第18話

 母に後輩の家に泊まりにいくことになったと話すと、一瞬嬉しそうな顔をして、すぐにそれをいつもの顔の下に押し戻して


「そう。何かお菓子をもっていく?」


といった。

 学年が違うのに、本の話題で意気投合したのだと説明している後輩に、母は会ってみたいようだった。

 私が外にでることを歓迎しているのだと、素直に分かった。他の友人を作り、何かに打ち込み、心を流していくことを願っていることも。母は、こんなに子供に感心があるひとだったのだと、私は初めて知った。

 手を洗って、髪を梳かす。汗を流してから着替えようと、すぐに自室から適当な服をとって戻る。しばらく着ない制服を見下ろしながら、この制服の頃はまだあなたは生きていたのだと、頭が描いた。

 お風呂のなかは空っぽで、すでに母が洗っていた。私はシャワーの蛇口をゆっくりと捻った。水滴が線になって、私の表面を駆け下りていく。最初の低い温度が、熱のこもった体にはちょうどいい。


 あなたが、死んでしまったことを、頭のどこかに置いていることは変わりがなかった。変わらなくてかまわなかった。それなのに、何かがこの十年は曲がってしまっている、と感じる。あなたのことを半分に、私は私を半分に押し込んで、これからを過ごしていこうとしていたのに。前の十年がそうだったように、苦しんで、痛んで、そうだからこそあなたがいない時間を積み重ねていることを堪えようと思っていたのに。

 それが、曲がってしまったのはどこからか。

 頭から落ちていく水滴が幾筋か流れを外れて速度を落としている。一滴一滴が見えてしまう。その間に挟まれる透明も。網膜に焼き付くように見ていた。

 明るい外の光が、浴室の窓の位置的な問題でどこ地下のような薄暗さを籠もらせていた。

 跳ね返す水音が耳に届く。壁のタイルを見て、すぐ前の鏡を見た。曇ったその奥に、白くぼやけた線が私を描いている。

 唐突に耐えられなくなって、私は蛇口を捻り戻した。すぐに勢いを失うお湯に、私から滴る楕円たちだけが、のろまに排水溝を目指していた。



 後輩の家に寄るようになって、彼女の家族とも話をするようになった。二人だけのときは、彼女の部屋で大きなマグカップのソイティーを飲み、彼女の母親が居る時は、リビングのテーブルで華奢なティーカップで紅茶を飲んだ。彼女の母親は、銀縁の眼鏡をかけ、後輩とは違い切れ長の目をしていた。すこし近寄りがたい雰囲気をもっていて、年齢は私の母とそれほど違わないと思うが、中に詰め込まれたものの密度が全く違った。

 紅茶を飲みながら、本の話ばかりをする時もあれば、唐突に仕事の話をはじめたり、旅行に行くと必ず本屋に寄ってしまって、家族で行くと帰りの荷物が大変なことになってしまうこと、昔飼っていた猫は犬のような性質を持っていて、それは今読んでいるこの人物のようだ、と脱線してはやはり本の話へと戻ってくるのだった。

 後輩の母親は、けして後輩の子供時代を懐かしく語ったり、私のことを深く聞くことはなかった。語り口も淡々としていて、自分のための整理整頓を私と後輩に語ることで済ませているという感じだった。

 後輩が、


「うちは母親が回してるんです」


といっていたが、彼女の父親も兄も、どこかぼんやりとやさし気で、だけどもそれだけだった。後輩の母親と話をしたあとだからだったのかもしれない。彼らはスポンジのようで、本という物から採れる水分をひたすら飲み続けることが大事なようだった。静かで、私を歓迎も邪魔にも扱わない。それは後輩の母親も同じで、だから私は彼女の家に通い続けることができたのだと思う。




「ようこそ、お泊まりへ」


 そう言って玄関を押し開いた後輩は、いつもの制服ではなく、あわい水色の短いパンツワンピースを着ていた。ひらひらと揺れる裾が、太ももの白に映えている。むき出しの足が、ほとんど日焼けしていないことにも驚いた。


「お邪魔します。白いのね」

「先輩が気にしなさすぎなんだと思いますよ。今から気をつけないと、素敵な服が似合わなくなりますよ」

「いいよ。服は着られるものを着るから」


 玄関先で靴を脱ぎながら、いつもとお互いが違う服を着ているだけで、なんだか落ち着かない気持ちが湧いた。後輩が私の服を見て、溜息を吐いた。


「何よ。私は後輩の家にお泊まりに来ただけなんだから、着飾ってくるわけないでしょう」

「いいえ。先輩は可愛い後輩の家にお泊まりに来る格好のラインしか服を持ってないと思います」


 たしかに。そう思いながら、彼女に家族は誰かいるのかを確認した。今は誰も居ないというので、とりあえず母に買っていくように言われたお菓子を後輩へ手渡した。夏らしい、涼しげな和菓子だ。後輩の家族の好みかは分からなかったが、紅茶がよく出てくるお家に、和菓子をお土産にしてよかったのかと、後輩を見た。受け取った袋の中を覗き込んだ後輩は、その場で一度跳ね上がり、嬉しそうに私を見た。


「うち、飲み物は紅茶なんですけど、お菓子は和菓子が好きなんです。よく分かりましたね。ありがとうございます」


 後輩はスキップをしそうな足取りで台所へと消えていく。声だけが戻ってきて、


「先に部屋に行っててください」


と伝えた。




 通い慣れた階段は、壁の飾り棚に飾られている本が何冊か変わっていた。季節で変わったり、選者である後輩の気分によって変えられるという壁の本たち。それは彼女にとっては自分を客観的に考える一助になり、家族からすれば彼女の精神状態をいつも感じられるものとなっているらしい。彼女の母親は、後輩が本を取りに部屋へ戻っている時、零れるように


「本は、私たち親といっしょに、一本の柱としてあの子を一緒に育ててくれている。私は、同志みたいに思っているんだ。あの子にとっては小さな頃から側に居て、ともに育ってくれた友人であり、すこし年上の目線から手を引いてくれた兄弟のような存在なんだろうけど」


すこし下向いた目はゆったりと広げられていて、その中には豊かに世界が揺らめいていた。茶色がかった内側の世界は、線が太く、しっかりと描かれているのに、やわらかだ。しっかりとした彼女の母親の首には、午後の遅い光が当たっていた。その肌に当たったことによって、光は変質して、やわらかく生まれ変わっていた。


「そしてあの子に、今本が手渡してくれたものが、先輩ちゃんなんだろうね」


 彼女の母親は今度は私を目の中で抱きしめた。瞳の中でゆっくりと、たしかな線に描き直される瞬間が、じわりと内側から私本体へと染み込んでくるようだった。母親という生き物は、こうして内側に作用してしまうものなのかもしれない。


「私では中身が偏り過ぎてますよ」


 彼女の母親はじっと私を見て、あっさりと笑った。


「当たり前だよ。本なんて、偏ってるものだし、それを書いてる人間なんて輪をかけて偏っているものなんだから。そうじゃなきゃ、世界は成り立たないんだよ」


 後輩の出来てきた課程を、彼女の母親を見ていると感じることが出来る気がした。穏やかだけれど、芯は固い。けれどその固さを維持するために日々考え続けている。そして必要な箇所には柔らかく作り直す。それは手間をかけて、時間を有限と定めて。そんな人が母親だから、後輩は私に声を掛けずには居られなかったのかもしれない。


 彼女の部屋のドアを開く。適当な場所に荷物を置いて、勝手知ったる本棚を眺めた。現代作家の多い本棚は、小説も多かったが、漫画や画集、詩集も混ざり合って並べられている。

 本棚はその人の内面、または理想を表している。そんなことを聞いたことがあったが、たしかにこれは後輩の内面を確かに作っている、欠片の集まりなのだろう。ここから確かに彼女の中に何かが置かれ、芽吹くものもあれば、朽ちて忘れられ、次の欠片のために砕けて地層を作っていく。そうやってあの鮮やかな表情は生まれるのだろう。


 あなたも本が好きだった。あなたは自分の命の時間の短さを知っていて、手元に残すことは殆どなかったけれど、ほんの数冊、最後までそばに置き続けていた本があった。それは詩集が多く、そして特に大切にしていたのが、私へ譲られた緑の表紙の一冊だった。

 一度目の別れの時には渡されなかった本。だから戸惑った。あなたの持ち物が自分のもとに残る。それがあまりにも確かな形で存在するから、私はそれを開いては嵐の中に行かなくともあなたとの時間を思い描くことが出来た。前の十年、死ぬことにしか縋りつけるものはなかった。その時それは、あんなに、息を止めるほど苦しいことだったというのに。


「何読んでるんですか」


 開けたままにしてあったドアから、後輩が大きなお盆を持って入ってきた。氷の入ったソイティーと、さっき私が持ってきたお菓子が小皿に盛られていた。


「まだなにも」


 私は本棚を離れて、後輩がお盆を置いたローテーブルの向かいへと座った。


「今日も何かおすすめしてくれるんでしょ」


「もちろんです」


 それぞれのカップを手に、私たちは黙って夏休みのはじまりを祝った。




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