第17話

 あなたのおばさんが会わないかと声を掛けてくれたのは、夏休み間近の日曜日だった。

 期末試験が終わり、緊張の緩んだ体を学生の多くがもてあましていた。

 あなたのおばさんは、母と連絡を取り合っていたらしく、母の方から


「今度の日曜日に会いたいそうだけど」


と切り出してきた。

 あの日―あなたが亡くなり、お別れをするために出掛けたはずが、倒れてあなたのおばさんに夕方近くに送ってもらった―以来、あなたのことも、何故倒れたのかも、あなたのおばさんとの関係も聞かれたりはしなかった。


「どうすのか決めたら、早めにお母さんに言ってちょうだい」


 母は夕食を用意しながら言った。

 私の好きにすればいいと、それ以上なにも言わなかった。

 具を詰め込んだスープの香りが、台所からリビングを満たして、まだ足りずに一階の廊下を伝って、家のあちこちへ広がっていく。

 母に、私はどんな顔をしていたのか。鍋を掻き混ぜていた手を止め、私の側へと母は来た。


「寝られてないの?」


「そんなことないよ」


「最近帰りが遅いのは」


「後輩が、本を貸してくれるの。図書館みたいなお家でね。本当に家中に本があるの」


「そう。たまにはその後輩の子に、うちにもきてもらったらいいわ」


「伝えておく」


 母が詰め切らない距離を、そっと離れ、私は階段に足を掛けた。今決めてしまわなければ、断るだろうと思った。それなら、止めたってよかったのかもしれない。けれど私は言った。


「日曜日、私も会いたいって、伝えてくれる?」


 母は一度瞬きを挟み、「わかった」と答えた。




 日曜日、着替えて下に下りた私に、母は


「昼の少し前に向かえにくるから、一緒にご飯を食べましょうって」


と伝えた。私は手櫛で髪を整えながらそれに頷いた。昨日も本を長く読んでいたから、目がしばしばして、視界が少し白く曇る。母が用意してくれた朝食に手をつけながら、私は今更、どうしてあなたのおばさんとまた会うことを承諾したのかを考えていた。


 一度目の私とあなたのおばさんの縁は、あの日にあなたの死体を前に切れた。個人的な連絡先を交換していたわけでもく、あなたという接点を失ってなお、続けていく理由はなかった。


 櫛切りにされたトマトを口に放り込みながら、外を見た。窓硝子に、行儀悪くひとつ膝を抱えた私の姿が映っていた。ぼさぼさの髪の毛と、眠たそうな顔は、よく眠れた顔色ではなかった。


 眠れていないかと聞かれても、私にはどちらなのか正直よく分からなかった。夜、目を閉じて、横にはなっている。浮遊感に眠りに落ちていく感覚もある。けれど、そのまっ暗な場所で、私はいくらでも秒針を数えているのだ。それが夢なのか、現実の時計の音なのか、判然としないまま、ゆるく痺れた体を諦めていた。


 天気は、悪くはない。薄暗い梅雨だったから、口にしない誰もの内側に、燦々とした夏を希求する気持ちが揺らめいていた。


 朝食を終えて、顔を洗った私は、二階へ戻り着替えをはじめた。もう見慣れた十年前の私の洋服たち。着られればいいと思っている私に対して、洋服たちは未だに自分達の本当の主を待っているような気がした。自分が袖を通すべきではなかった。この気持ちは、誰に対して抱いているのか。



あなたのおばさんが迎えに来てくれたのは、前もって伝えられていた通りの時間だった。


 夏は始まったばかりだというのに、コンクリートを焼く熱量は相当のものだった。


 青いワンピースを着たあなたのおばさんが、運転席から下りて、私に手を振った。母が見送りに出てきて、頭を下げた。それに挨拶を返したあなたのおばさんは、やさしく首を傾げて私に笑った。「久しぶりね、もう夏バテしてる?」


「おひさしぶりです」


 母に倣って私も頭を下げた。


「じゃあ、いきましょうか」


 もう一度母へ会釈をしてから、あなたのおばさんは車へと乗り込んだ。私の背中を、母がそっと押す。そのまま一歩を小さく進み、私も助手席へと滑り込んだ。


 光が振り込む。もう大分高い位置の太陽が、もう私がこの場所にきて一年近くが経っていることを伝える。あなたを、失うと分かって過ごした時間を、鮮やかに思い出す。去年の今頃には、私はここに居なかったことと共に。


「もうすっかり夏ね」


「そうですね」


「試験が終わったところだったのね」


「はい」


「いいできだった?」


「まあまあです」


「あのこが、あなたは勉強を頑張っていたっていってたわ」


 あの子。その言葉で、私の中の線を引き過ぎたあなたの輪郭がいきなりくっきりと浮き上がった。あまりに鮮やかで、声が漏れそうになる。唇を噛んだ私に気付かず、あなたのおばさんは話を続ける。


「夏休みだからとよく来てくれていたでしょう。私心配になっちゃって、あの子に、あなたは勉強をする時間はあるのかしらって、聞いたことがあるの」


 やさしい壁紙の色と、控えめに飾られ続けた花。薄緑色の花瓶の感触と、あなたの横顔。光に焼かれ続けたレースのカーテンが、冷房の微風にかすかに揺れていた。


「そしたらあの子は、なんだか嬉しそうに、あなたは自分に会うために勉強はしっかりやっているから大丈夫なんですって。あの子は、それが嬉しかったのね。あなたがたくさん会いに来てくれるってことは、あなたがちゃんと勉強をしているからだって。あなたがちゃんと自分のことを頑張っていることが、あの子には生きていくことの支えになっていたのだと思う」


 あなたに会いに出掛けるようになって、たしかに私は前よりも勉強をよくするようになった。それはあなたが、そうでなければ会えないといったからだし、そうなるのは悲しいから、どうか勉強を頑張ってほしいと少し照れたように言ってくれたからだ。私の成績が上がったことを、両親も喜んでいた。あなたに告げる試験の結果も、あなたが嬉しそうに見ていた私の制服も、もうあまりに遠い場所の出来事だった。


 あなたがまた目の前に現れた日、あまりの鮮明さに目を疑ったが、こうして失って一年近くが経って、振り返ったとき、あなたはやはり十年重ねてきた色をして頬絵でいるのだ。その落差に、唖然とする。そしてやはり私にはあなたを失って正しくはどれくらい経ったのかを、思い知らされた。「あなたに、だからお礼をいわなくてはと、ずっと思っていたの。でも、私の方も、なかなか言葉にしてあの子のことを語れるまで時間がかかってしまった。ありがとうが、こんなに遅くなってしまって、本当にごめんなさいね」


 あなたのおばさんは、前をむいたまま、私にそう言った。落ちてくる光が眩しすぎて、私は顰め面をしていた。あなたの語った私の話は、とても懐かしく、幸せで、光のような生命力を宿して私に残っていた。私の知っているあなたと、そしてあなたが語った私は、十年を超えてやっと出会えたのか。それはとても嬉しいことなのに、それはあなたがいないことが理由の邂逅なのだ。私はどちらにも転がれず、胸をえぐり出したくなる。あなたのおばさんが私の返事を気にしないで居てくれたおかげで、私は混乱をただ夏の始まりの光で焼いていた。


「夏休み、お泊まりに来ませんか」


 後輩が言い出したのは、修了式のすぐ後だった。 本当に怖い物知らずな後輩は、式の終わりを宣言されて、学年ごとに移動する時を狙って私のところまでやってきたのだった。


 彼女を知らないクラスメイトたちは、あまりの大胆さに驚いた顔をして、先生に言うべきかなどと口にする輩までいた。


 私は後輩の背を押し、クラスの列を離れることを近くのクラスメイトへ伝えた。黙って頷いて、小さく手を振った少女に、私は一度拝むような仕草をした。


 その間も面白そうに目をまるまると膨らませていた後輩の背中を私は押して、体育館の外へと出る。


 今日も暑い。すでに汗が首筋を流れていた。庇があるとはいえ、昼に近付くこの時間に、影の中もあまり関係がなかった。すぐ側を他学年の先生が通りすぎる。すこし不審そうに私と後輩を見たが、二人で頭を下げたのをみて、見逃してくれたようだった。


「暑いですね」


「泊まりにって、なに」


「そのままですよ。うちで読書合宿しましょうよ」


 後輩は楽しそうに話しだす。きれいなピンク色の頬が、じんわりと熱を放っていた。黒髪も、夏の色に変わってきらきらと細い光をいっぱいに抱え込んでいる。私の顔をしっかりと覗き込んで、彼女は立て板に水の勢いで話し出す。


「うちなら、読む本に困らないし、先輩が来てくれてたら、私の部屋でクーラー付け続けてても文句言われないし、最高じゃないですか」


 私の目の中に、まるまる彼女は入り込む。そのつよい希望のかたちを収めると、あとで目がちかちかとして視界が明滅するので、あまり近くで入り込まないで欲しかった。私はぐっと顔をそらし、彼女の目をみないまま口をひらく。


「そんなに急に言われても、返事できない。予定とか考えないといけないでしょ」


「とりあえず今日、一回泊まりに来てくださいよ」


「今日?」


「予定ありますか?」


 彼女は私が首を振ることを知っている。どうせこの後図書室で会うはずだったのだから。今学期最後になる図書室の貸し出し日に、何冊か借りていくか、夏の間は図書館を利用することにしてその場で少し読めるものを読もうか。そんなことを考えていたのだ。まさかこんな風にクラスを抜け出すことになるとは、思ってもみなかった。


 後輩は、夏の空気に負けない楽しげな空気を発散しながら私の目を追いかけた。回り込んでたたみ掛ける。


「いいですよね。じゃあ、着替えに帰って、荷物もって私の家に来てくださいね」


「分かった」


 口にしてから、私が驚くのを、彼女は余計に楽しさを膨らませて笑った。子供のようだと思うのに、彼女の姿勢の正しさにいつも圧し負けてしまうのだ。


 それじゃあ、と細い手を掲げて後輩はさっさと自分のクラスへと引き上げていった。私のクラスも、もう戻っている頃だろう。掃除をはじめているかもしれない。人の散っていく体育館の側面で、夏が海月のように頭からすっぽりと私を覆っている。


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