第31話

「先輩、私が卒業したらいっしょに暮らしませんか」

 後輩がそう言ったのは、卒業式が数日後に迫った放課後だった。

 影は、少し薄くなっただろうか。

 首筋を通り過ぎていく風は強く、まだ春を感じられる日は少なかった。

「どうしたの、急に」

「急じゃありません。私ずっと考えてました」

 後輩は胸の前で力強く握り拳をつくって私を見ていた。軽い鞄を揺らしながら、手袋からは解放された白い手を見つめた。

 彼女から付き合って欲しいといわれて暫く経つが、何かを要求されたことは未だになかった。

 ただ変わらない帰り道が続いている。

「私が通う大学は家から通えるところを選んでるし、君はそもそもどこを受験するのか聞いてないんだけど」

「私も先輩が行く大学の近くの大学を受けます」

「それは何かやりたいことがあって通う大学なの?」

「いえ、先輩と近くに居たいだけです」

「今みたいなのじゃいけないの」

 私の言葉に、後輩は足を止めて顔を上げた。数歩、歩いた私は彼女を振り返り、その表情を受け止めた。

 夕暮れは重たいマントを垂れた下げたようで、強い色を私たちの上に落とし込んでいた。外側に触れたその暗がりの成分が、浸透して内側を染めていく気がした。

「今は、続きませんよ」

「分かってる」

「分かってません」

 後輩の目は燃えるような色を抱えている。それがどうにかして私にも移るように願っている。

 それを抱えたなら私は、すぐにでも燃え上がるだろうか。それとも燻って醜い煙をあげるのだろうか。

 あたりはゆっくりと暗い方へ落とし込まれていく。目の中の世界を私も更新しながら、後輩のほうへと道を戻った。

 細い腕をとる。

 後輩は、黙ってその様子を見ていた。口を開かないまま、私が引っ張るのに従って歩き始める。

 冷たくて子供のように頼りない。手首に刻まれている彼女の時間は、あまりに明るくて、私の方へ本当はあまり寄りついて欲しくはないと思う。


 それで、と促されたとき、私は何を聞かれたのかが分からなかった。

 目の前の級友の目が笑っていないのを見つめて、その言葉をもう一度噛み締めてみる。それでも頭に答えが浮かばなかった私は、困ったように彼女を見返した。

「後輩ちゃんのこと、どうするのよって話」

 業を煮やした級友の言葉に、私は「ああ」と気の抜けた返事を返した。

 彼女は卒業式を待たず、日本各地への旅を決行に移すという。それが明日だと私は聞いたばかりだった。そこへたった三文字を告げただけで答えを導けという。それはあまりに難題なのではないかと思った。

「どうするも、こうするも」

 私は級友から目を離して外を見やった。

 窓のそばに揺れる葉の色が、くすんでいる。そのそばにそっと添えられている蕾が、今はまだ瘤のように木の皮と変わらない色をしていた。

 未だに教室で過ごす私を、先生方は高校生活の名残りを惜しんでいるのだと解釈してくれていた。もう最近は、自然と私の姿を受け入れてくれていた。

 私と級友しかいない教室で、私は唐突に窓を開けた。級友の顔が少し動き、寒さを身構えた。冷たい空気といっしょに、校庭で動き回る下級生たちの笑い声が放り投げられたボールのように届いた。

「あの子が、いっしょに住みたいって言ってきたよ」

 風が強く吹き込んだ。スカートの裾が揺れる。はたはたという音をたてて、通り過ぎては、教室を出て行った。

 私以外、学校に出てきている三年生は希だ。開け放った教室の扉が、閉められることはない。静けさだけが行き交い、時々下の教室からの声が走り去っていく。

 色が褪せたまま、変わることがない場所だった。

「なんて答えたの」

「あの子が卒業しても、その考えが変わらなかったら、って」

「それは、実質承諾の返事じゃないの」

 私は不思議な気持ちで級友を見た。彼女が、今までどんな考えで生きてきたのかを、私は知らない。けれど、そんなにも人の心は不変を信じられるものだろうか。

 彼女が座っている席が、誰のものだったのか私は覚えていなかった。だから私の後ろの席も、いったいどんな生徒が使っていたのか、朧気な影の一つとしてしか浮かんでこない。

 冷たい椅子の背を、撫でながら私はまた窓の外を見た。

「一年、私がいない学校生活を送れば、気持ちも変わる可能性はあるよ」

「あったとしても、その可能性をあの後輩ちゃんは摘み取って、君を選ぶと思う」

 級友は笑った。

「絆が脆いことは、こんな女子高生にも分かっているよ。でも、若いことが決断の弱さの理由に全て繋がるわけでもない。あの子のこと、見くびりすぎてない?」

「むしろ、恐れているくらいだと思うけど」

「それなら、」

 級友が立ち上がり、私の前に立った。

 外からの光を遮り、彼女と世界の境界線が僅かにぼんやりと緩む。スカートが揺れた。彼女が夏服を卒業式に着たいと言っていたことを思い出した。こんな気温の中でも、まだ彼女は夏服を着ることを選ぶのだろうか。

 彼女は腰に拳をあてて、足を少し開いて、大きく立った。

「それは後輩ちゃんを恐れてるんじゃなくて、彼女に触れて変わる可能性を受け入れはじめていることを、自分自身を怖がってるんじゃない?」

 級友の目は、真っ直ぐだ。直線を引くことができる目だ。その目を受け止めると、彼女のなかの真っ直ぐさがそのまま入り込んでくる。私はそれを自分の背骨がそっと正されているように感じる。いつも平たい大きな彼女の手が指先まで伸ばされて、私の前のめりになる背中をただす。それが、彼女の言葉の正しさや、厳しさとは反してやさしいので、私は戸惑って見つめ返してしまう。

「そうかも、しれないね」

「後輩ちゃんへの一年であると同時に、君にとっての一年でもあるんじゃない?」

 私はもうすぐ旅立つ級友を見上げた。彼女は、自分の決めた行く先へ走り出す。いや、もうずっと走ってきたのだろう。その肌はいつも太陽のような光を込められていた。

 明るい人なのだ。

 彼女の旅立ちが、今やっと寂しいと感じた。

「また、話を聞いてくれる?」

 私の声は、思った以上に小さかった。その声を彼女は掬い上げ、両手でそっと彼女の耳元まで引き上げてくてた。歯がこぼれる笑い方で、彼女は言った。

「そのつもりだったよ」

 二人で笑いを小さく洩らしながら、私は自分の中に渦巻いているものを見つめた。私のための一年。私にはまだ、迷う気持ちが残っている。それを廃すための一年にするべきだ。そう頭では分かっているのに、この級友と話していると、どうしてもそうではない一年を選べるのではないかと、考えてしまう。


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