電波雑音に混ざって聞こえるのは確かに砲撃の音だ。ということは私の推測通りに、今は首都攻防戦の真っ最中と言うことになる。少しばかり自分達の勇気の無さを恥じる気持ちが起きて来たが、我々がここで何をやったからといって、いまさら戦局が変わるわけも無いという諦めの気分がすぐに沸き上がって来ると罪悪感を消し去ってくれた。
もちろん、そもそもの負け戦の原因はグスニーオ要塞守備隊にあるのでは無く、事がこれほど進むまで有効な手を打たなかった無能な参謀連中にあるわけで、換言すれば我々が自分達を恥じ入る必要はどこにも無いのである。
「聞こえるか。グスニーオ要塞守備隊。これより軍本部からの命令を伝える」
無線機が喋り始めると、続けて幾つかの暗号が流れ出して来た。通信終了を無線機が告げると、通信兵が青い顔で暗号の解読結果を渡して来た。私が隠す間もあればこそ、全員がその紙を覗き込んだ。
暗号の内容は、直ちに全ての兵士を連れて敵の首都に乗り込み、敵軍の最高司令官を暗殺せよとの命令であった。作戦の成功に関り無く、すでに死んだ者を含めて全員に勲章の授与を行うこと、さらにはご丁寧に命令不服従の際には部隊全員を間違いなく即時銃殺に処するとの但し書き付きだ。
「隊長。逃げましょう」
蚊の鳴くような声で部下の一人が言った。こいつも荒くれ者の一人のはずだったが、自分達がどうしようも無く死の縁へと追い込まれていることが判ったためか、日頃の豪胆さもどこかに吹き飛んでしまったらしい。かくいう私も口を開けばきっとこの男のような情けない声が出るに違い無く、そのために返事をするのがためらわれた。
背後に穏やかならぬ気配を感じた。まずいな、と思って軍事顧問の方を振り向くと、すでに彼は拳銃を抜き、我々の方へと銃口を向け終わった後だった。軍事顧問の目は明らかに狂人のそれである。
「貴様達の目論見は判っているぞ!」軍事顧問が怒鳴った。
「軍人として命令に背く事は許さん。卑怯者は一歩前に出ろ。わしがここで直々に引導を渡してやる」
口の端から泡を吹き出した軍事顧問の強烈な興奮に血走った目が全員をぎょろりと睨みつけた。赤い血の線が一筋、その目の端からこぼれ落ちると、拳銃の引き金にかけた彼の指が震え、私には今にも彼が我々を撃ちそうに思えた。
恐いのだ、と私は思った。この人は死ぬのを恐がっている。安全な司令部の中で階級に任せた権威を振りかざして平和な時代を過ごすのならともかく、死がごく身近に、それも前触れも無く訪れるような事態には彼の精神は耐えられないのだと私には判った。だからその反動で、こんな無茶な命令にあくまでも従おうとしている。自分は死をも恐れぬ勇敢な軍人であるという意識にしがみつくことで、精神が崩壊するのを防ごうとしているのだ。
では私はどうかというと、実は彼と同じであり、ただ私の場合には薬という強い味方があったわけで、その点では彼に少しばかり同情を覚えた。私は少し考えた末に、取り敢えずは軍事顧問の言う通りに敵の首都を目掛けて進むことにした。軍事顧問が落ち着くのを待ってから部隊の主導権を取り戻し、何とか自分達が落ち込んだこの事態から脱出する方法を考えだすのだ。
今の状態の軍事顧問では敵と接触したら全員に無謀な突撃行動を命じかねない。もし、そんなことになれば前からの敵の銃撃と、後からの軍事顧問の狂気の銃撃で全員が死ぬことになるだろう。皆が死んだ後で、精神崩壊を起こした軍事顧問はあらゆる物を全身の穴という穴から吹き出しながら敵に向かって命請いをするのでは無いか、という気がした。そのような気がするということは疑いも無く軍事顧問はそうするということで、そうなれば軍事顧問ただ一人だけが捕虜となり生き残って本国に帰ることになる。軍事顧問の狂気のお陰で全員が死に、当の軍事顧問だけが生き残る。そんな理不尽なことがあってたまるものか。私は心密かに彼を部隊から除く決意をした。
部下に荷物をまとめるように言い、敵国の首都に向けての出発を命じると、冷たい口調で全員から承諾の返事が返って来た。この瞬間に私の名は部下の殺人予定リストに載ったわけで、私は参ったなと心の隅では思ったがあえて顔には出さずに、わざと隊列の一番前に立って歩き出した。部下が反乱を起こして私を撃ち、軍事顧問を殺して脱走するとしたら、それは少なくとも夜になってからである。それまでに部隊の中の緊張を緩和し、軍事顧問から銃を取り上げねばならない。拳銃を構えたまま部隊の最後尾をやや離れてついてくる軍事顧問の隙を伺うのは大変だが、機会は必ず訪れるだろう。私はそう自分に信じ込ませると、薬を一握り口の中に放り込んで歩き続けた。
二時間ほど緊張に満ちた行進を続けた後、山道が崩れた。ここの所の雨続きで地盤が緩んでいたらしい。地滑りの衝撃で、長い年月の間ここが自分の居所と決めていた場所を離れた大きな石が一つ、斜面を勢い良く転がり落ちて来ると、悲鳴を上げる通信兵を巻き込んで崖下へと消え去った。通常の兵隊の装備に加えてひどく重い長距離無線機を背中に担いでいたために、警告を聞いた時に可哀想に逃げ遅れてしまったらしい。
後続の落石が無いことを確認してからおそるおそる崖の下を覗きこんで見ると、これが想像を絶するようなすさまじい断崖絶壁で、遥か眼下に潰れた部下の死体と恐らくはばらばらに壊れているに違いない無線機の残骸が見えた。他の部下達も次はわが身とばかりの厳しい顔で崖の下の戦友の死体を覗きこんでいる。その中に軍事顧問の顔を認め、私はそっとその背後に回ると、放心状態の軍事顧問の手から拳銃を取り上げ、残りの武装を手際良く解除した。
幸いなことに軍事顧問は抵抗しなかった。もし抵抗されていれば部下達も自分を押さえることが出来なくなり、恐らくは軍事顧問の殺害という事態にまで至っていただろう。いやそればかりか、彼と一緒に私まで殺されていた可能性が高い。こうして彼がおとなしく捕まってくれたお陰でその危険は回避されたわけであるが、それでも部下の一人が地面の上に座り込んでいる軍事顧問の顔を殴ろうとしたので、私は止めに入った。
けたたましい笑い声がした。笑っているのは軍事顧問で、その目の空ろさからすぐにこれは先程とは別の意味で狂ったなというのが周囲の人間にも判り、それを知って軍事顧問に暴力を振るおうとしていた男も憤懣やるかたないという表情でしぶしぶと拳を下した。グスニーオ要塞守備隊員達はいずれも荒くれ者であり、軍人の風上にも置けないはみ出し者かも知れないが、彼らは少なくとも人間であり人の心を解する者達であった。すぐにかっとなるという悪い癖はあるが、それでも気立ての良い男達であった。
グスニーオ要塞に帰ろう、と私が一言だけ言うと、部下の緊張が目に見えて解けるのが判った。私の決断が一日早ければ二人の部下は死ぬことも無かったのにと悔やまれたがそれも後の祭りで、私は自分の心を無理に抑えこむと薬をもう一錠だけ飲み込んだ。
こうして我々はグスニーオ要塞に向けての長い帰路についた。
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