第3話 一人が薪を割って 七人になった


 山岳地帯もここまで降りると、流石に人家が多くなってくる。その人家の大部分が山と山の間の僅かばかりの平地にしがみつくように建っている農家である。少しばかり広い場所があったとしても僅かに二、三軒の農家が入り込めばそれでもうその空き地は飽和してしまう。地図によればこの先しばらくは街と呼べるものは無く、それは喜んでいいものなのか、悲しんでいいものなのか判断に迷う所であった。すでにグスニーオ要塞を出た時に比べて部下が二人も減ってしまっているのに、我が部隊ときたらまだ戦果らしい戦果も上げてはいないのである。これが敵との戦闘になった結果の、ある程度の被害を受けての撤退ならば司令部に対する言い訳も立つのだろうが、そうでないところが実に情けない。

 こうなればいっそのこと敵に襲われたと嘘をつき、このまま安全なグスニーオ要塞へと逃げ返り、終戦までの日々をのんびりと過ごすというのはどうだろう?

 しかしながら、ただでさえ口うるさい軍事顧問がそのような欺瞞を許すわけが無く、彼が平気で部下を売ることも十分予想がついた。では敵の通った跡でも探し出して追いかけて撃ち合いでもすればいいのかと言うと、そうなればそうなったで今では友人とも言える部下達を無意味に死なせることになるわけで、到底、私にはこの案を安易に認めるわけには行かない。

 ここで軍事顧問に不慮の事故で死んで貰い、戦闘を放棄して全員で逃げ出したとしたらどうだろう。これはかなり良い案に思えるが、もし万が一その後で我が軍が即時停戦を認めた場合には間違い無く敵前逃亡の罪で全員銃殺となってしまう。我が部隊に対する無茶な作戦を止めるだけの力は無かったものの、こう見えても軍事顧問は軍の中枢に近い所に幾人かの友人がいる。その全てが軍事顧問の味方では無いとしても、ひょっとすればそれらの一部が軍事顧問の真の死因について疑問を抱くかも知れない。我が軍が徹底的に崩壊した後ならともかく、少しでも形が残っている間は軍事法廷を開く意志も銃殺を実行する力も司令部には残っているわけであり、酒を飲むとすぐに口が軽くなる部下を信用して事を起こすだけの勇気は、私にはとても無かった。

 試みとして、もし逃げるとすればどこに逃げるべきだろうと考えて見ると、我が部隊の行き先は古巣であるグスニーオ要塞以外に無く、それは司令部の方も良く心得ているに違いない。

 グスニーオ要塞はその長い歴史の中で何度かに渡る大補修をされている。元来は崖をくり貫いて造られた堅固で質素な要塞だったものが時代を経るにつれて、その前面に近くの石切り場から切り出された建材を使って新たに城壁や塔が増築されていったものである。こうした人間の手で増築された部分は、最近では人手不足により全く修理されることもなく風雨に痛めつけられ続けた結果、その大部分が崩壊寸前の状態である。一方、崖の内側に当たる部分に関しては丈夫な岩盤をくり貫いたものなのでそれほど風化もひどくは無く、その一部はまだ居室の形を止めている所もある。我々が要塞砲を備え付けて住んでいた所も、そういった比較的にましな部屋の連なる場所であった。ここは元々、王族に近い騎士達が住んでいたらしく、ときたま部屋の奥の亀裂の中から豪華な衣装の慣れの果てといったものが発見されることもあった。

 グスニーオ要塞自体は恐ろしく巨大で、その通路は最初から迷路として設計されているために、もし我々のような小隊がその中に隠れれば、この世の果てる時まででも隠れ続けることができるはずではある。しかし残る余生の全てを、幽霊と雑草しか存在しないグスニーオ要塞で送ることになるのは余り好ましいことでは無く、とうとう最後には私はこの考えを放棄するに至った。

 行く手への期待とそれを上回る大きな不安を胸に秘めて、私はいつもと変わらぬ顔で指揮を取り続けた。薬の力のお陰で心がひどく鈍感になっているため、何とかそれをやり遂げることができた。もし私にそれだけの度胸と演技力が最初から備わっていれば、そもそも私が薬のお世話になることは無かっただろう。夜が迫り、軍靴の中の足がひどく痛むようになった頃、斥候の一人がようやく一軒の大きな農家を見つけて来たので、そこに一夜の宿をとることに決めた。

 元々がこのような人里離れた所で暮らす人々に取っては税金の率が変わりさえしなければ誰が国を治めていようが関心は無く、我々には信じがたいことだが、戦争が行われていることを知らない家も存在する有り様である。

 今回、我々が泊まることにした農家もそういう家の一つであった。グスニーオ要塞守備隊の金庫から持ち出した僅かばかりの金の中から泊まり賃としていくらかを農家の主人に払い、我々は裏手の納屋へと案内された。これが軍事顧問の抱いていた血沸き肉踊る戦争風景とはひどく異なることから、軍事顧問は実に渋い顔をして不満を表現していたが、部下達が文句も言わずに納屋の中を整え、特に軍事顧問のために最も寝心地の良さそうな場所を用意したのを見てからはそれ以上のわがままは止めることにしたようである。

 行軍の途中で見つけた畑からできるだけできの良さそうな作物を探して手に入れて来ていたので、炊事当番の兵隊は野菜スープを作ることに決め、残りの兵隊達は夕食ができるまでの時間を各自適当に過ごすことにした。軍事顧問は納屋の周囲に見張りを立てることを主張したが、ただでさえ疲れている隊員達にこれ以上の無意味な苦役を与えることも無いと判断し、隊長権限を盾に取って私は軍事顧問の意見を無効とした。

 悲鳴はその直後に聞こえて来た。銃を構えて納屋の外に出て見ると、炊事当番の一人が足を押さえて転げ回っており、すでに辺りは血の海というひどい有り様であった。地面に転がって泣き喚く男を皆で強引に押さえ込んで傷を見て見ると、なんと右足が足首のあたりで半ばちぎれかけている状態であった。どうやら夕食の支度に使うための薪を斧で割っていて、誤って自分の足をたたき割ってしまったらしい。

 慌てて血止めを施したものの、周囲に巻き散らされた血の量から考えて、この隊員が朝まで持たないことは明らかであった。あらゆる刃物の内でも斧による傷が一番たちが悪いと以前になにかで聞いたことがあるが、それは本当だったようである。輸血をすれば少なくとも命は助かるのだろうが、そのための道具が無い。実を言えば我が隊は消毒用の薬一つでさえも持っていない状態なのである。念のためと思い、農家の主人に医者の居場所を尋ねて見たが、やはりかなり遠くの街まで行かねば医者はいないとの返事が返って来た。重病人を担いで夜の山道を医者のいる街にまで走ったとしても、その衝撃で病人の出血はひどくなり、向こうに着いた頃には全身の血を失って死んでいるに違いなく、となれば後はすべてを病人の運に任せるしかなかった。

 医者がいないのはグスニーオ要塞にいたとしても同じことで、そのために以前から何度も軍医を寄越してくれるように軍本部に要請し続けていたのだが、その度に適当な理由をつけられて要請を却下されていた。返す返すもそのときに強引に軍医を要求していればと悔やまれたがもう遅い。それによくよく考えて見れば、はみ出し軍人の吹き溜りとも言えるグスニーオ要塞に貴重な軍医を回してくれるわけも無く、とすればこの男はやはりこうなる運命だったのだなあ、と変な所で感心してしまった。いつも私が飲んでいる精神安定剤を少し飲ませてはみたが、それで傷が治るというものでも無い。

 私の手を握ったまま、体が焼けつくような高熱にうわ言をつぶやきながら、その隊員は明け方に亡くなった。彼が息を引き取る寸前に、誰かが納屋の外で何かをつぶやいているのが聞き取れた。

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