第32話
卒業式の日は、小雨の降る寒い日だった。
後輩の顔を式の途中に見つけたが、その目は恐ろしく静かで、張り詰めた様子をしていた。
その中に満たされているものを、私はどうしてやることが出来るのだろう。
そんなことを考えること自体が十分に傲慢なのだと分かっていたが、考えずにはいられなかった。それはまた違う角度からの傲慢になるのだろうと、分かっていた。
級友はやはり卒業式には来なかった。携帯にそっけない「卒業おめでとう」の言葉が入っていた。笑いながら同じ文章を打ち返し、お互いに言い合う言葉に、よけいに可笑しくなった。
卒業証書をもらい、今年は蕾がほの明るいだけの桜の下、後輩と写真を撮った。
母は後輩に挨拶をし、目元の皺を深めながら言った。
「もっとうちにも遊びにきてね」
母に後輩は嬉しそうに返事をし、またあとでと別れた。
母と校門を後にしながら、同じ制服の肩が並んで流れていくのを眺めた。おっとりとした通学路に、久しぶりの顔ぶれが溢れ、そして散り散りになった後は、ほとんどの顔とは二度と出会わない。
母は、どこか満たされた顔をしていた。その表情に似合った声で、今晩の夕飯のことを話していた。
大学の入学準備に使う以外の時間をどうするのか。後輩から聞かれたことを思い出しながら、私は母の少し後ろを歩いた。
後輩は、土日には会いたいと言った。毎回かと問う私に、ふくれた頬を隠さずに「当然です」と言った。
私は彼女と付き合うことについて、応とも否とも言っていなかった。
それでも彼女のなかでは、私の時間を引き寄せる権利を持っていると確信があることが伝わった。私がそれを訂正することも、拒否することもしないことも、分かっているのだ彼女は。
私は、後輩に引き寄せられる時間が嫌いではなかった。
少しばかり強く引き寄せる彼女の力加減が、どこか甘く感じるくらいに。
「可愛らしい子だったわね」
母が私のほうへ顔を逸らせた。
それが後輩のことだと理解して、私は母に歩調を合わせて横へ並んだ。
「そうね。可愛らしい子だと思う」
「まるで妹みたいだったわ」
「お母さんは兄弟いないんだよね」
「そう。だからあなたには、兄弟がいたらよかったと思ったけど、無理だったわ」
ごめんなさい、と言う母に、私は苦笑した。この話は何度も聞いていた。母と父の間の子供に対する考えの違いが、近付くことなく、母の体は子供を生む意志を失った。私はそのことに、特別何かを思ったことはなかったが、今となっては、兄弟というものがあれば、私はもっと気持ちを軽く、後輩と住むという選択を受け入れることができたのかもしれない。
私以外に、両親のそばに居てくれる存在が居たなら。
それは、言うことに意味が生まれない話だった。
もしも兄弟が居たとしたら、私は今の私ではなかっただろう。それは、あなたとの関係の変質にも繋がることだ。
あなたとの関係が変わってしまうくらいなら、私は両親からたった一人の子供を奪う方を選ぶ。
だから私は最後まで家で過ごすことを選んだのだ。さも孝行はしたのだから、と言い渡すために。
「おかげで、あの子がとてもかわいいよ」
母は、私の顔を見て、「そうね」と笑った。
十年前に戻ったとき、母の顔の変化はわからなかった。けれどそれは、私が興味を持って見ていなかっただけだということを、今思い知る。
あなたが死んで、三年近くが経った。たった三年だ。けれど、母の顔は確かに年を重ねていた。私が見てこなかった変化を、二度目の今日、私は自覚した。
ゆらゆらと揺れる母の腕は、黒いワンピーススーツに包まれ、何故か頼りなささえ感じた。
母はこの服を、私の喪服としても着たのだろうか。
閉じた私の瞳では、確認も出来なかっただろうけれど。
大学の一回生としては、私は落ち着いて見えたことだろう。
一度目の大学生活は、私は取れるだけの講義を取っていた。サークルに参加するでもなく、ただ勉強が時間を潰してくれるからという理由で。
何人かの物好きな男性から食事に誘われることもあったが、顔も名前も覚えることが出来なかった。相手の方も、私に何を期待していたのか分からないが、求めていた姿と乖離していたのだろう、すぐに音沙汰はなくなった。
私は一人で居ることがまったく苦ではなかった。誰かと組んで取り組まなくてはならない課題も、やる気のなさそうな人と組むことで、その人の分の時間も消費させてもらった。
そうやって色を感じない学生生活を最後までおくったのだ。
けれど、二度目の大学の内側は、どこかセピアの色を灯していた。勉強はほどほどに、私はバイトに励むようになった。ちょうど駅のなかの書店でバイトの募集があったのだ。バイトに入れば、社割で本が買えると聞き、すぐに面接を申し込んだ。
直接面接を申し込んでくる人間が珍しかったそうだ。その印象がよく働いたのか、面接の終わりに店長から
「明日から来られる?」
と聞かれた。私は「はい」と返事をし、次の日から書店でバイトをすることになった。
その話を後輩に伝えると、土日に会えない日が出来ることを嘆かれた。けれど、後輩も使う駅だったことで、学校帰りに顔を見に行くことを宣言された。それで帳尻をあわせようという彼女の言い様に、私は笑った。
接客業じたいは、一度目の高校の終わりに経験していた。けれど、書店という場所での接客はまた違う雰囲気を持っていた。
店内は静かな音楽が流れ、乾いた紙の音がその隙間を埋めていく。
人間は、所属している場所によってまとうにおいが違ってくることを、このバイトで私は知った。
私が働く時間は、夕方からになるので、学生や仕事帰りのサラリーマンの姿が多くあった。
後輩がやってくる時間は、学生が増える時間帯よりも早い。最近は、図書室に寄ることなく帰って居るようだった。
後輩は笑顔で自動ドアを潜ると、よくきく鼻があるようで、私が店内のどこで整理をしていても、すぐに見つけて寄ってきた。新刊の本棚を素通りする後輩を見るのにも、すぐに慣れた。
「働いてますね」
「働いてますよ」
決まって交わす言葉を、今日もくり返す。
後輩は静かな音楽を壊さないように、小さな声で話しかけながら本棚を直す私の隣に付いてきた。
「今日は何時までなんですか」
一冊の文庫本を取り出し、ひとつ下の棚へ差し戻す。濃いピンクの背表紙を撫でて、私は次の間違い探しをはじめる。
「いつもと同じ。九時には家に居ると思うけど」
「じゃあ、その頃に電話していいですか」
「いいよ」
私の言葉を聞いて後輩は、後ろで組んでいた手をぱっと解いて背筋を伸ばした。
さっき私が差し戻した文庫本を取り出すと、小さく手を振り、さっとレジへ向かって行った。
彼女も、ここの常連のひとりに、すでにカウントされていた。けれど最近はその頻度が上がったようだと、他のスタッフが話していた。私のことも何人かは顔を覚えていたらしく、最初の挨拶の時に話をされた。その中の一人には、私はきっとここで働くと思っていたらしく、「遅かったじゃない」と言われて面食らった。
本屋のスタッフだからといって、みんなが本を読むわけではないということも、入ってから知った。中には、本屋で働きたいけど、本はそれほど詳しくはなかったのだというスタッフも居て驚いた。
そのことを、夜の習慣になりつつある後輩との電話で話すと、
「本屋で働いてるって、なんだかかっこよく聞こえるんでしょうね」
といっしょになって驚いていた。
閉店時間の十五分前になり、決まった音楽が店内に流れはじめる。
レジが少し混み合い、すぐにもとの静けさが戻ってくる。
スリップを分けたり、ブックカバーを折ったりしながらのレジ作業を、締め作業へと移していく。
バイトに入って一ヶ月もしないうちに、この作業を任せてもらうようになった。お金を触ることなので緊張があったが、それもくり返す内になれて来た。後ろで他のスタッフが見守ってくれていたのも、最初の二、三回だった。
「お疲れ様です」
言い合いながら、数人のスタッフで店の外へとでる。社員の人が鍵を掛け、バイトはそれぞれに家路へと歩き始めた。
私はホームの方へ歩き、次に来る列車を確認しようと電光板を見上げていた。
その時、同じように止まった肩を見て、私はその顔を確認した。同じ本屋のバイトの男の子だった。彼は短めの黒髪に、黒縁の眼鏡を掛けていた。精悍な顔立ちというのか、目尻が上がり気味なことと、その鼻筋の細く通ったかたちが気難しそうな雰囲気を相手に抱かせる。けして感じが悪い人ではなかったが、少し距離を感じさせる相手だった。
「電車だったんですね」
話しかけると、こちらを見て、すぐにすっと顔を逸らせた。
「自転車、弟に取られてて」
どちらともなく歩き出す。私は定期をかざし、彼はたまに使うからか、交通ICカードをかざした。小さな電子音とともに跳ね橋のようなレバーが開いた。
どこまでいっしょなのかと少し気持ちがおもくなりかけたが、私とは反対のホームだったようで、かすかな声で「じゃあ」と声を掛けられた。
「お疲れ様です」
同じくらいの声を返し、電車が来る前にとホームへの階段を上った。
電車を下りたところで、携帯を確認すると、すでに三件の着信が入っていた。時刻は九時を回っていた。しまったと思いながら、駅を早足ででると一番上の着信へかけ直した。
コールは二回なり、その向こうにとてもゆっくりな静寂が横たわった。
「もしもし」
先に声をけると、少し渋る気配が漏れ、そして小さな声で「もしもし」と後輩の声が返ってきた。子供が昼寝をしすぎた時のような、少しかすれた声は、しかし次の一声からよく聞いている後輩の声に変わる。
「遅くないですか」
「今、まだ駅をでたところなの」
「え。危ないですよ」
「まだ人通り多いわよ」
「だからですよ。こんな時間の人通りは酔っ払いが大半です」
「そうかもしれないけど、今のところ危ない空気はないかな」
「先輩、警戒心薄そう」
「失礼だな」
「すみません」
でも、と後輩の声は続く。隠るような、熱を持つような声だった。
「先輩のことを心配してるんだってことは覚えていてください」
「分かってるよ」
そう返しながら、私はいったい何を分かっているのだろうかと、底が抜けるような感覚に落ちた。
「ありがとう」
歩きながら、見上げた夜空には今日は雲もない。ネオンの光が精一杯の抵抗に煌めくけれど、いっこうにあの遙かな光には叶わないことが悲しかった。
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