第30話

 大学は、無事に合格することができた。

 あなたのおばさんも、後輩も、お祝いをしようと言い出したが、私が強く断るとすんなりと諦めてくれた。

 三学期は、受験が終わってしまった生徒にとっては余暇のようなっものだった。

 本当は登校しなくてもいいのだけれど、図書室にいくついでだと思って、毎日制服を着た。

 級友は、来なくてもいいと言われてすぐ、バイト三昧を宣言していた。それが実行に移されているのだろう、三学期になって暫くしても、なかなか彼女に会うことはなかった。

 級友を見かけたのは、帰りに寄った書店でだった。駅の中にある、なかなか大きな書店は、買う本が無いときでも足が向く場所になっていた。

 27歳で死ぬことを決めている私は、家を出ようとは思っていなかった。死んだあとの片付けが楽だろうと思ったのと、それまでしか居られないのだから、出来る限り家族をやっておこうと思ったのだ。

 だから働き始めるまで、お金を貯めようと思ったことはなかった。働き始めてからは、両親に少しでも何か助けになるようにと、お金を貯めていたが、何か目的をもってお金を貯めたことは、卒業旅行資金のためくらいだ。それも今回は行く予定がないために貯めていない。

 穏やかな日々の流れ方に寄り添っているのは、本だった。

 自動ドアを入ってすぐ、新刊を平積みにしているコーナーを眺め、そのまま文庫の棚へと進んだ。色とりどりの背表紙を眺め、頭上から落ちてくるクラシックを肩に受けながら、目が撫でるに任せて歩いてまわった。

 そして見つけたのだ、見知った彼女の首の線を。

 彼女のほうでも、私の視線に気付いてこちらへ顔をむけた。あ、と口が開き、そのまま嬉しそうに口角をいっぱいに上げて笑った。

「ひさしぶり」

「ひさしぶり、元気そうだね」

「うん、体力がすごくついた」

 拳を握り、力こぶを作って見せながら言った。

「何を見てたの」

 彼女が力こぶを作りながら、持ったままの本を指さして聞いた。

「旅の準備に来てたんだけど、結局好きな小説を探しにきてた」

「君も、本当に本が好きだね」

 彼女は目を細めて、肯定とまではいかない首の動きで私を見つめた。手の中に持っているもののほかに、そばに数冊の本がすでに確保されていた。旅行雑誌と見慣れない大きさのハードカバーの本が二冊。暗い赤色に金文字でタイトルと作者名が書かれていた。

「その本買うの?」

「うん。最初に行く場所に、この作家さんの生家があるの。今の観光地も見るつもりなんだけど、作家が生きていて時間と、ここまでが繋がる場所が見てみたいの」

「いいね」

「最高の旅になる」

 級友は確信をもってそう言いきった。彼女の、口を惜しみなく開けて笑う笑い方が好きだ。こんな風に笑っていた自分を知っている。それは恐ろしく奥まった場所にまで行かないと、もう会えない。今その笑顔が生きているのかどうかも、もう分からなかった。一度歩いた十年が、私を惑わせるのかもしれない。

「そっちは何か買うの?」

「ちょっと寄っただけだけど、面白そうなものがあれば買いたい。おすすめある?」

 彼女の目がすんと一度静かに引く。それは波が引く様子に似ていて、大きく引けば、その分必ず戻ってくる。彼女は好奇心を惜しまないし、隠さなかった。

「あの子に聞いてあげた方がいいんじゃない?」

「後輩?」

「そう」

 級友がすぐ側の文庫本を一冊手に取り、他も本も抱えなおしながらレジへと向かう。それに付いて行きながら、彼女の肩越しに問いかけた。

「後輩以外から本をすすめてもらうのって、嫌がるかな」

「嫌がるでしょ。私が最初に二人の待ち合わせ場所に付いていったときの顔覚えてないの?」

「でも、もういっしょに放課後を過ごす仲にはなっているじゃない」

 彼女がレジのスタッフへ本を渡してから、私を振り返った。その目は驚きに少し見開かれ、私への評価を更新している様子がよく伝わった。

「なんだか、私に失礼なことを考えていたね」

「それは分かるんだね」

 お金を払って、紙袋を受け取りながら級友は笑った。

 本屋を出てから、彼女がすぐ側の喫茶店を指す。その目はもういつもの好奇心の塊の彼女の目だった。

「お茶一杯奢ってくれる?」

「旅立ちの前祝いにね」

「やった」

 白い息を吐きながら、級友のあとを追いかけて店の中へ入った。店内は流行の歌を、オルゴール調にしたものが小さく流れている。落ち着いた焦げ茶のタイルの色と、計算されて置かれた観葉植物のくっきりとした緑が印象を飾っていた。

 エプロンをした店員に案内されたのは、小さめのテーブルに向かい合って座るようになったかたちの席だった。窓からは離れ、衝立が視界を遮っていた。

 後輩と会った喫茶店を思い出す。彼女の流したきれいな涙も。

 注文をお互いに済ませて、級友はもったいぶって私の目を覗き込んだ。その口元には含むものがある。テーブルの上に、わざわざ場所をとる紙袋を置いた。その上でとんとんと指を打ち付けて、彼女は腕組みをした。さあ、はなしてみなさいと言わんばかりだ。

 私は水で唇を湿らせてから、その目に相対した。

「君には、あの子と私の関係がどう見えるの」

「その質問はどうなんだろう。後輩ちゃんが君に貫いてる姿勢は、一貫しているけれど、君のあの子への気持ちの受け取り方は、変化しているように見える」

「どんなふうに」

 級友は組んだ腕を外し、私の前に指を一本、とんと降らせた。テーブルの上の小さな爪を見つめ、彼女の目に戻す。

「それはちょっと、ずるいんじゃない?」

「私が?」

「自覚ないの?」

「ない」

 言い切りながら、私は丸いテーブルの線を目でなぞった。

 自分がずるいことなど、よく分かっていた。私が十年しか生きる気がないことが、もうすでにずるいことなのだ。

「君って、本当に嘘つきだねぇ」

 級友の声が耳たぶにそっと触れて、奥には入らずに消えていった。

 二人が注文したものが届き、それぞれの前に置かれたものに集中する。

 級友はこんな凍える日にメロンフロートをおいしそうにスプーンで掬っていた。

「口の中が寒くならないの」

「ソフトな南極体験だよ」

 私は明るい茶色の湖面を見下ろす。香り立ってくる桃の香りがやさしい。

「私はね、後輩ちゃんは、君のことが一番好きなことはよく分かってる。だから彼女は私が君に話しかけることを許してるんだよ」

「分かってるから、いいっていうこと?」

「私は君にとっての友達になりたい。それをあの子が理解してくれてるからね」

「じゃあ、本を勧めてもらうこともいいんじゃないの」

「違う」

 もう白いアイスはあらかた彼女の中に収まり、泡が次から次へ湧いてくる緑の液体にその色は滲み落ちていく。スプーンをくわえて、彼女はもう一度私の前に指を一本下ろした。

「私が外側に立ち寄ることはかまわないの。でも内側に残ることは嫌がるよ」

「今までも何冊か貸してくれたじゃない」

「そうだね。でもその時は後輩ちゃんもいっしょに意見を出してたの覚えてる?」

 たしかにそうだった。図書室で、帰り道の本屋で、または後輩の家で、私たちは本の話をくり返してきたけれど、級友が本を勧めてくれるのは後輩がいる前でだけだった。

「そんなこと、いつから意識してたの」

「最初から?でもそうしようと自分で決めたのは何回か後輩ちゃんと会ってからだよ」

「あの子のことも気に入ってるんだね」

 級友は差したストローをがぶりと噛んだ。勢いをつけて飲み込まれていく透明の緑色に、露わになった氷が角を丸くして音をたてた。

「そうだね。だから、二人のことを考えてる」

 紙袋の角を指先で折りながら、級友は私の目を見ないでそう言った。


 後輩の口にした言葉を、私は何度も頭に浮かべては掻き消えるのを待つことをくり返していた。

 あの子のなかに、私がしっかりと息づいてしまっていることを後悔した。

 その後悔があまりにも自分勝手なものだと分かっているので、余計に内側の暗雲は厚みを増した。もう嵐はひとつでは済まないほど、発生しては私を取り囲んでいる。

 冬がゆっくりと進み、昼の気温が穏やかな湖面に漕ぎ出すような上昇をはじめた頃。私の登校の頻度はあまりにも多く、それを先生たちは不思議そうにしていた。

 放課後、私は図書室のいつもの席に座りながら、本を開いていた。雲が少ないおかげで、日中はすこし暖かさを感じる窓際だが、放課後にはまだまだ冷たさのほうを強く感じる。暖房が弱く入っているけれど、足首を掴む冷たい手を、意識の外へ追いやることは難しかった。後輩が来るまでの静かな時間を、ここで過ごすのもあと僅かだ。

 ふと、目線を感じて顔を上げると、カウンターの中に珍しい人を見つけた。私が気付いたことで、今度は手が振られる。その手が招く様子に変わった。ちょっとこっちに来い、ということなのだろう。素直に椅子から立ち上がると、その人物の方へと向かった。

 今日はまだ私をいれて二人しか生徒はいない。

 できるだけ静かに歩き、私はカウンターに肘をついて覗き込んだ。

「先生、何かご用ですか?」

「いや、用事はない。最近どうだ、的な会話をしようと思っただけだ」

 黒髪が微妙な長さでうねっている。以外に切れ長できれいな形をしているけれど、眼光が鋭いためにあまり目を見て話をしてもらえない。彼はそういうことまでを、ひょうひょうと生徒に話してしまう教師だった。こうして放課後、居場所をつくることが不得手な生徒のために図書室が開放されているのは、彼がここの責任を持つと言ってくれているからだ。それにしては図書室に顔を出すことが希な教師なのだから、不思議だ。

「的、とか言わないほうが先生らしいんじゃないですか」

「先生もらしさから解放されたい」

「それを一般論のように言わないでください」

「元気そうだな」

「そうですね。元気です」

 この教師は、私がこの時期になっても毎日のように登校していることを変に気遣わない。声は掛けるが、頻繁ではないし、何か相談はないかとは言わなかった。ただ元気かどうかを確認して終わる。今日もこれで会話が終わるのかと思っていたが、先生は少し私と話がしたいと言った。

「ここじゃ出来ない話ですか」

「あんまりな」

「私、後輩を待ってるんです」

「知ってる。その後輩がくるまでに終わらせる」

「分かりました」

 教師は立ち上がって、隣の準備室へのドアを開けた。先生に続いて入ると、中は狭いだけで図書室と大して変わりない様子だった。棚が壁一面にあり、本がびっしりと入っている。ひとつ職員室にあるのと同じタイプのデスクが置かれているとくらいしか違いが無い。

 先生はデスクとセットの背もたれのついた椅子に腰をおろし、私には側に立てかけられていたパイプ椅子を勧めた。近すぎない距離で、お互いが向かい合う。こうして放課後に教師と向かい合うなんてことは、いったいどれくらいぶりのことだろう。懐かしいとは思えなかった。どこか寒々しいような現実感のなさが、胸の中を通り過ぎていった。

「いったいどんなお話ですか」

「せっかちだな」

「途中でお話が終わったら、気になって眠りが浅くなるかもしれませんから」

「それは、後輩が来たら問答無用で帰るっていう宣言だな」

「まだまだ外が暗くなるのは早いですから」

 教師があっさりとした溜息を吐いた。少しばかり背筋を伸ばしてこちらを見る。それを受けて、私もお腹に少し力を込めた。

「話は、その後輩のことだ」

「はあ」

「あいつの一番仲のいい人間はお前だろう?」

「たぶん、そうです」

「あいつがクラスでどういう過ごし方をしてるか知ってるか」

「いいえ」

 後輩と会うのは放課後に限られていた。どちらかが言い出したものでもなかったが、お互いのクラスへ出向いたりすることはなかった。

 だから後輩のクラスでの様子も、まったく知らなかった。おそらくクラスでのことを聞いたこともなかったかもしれない。

 私の表情に不安の影が差したのを感じ取り、先生が顔の前で手を振りながら続けた。

「いや、べつに浮いてるってわけじゃない。勉強もそこそこ頑張ってるみたいだから、それも心配はしてない」

 それではいったい何が問題だというのか。私の訝しがる顔をみて、教師はふっと息で笑った。

「心配ってほどのことじゃあないんだ。ただ、毎日のようにこうして会ってる人間がいなくなるってことは、学校の内側に残る人間には、異常に孤独に感じられたりするものだからな。卒業して忙しくなるのは分かってるんだが、後輩のことを少し気をつけてやってくれないか」

 彼の言葉に、私は曖昧に頷いて笑った。

 立ち上がって準備室を出た私に、合わせたかのように後輩が前のドアから図書室へと入ってきた。

 外はもう少しずつ色の暗を滲ませはじめていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る