第33話

 児童書の一帯を整えていると、学生の塊が店の前を通っていくのが見えた。

 その大きな流れからいくつか千切れ、数人の学生が店に入ってきた。外の空気がその肩に押しやられいっしょに入り、中に留まっていた空気が掻き混ぜられていく。

 今日も、その中に後輩の姿はあった。私の居場所を、彼女はいつも不思議なくらいよく当てる。発信器でも飲み込まされているのではないかと疑うくらい、彼女はどこにいても真っ直ぐに私のもとへとやってきた。

 今日も絵本を棚に戻し終わったところで、彼女は私の横へとやってきた。その様子は、まるで元からそこに育っていた植物のように静かで、私の方が異物のような気がするから不思議だった。

「今日は何時から入ってるんですか」

「昼過ぎからかな。明日はレポートを頑張るつもりでバイトを入れてないから。その分長めにしてもらったの」

 その答えに「ふうん」と息を吐きながら、後輩は私の仕事用のエプロンの端を握って揺らした。

 目をちらちらとしか合わせないのは、彼女が私から言わせたい言葉があるからだ。

 明日からはテスト期間で、早く帰れるのだと昨日聞いたところだった。私のバイトがない日を、確認したいのだろう。時間があるのなら、彼女との時間を捻出してほしいと、きれいな丸い目が言っていた。

 私は分かっていながら遠回しに言葉を投げる。

「テスト、頑張れる?」

「もちろんです」

 大きく頷いた後輩を、私は可愛いと思った。その細い指先が縋る布に、彼女を満足させる効果があればいいのにと思う。

 私はそっと、後輩の艶やかな髪を指の背で撫でた。

 後輩が、信じられないという顔をして私を見た。

「じゃあ、テストが終わったら、遊びに行く」

「ほんとですね。約束ですよ」

 後輩の頬に色が乗る。それは血の香りそうな、柔らかな色だ。

「先輩は、卒業してからの方がやさしいですね」

 そっとエプロンから、指先が離れた。その残像を見ているうちに、彼女は背を向けてもう歩き出していた。

 つい数ヶ月前には、自分も袖を通していた制服が、どこか不確かな過去のように感じていた。

 後輩の言うやさしさを、私は胸の中で探してみたが、それが意味するものは、どこにも見当たらなかった。そのことが、何故か胸の内側をちくりと刺す。いったい私の何が変わったというのだろう。

 明るい店内で、レジの応援のベルが鳴った。


 あなたのことを考える時間が少なくなっていることを、私は自覚していた。

 朝、あなたのいないことを確認することすら、怠ることが増えた。

 あなたが居ない時間を過ごしている苦痛も、和らいでしまっている。

 それを成長と呼ぶのか、怠惰とするのか、それとも当然の流れと内訳とするのか。それを決めるのは私自身であることも、分かっていた。

 後輩の家に遊びに行くのは久しぶりだった。

 呼び鈴を押すこともなく、ドアに手をかけ家の中へと入った。相変わらず本が至る所に置かれていて、紙とインクの匂いに包み込まれる。仕事場の匂いと似ていると感じないのは、本の匂いに、後輩の家の人たちの生活が加えられているからだろう。

 光量の少ない、歩き慣れた廊下を進んで、台所を覗いた。

「お邪魔します」

 声をかけた相手の背中を見て、それほど会わなかったわけでもないのに、懐かしい気持ちが湧いた。

「いらっしゃい」

 後輩の母親が包丁を片手に振り返った。まな板の上では人参のオレンジ色が滲んでいる。

 手を拭きながらこちらに歩み寄った後輩の母親は、私の手からお土産の袋を受け取って苦笑いを浮かべた。

 ここに泊まりに来る度に、お土産を持ってきていたら、そのうち彼女に怒られたことを思い出す。こういうものは、頻度を考えないといけないのだと。そうしなければ、お互いがしんどくなってしまう。そう淡々と言い含められたあと、「でも今回もおいしそうなお土産をありがとう」と笑ってくれた。

「お久しぶりです」

「あなたの話題は、毎日のぼっているけどね」

 中のお菓子を出しながら、私と彼女と後輩の分を選んで、冷蔵庫へとしまう。

「あの子は部屋を掃除中よ。行って、ほどほどにしなさいって言っといて。今日だけじゃなくて、最近よくごとごと鳴らしてるのよ」

「分かりました」

 後輩の母親はそう言うと、またまな板で待っている人参の前へと戻っていった。

 リズミカルな音を背中に、私は二階へと上がった。階段の途中にある、後輩の選出した本の並びを眺めながら、最近は昔読んでいたものを再読しているらしいことを知った。その中には、私と後輩が話をするきっかけになった本の背表紙もあった。

 高校を出てからの数ヶ月が、思った以上に分厚く、あの日々がすでに過去となって、遠ざかっていることに気付いた。本の背表紙を指の腹で撫でる。本を通して、過ぎ去ったひと時に触れようとしている気がした。

 後輩の部屋のドアをノックする。軽く二回鳴らしたそれに、素早くドアが開かれた。

「遅かったですね」

 後輩は明るいブルーのワンピースを着ていた。今まで見たことがないものだから、きっと最近買ったのだろう。彼女は服をたくさん持ってるわけではないが、持っているものをきちんと把握して、的確な服を買うことが出来る。そして何より自分のなりたい姿をよく分かっていた。今着ているワンピースも、いつものようにとてもよく似合っている。

「部屋を片付けてるんだって?」

「はい。いらないものを分けておいたほうが、引っ越しの時、すぐ準備ができるじゃないですか」

 彼女について中に入ると、確かに部屋の中の様子は大分変わっていた。部屋の中をぐるりと囲む本棚は変わらないが、そこにいっしょに置かれていた小物類がきれいになくなっている。カーテンやベッドの寝具類の色味で、なんとか保っている部屋の雰囲気は、しかし前に訪ねてきた時とは全く違っていた。まるで中身を失ったようだ。

「あの飾りたちはどうしたの?」

 クッションに座る私の前に、後輩もクッションを引き寄せて座った。床に広がる青を手で整えて、後輩は裾野を抱き寄せる。

「捨てたり、あげたり、しまったりです」

「捨てたの?」

「も、あります。もう子供っぽいものもありましたから」

 膝を抱く腕に顎を埋めて、彼女は私を見た。その目に、小さな光が瞬いている。光の深度に私は耐えきれず、目を逸らした。

「まだ引っ越すって決まったわけじゃないんだから、ほどほどにしとかないと。捨てなくて良かったものもあるんじゃない」

「いいんです」

 後輩は私の腕をとった。

 それは迷いのない動きだった。迷うことに捕まっている私には、全く対応できなかった。冷房が弱くかけられている部屋の中で、彼女の手は温かかった。まるで素直な子供のようだ。

「なに?」

「私、先輩のそばにいたいってこと以外は、捨ててしまってもいいんです」

 にっこりと笑ったその口元は、やわらかに色づいている。

 初夏に足を踏み入れ、あたりは一斉に色を濃くしている。そのなかでやわらかなその色を塗り続ける彼女の精神は、うすぼんやりと埋もれるどころか、いっそ浮き上がり、私を一直線に見ていた。

「先輩のことが好きなので」

 後輩の小さな口の端が、持ち上がって私に線を投げる。彼女という人間の続きを、私に与えたい。その健気なほどの気持ちを、私は目を閉じて避けた。

「ありがとう。でも、先のことなんて、数日先のことでも分からないものだから」

 手を引いてみるが、後輩が掴んだまま離さない。私の指先は空を掻いてどこかみっともなかった。

 日焼けに気をつかうこともない私の、中途半端に黒くなった腕に、後輩の手は白い。あまりのくっきりとした色の違いに、眩暈がするのだ。

 同じ学校に通っているという括りの中では感じなかったことが、ここにこうして現れる。

 彼女の生物としての価値は、これからも磨かれて、今よりも上がっていくのだろう。私の手を取ってもなお、その事実は変わらないかもしれない。その想像が概ね間違いにはならないだろうと分かるくらいには、私は彼女と時間を重ねてきた。

 だからこそ、鮮やかな人柄は、私を想っている場合ではないのだ。

「先輩は、いつもそうですね」

 後輩は、声の様子ほど気持ちを落としていないことが、手の強さから伝わる。指先の揺るぎなさが、私を締め付けていた。

「それじゃあ、とりあえずお茶でも飲みましょう。私、先輩にお勧めの本があるんです」

 言いながら、あっさりと手を離した彼女は、すっと裾野を解いて立ち上がった。

「用意をしてくる間に読んでいていいですよ」

 差し出されたその表紙を、私は見たことがあった。それは私と彼女の縁を結んだ作家の新しい本だった。

「ありがとう」

 受け取ったその分厚さが、彼女の願う時間だ。できるならそれをいつまでも引き延ばしていたいと思ってくれているのだろう。

 深い緑の縁取りと、銀色に浮き上がるタイトル。書店で見たときも美しい本だと思ったけれど、こうしてしっかりと手にとると、その表紙から物語が漏れだしてくるようだった。

 ドアが閉まる音に背中を押されて、そのページを捲った。少しだけ薄いと感じるインクの黒が、物語の儚さを予見しているようで、最初の一文へと気持ちが急いた。

 短い一文からはじまる物語。

 私は後輩が戻っても、しばらくはそのまま、本を読み続けていた。


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