第2話 一人が腹を壊して 八人になった
石作りの建物が三十軒ほど。それがその街の全てであった。グスニーオ要塞守備隊の九人で占領するのにはちょうど良い大きさでもあり、それに加えて敵が駐留軍を残すほどの大きさでも無かったのが我々の気に入った所だ。流石にグスニーオ要塞を離れてここまで来ると、自分の縄張りを遠く離れているという不安の上に強行軍の疲労が重なり、軍事顧問でさえも最初の勢いをすっかりと失ってしまっていた。
ここで敵兵に見つかれば僅かばかりの兵隊達では敵の攻撃に対して抵抗しようもなく、また周囲全てこれ敵であるという状況から見て我が部隊が全滅することも十分に有り得るわけで、手柄を立てて再び軍の上層部に返り咲きたいという軍事顧問の欲望もこの厳しい現実の前には萎えてしまうのも無理は無かった。すでに部下の間には長く住み慣れたグスニーオ要塞に返ろうとの意見も、公にこそしてはいないが流れ始めていて、それがじきに表面に噴出してくるのは誰の目にも明らかであり、そのような事態の発生を抑えるためにはここで形ばかりでも占領の真似事をして士気を高めてやる必要があった。
大体がグスニーオ要塞守備隊に放り込まれているような輩は、いずれも荒くれ者で真面目に軍人としての忠義を尽くそうなどということとは無縁の輩であり、ましてや実際に戦場に出て祖国のために命を投げ出そうなどとは決して考えない連中である。
これは無理の無い話で、彼らの大部分は祖国からゴミ同然に扱われて来た貧民階級出身であり、貴族出身の軍事顧問とは生まれも育ちも違うのである。国に恨みこそあれ、恩義など受けたことが無い以上、どうしてその国のために自分の大切な命が捨てられる理由があるものだろうか?
もちろん脱走兵は銃殺が決まりなので、そうおいそれとは隊を抜けて逃げることは出来ないが、上官達が全て戦死したとあればこれはまた別の話となる。部隊の再編成のためとの理由をつけてグスニーオ要塞に帰れば良いのである。ましてや戦場での死因は敵味方どちらの弾が当たったのかも普通ははっきりしないものであるから、これ以上兵隊達の不満が強くなるようならば、これからは自分の背中も自分で良く見張る必要が出て来る。
まあ、最初に襲われるのは間違いなく軍事顧問であろうから、それまでは大丈夫と自分に言い聞かせては見たものの、やはり胃がきりきりと痛みだし、仕方が無しにまた錠剤を二粒ほど自分の口に放りこんだ。この薬は実に良く効く反面、少しばかり習慣性があり、それに加えて強烈な幻覚作用を持っている。決められた服用量をちょっとでも越すとたちまちにして自分の頭の周りを踊り回る小人が見えたり、パイプオルガンを演奏する象が見えたりするようになるので実に宜しくない。元はと言えばそれが原因で、グスニーオ要塞の守備隊長などというあまりありがたくない部署につかされたわけであり、この薬の習慣を断ち切らない限り、私は一生グスニーオ要塞から出られない運命であることも良く判ってはいた。判ってはいるが未だに薬は止めることができない。
一行の中でも比較的に疲れた様子を見せていない部下を二人ほど、斥候として先に街に送り込んで状況を偵察させていたのだが、彼らがようやく戻ると街の状況を説明した。驚くべきことに街には人一人、いや猫一匹残ってはおらず、更に驚くべきことは食事の支度をしたままのテーブルがそのまま放り出されている有り様ということであった。敵兵がいないことには安心したものの、当然人が住んでいるはずの街に人っ子一人いないというのはいくら戦時中とは言え余りにも奇怪な状況なので、我々は一塊になっておそるおそる街中を見回って見た。
確かにテーブルの上には食べ掛けの食事が放り出したままで、今やそのスープ皿の上には赤やら緑やら黄色のカビのジャングルが茂り放題に茂ってしまっている。この様子から見て数日前にこの街に何か恐るべき慌ただしい事態が出来したらしいことは明らかであった。
少なくともそれは食べ掛けの食事を中断したまま街を逃げ出さねばならないような事態で、その正体がはっきりしないことがまた我々の不安を増した。残りの家も見回ってみたがどれも同じような状態で、隊員の中でも迷信深い者がこれは悪魔の仕業に違いないと囁き始めたのを機に、私はわざと隊員達に隊列の解散を命じて、食料の調達を行うように指示した。こういう時には部下に何か仕事を見つけてそれに没頭させるのが一番である。
街の中でも一番立派な家を見つけだすと、私はそこを部隊員の今夜の宿泊所に決めた。そうしてから私と軍事顧問は、何か手掛かりになるものはないかと思って、その家を隅から隅まで調べることにした。恐らくここは町長の家に間違い無く、町長ともあれば街の中で起こったことを記録しているのではないかと思ったからである。
今頃の時期は日が落ちるのが早く、どうやらこの家の主の書斎らしき部屋で、か細いランプの光を頼りに当家の主人の日記らしいものを見つけた。鉄張りのいかめしい日記帳で、貴重な書籍によく見受けられるような鍵付きの本であった。さんざん鍵を探して部屋中をひっくり返した挙げ句に結局鍵は見つからず、それならば何か錠を壊すものを見つけようと階下に降りた時点で、隊員の一人が食事が出来たと伝えに来た。
やはり荒くれ者ぞろいの部隊でもこういう奇怪な状況は恐いのか、全員がこの家の食堂に集まり黙々と料理を片付けた。時折、窓の向こうを風が通り過ぎると、石作りの街路に風の音の木霊が反響するのが何とも言えずぞっとした音となる。たとえて見るならばそれは、髪を振り乱した女が悲鳴を上げながら街路を走り抜けているかのような音で、それが通り過ぎる瞬間に通りかかった家々の扉をがたがた揺するという感じである。これで扉にかんぬきが掛かっていなかったら、夜の闇の中に大きく開いた扉の向こうにいったい何が見えることになるのだろうかと想像すると、私も少しばかり恐くなって来た。いったいどこの誰がこんな陰気な街に住みたがるのだろうと心の中で不思議に思い、そう思ってから誰も住んでいないからこそ陰気なのであって、普段は子供達の笑い声などに満ちた明るい街なのでは無いかなどとも思ったりした。
何事も無く夕食が済み、隊員達がこの家の中に各自自分の寝場所を探すのを待ってから、私は要塞砲の整備員だった男を呼びつけた。この男はあれほど大事にしていた要塞砲から離れる時に、せめて整備道具ぐらいは手放したく無いとの思いから、止せば良いのに重いスパナの類を背嚢の中に詰めて持って来ていた。すでにここは要塞を離れて遠く、この世でただ一つの愛するものから引き離された要塞砲整備員の悲しげな顔を見ている内に、こちらまでつられて悲しくなってしまい、その気分を吹っ切るかのように私は借りた道具を使って頑丈な日記の錠を壊すと、その内容に没頭した。
人の日記を読むことにはタブーを犯す密やかな快感があり、それは軍事顧問も同じなのか私の読んでいる日記をそばからしきりに覗き込もうとしていたが、私は敢えて彼には構わずに日記の先を読み進んだ。風の音に紛れて何か別の音がしたような感じがあったが、それもすぐに街の出来事をつづる文字の流れの中に消え去った。
そうして私はこの街で何が起きたかを知り、大きな叫び声を上げて隊員達を呼んだ。驚きと不信と恐怖の入り交じった顔で、家のあちらこちらから隊員達が飛び出して来た。私を見つめる隊員達を前にして説明する間も惜しく、私は大急ぎで隊員の数を数え上げた。あんまり慌てていたので最初は十人と数えてしまい、いやそんなはずがあるものか、あいつは死んだはずだ、と数えなおすと今度は八人であった。足りない一人の名前を大声で呼ぶと、その隊員は家の便所から青い顔をしてよろめくような足取りで出て来ると我々の前に倒れこんだ。
朝が来る迄にその男は三十七回便所へ通った末に、とうとう最後には一人で立ち上がることも出来なくなり、そのまま垂れ流すだけ垂れ流して死んだ。
この家の主人が残した日記によると、敵の軍隊がこの街を通過した際に、どうやら将兵の多くがここを臨時の休憩所として使用した模様であり、その結果、軍隊が通過した後には大量の糞尿が周囲に巻き散らされる結果となった。これは急速な進軍を続けている軍隊には良くあることで、地面に便所用の穴を掘って始末する暇が無いためである。この街を通り過ぎて行った軍団の規模は二個師団や三個師団という数では無く、振りまかれた汚物の量も並大抵では無かったらしい。日記には更にハエの大量発生が書き記されている。
その結果として引き起こされたのは悪性の伝染病の発生で、どうやらこの街の周囲一帯の畑が腸チフスに汚染されているらしいとの推測がついた。街中の家庭で人々が突然倒れ始め、街ぐるみで協議した結果、医者と病院のある隣の街へ急遽移動することに決まったと日記にはある。この街が無人なのはそのためであり、これが今ここで我々が落ち込んでしまった状況である。
食事係が青い顔で台所に向かうと、まだかまどの上に掛けてあった夕食のスープの残りを蹴り倒した。風向きが変わったのか、それまで気付かなかった畑の悪臭が窓の隙間から吹き込んで来た。これ以上この街に止まれば残りの隊員達もやがて病魔に侵されることになるだろう。この街で手に入れた食料もどれが汚染されているのか判らない以上、全て捨てていかねばならないだろう。
死んだ男をまだ悪臭のする畑の中に埋葬し、彼の銃を形ばかりの墓碑として立てると、残った我々八人は次の街へと向かうことになった。
胃がきりきりと痛んだ。その一瞬、この私まで病気にかかったのかと思い背筋に冷たいものが走ったが、それはいつもの私の持病が出たもので、少しばかりの安堵とともに私は薬瓶を取り上げると、そっと蓋を開けていつもの二倍の量を喉に流し込んだ。
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