第16話

「読みましたか」


「読んだよ」


「どうでした」


「うん。本の感想より、私、君に聞いておきたいことがあるの」


「なんです」


「どうして、この本を選んで私に貸したの」


 読み終わったもう一冊を返し、私は彼女と昨日と同じベンチへと並んで座っていた。


 今日は少し暑いくらいの陽気で、あちらこちらの窓が開け放たれている。私たちが座っている渡り廊下の窓も、誰が開けているのか、どこも右側が開いている。空は淡く、すこし濃く青を混ぜた透明が広がっていた。


 手には、昨日と同じ缶の紅茶があるが、気温に合わせて冷たいものになっていた。


 後輩は、手の中の小さな缶を転がしながら、言葉を探しているようだった。


 風が時折はいり、どこの部活なのか、張り上げた声が小さな刃物のように耳へ飛び込んできた。


「怒ってますか」


「分からない」


 私の濁した言葉に、後輩は笑った。零すような、思わず飛び出してしまった愉快さは、小人の逃げ足のように素早く、短い影へ消えていってしまった。


「分からない、ってことは、ちょっと怒りが混ざってますよね」


「そうかも」


「そっかあ」


「うれしそうね」


「うれしいです」


「怒りを見られるのが?」


「いいえ。先輩に、まだ怒るって気持ちが残ってて」


 後輩は私の顔をのぞき込むように、屈めた姿勢から目を合わせた。胸を隠すかたちに、彼女のなかにも痛みが巣くうのではないか。


 私はその目を受け止めながら、どう言葉を逃そうか考えていた。


「ねえ、先輩」


「私って、そんなに感情が乏しくみえるのね」


「先輩が、本を読む様子ってどんな風か、知ってますか」


「さあ」


 私の笑った顔に、彼女の目がとても近くまでやってくる。実際に顔を近づけられたわけではなかったのに、彼女の目が、あまりに真剣に私の目も、鼻も、口も、頬の筋の動きまでを見つめるものだから、私はその表情をより完成度を上げて作り込むことになった。


「私、先輩のこと、あの本の一件より前から知ってました」


「そうなの」


「先輩のこと、他の人たちも気にしてましたよ」


「どうして」


「だって、先輩、まったく姿勢も変えずに、本当にただ文字を目から吸い取って、頭に転写して、頭の後ろのブラックホールに放り出してるみたいな読み方してるんですもん」


「なにそれ」


 私の口元の、何をそんなに真剣に見ているのか。外から投げ込まれる声が、廊下のあっちこっちに転がり、みんなが零した純粋に今に煩悶する欠片が埃と重なり合って、明るい空気の中を回っていた。


 喉が渇いた。手の中に願っているものがあるのに、プルタブに指を掛ける小さな動きすら、真剣な命令が体に必要だった。彼女の目がそれを求めている。それは分かっても、それに対する何故が今も解かれない。


「先輩は、時間を使い捨ててますよね」


 後輩の顔が、今度は本当に私へ近付く。その形のいいひとつひとつが、大きく目の水面を覆う。


「ああ、この人は本が好きでも嫌いでもないんだなって、分かりました。先輩は、本当に何でも手にとっているみたいだったし、作家や、内容にはほとんど共通点がなかった。あるのは、ある一定の分量だけ。先輩は、自分が一日、どれくらいの文字を処理できるのかよく知ってるんですね。ふつうは、内容や文体で、同じ文字量でも読む速度って変わる物ですけど、先輩にはその違いもないんだなって、びっくりしました」


 後輩の唇が、ゆっくりと私の唇を舐めた。


 そして同じ速度で離れていく。はじめに目を合わせた位置まで。


「でも、じゃあなんで本を読んでるんだろうって思ったんです。一番時間をお金を掛けずに消費してくれるからかなって思ったんですけど、それなら他にもいろいろあるじゃないですか。散歩でも、筋トレでも、ひたすら寝てたっていい。せっかくだから部活に入るっていう選択だってあります。でも、先輩は、図書室で本を読んでた。本を借りて、捲って、文字を読み込んで、そういう面倒な行程を選んでた。だから、私、先輩と話してみたくなったんです」


「なぜ、そんなことをするの」


 私の声が震えたのを見て、後輩は嬉しそうに笑った。


「それ、ファーストキスにはならないですよ。舐めただけなので」


「そんなことを聞いたんじゃないんだけど」


「昨日も言ったじゃないですか」


 後輩はふっと空気を吐き出すと、姿勢をただした。真正面を見据えたまま、手に持っていた缶の紅茶を一気に傾ける。勢いが付きすぎて彼女の口端から一本漏れる。それは甘やかな色をしていて、先ほど私の唇を舐めた彼女の舌を思い描いてしまった。


 紅茶を飲みきった彼女は、わざと粗野に手の甲で溢れた一筋を拭った。視線は遠く、開け放たれた窓より遠くへ投げられたまま、彼女は言った。


「私、先輩が大好きです。先輩がどんな人なのか知りたいし、もっと先輩と仲良くなりたいんです」


 言葉は固く、どこか突き放すように口から出された。今まで、少ない会話に中にはなかった、この間お邪魔した彼女の部屋でも出されることのなかった、彼女の心の芯に触れるような声。


「それって、答えが必要なたぐいの好き?」


「いいえ、いりません。でも、私ともっといっしょに居てください。もっと話もしてください。本の話だけじゃなくて、先輩のことを話てほしいんです」


「そのために、あの本を選んでくれたの」


「当たりです」


 彼女は悪戯を成功させたと言わんばかりの笑顔で言った。その目は深く光を通し、私に真実を語ろうとしていた。


「で、どうでしたか。二冊を読んだ感想は?」


 私はやっと自分の分の缶の口を開け、そのあっさりとした酸味に気持ちが、薄く一枚剥がれたような気がした。花弁が散るような、若い貝が開くような。


「面白かった。と思う。でも、あれは、読む順番が合っているのか考えた。だって、一冊目の重々しいような語り口が、昨日読んだ方ではチーズケーキみたいな軽さになってた」


「チーズケーキって、けっこう濃厚じゃないです?」


 いつもの顔に戻った後輩は要らぬ茶々をいれる。その様子がまた私に、心が剥がれる様子を思い描かせた。数人の生徒が通り過ぎる。それを見て、さっきの彼女の行動の大胆さを、今更ながら感じた。後がなくてもいいと思っている訳ではない、と思うのに。


「私にはチョコケーキの方が重たい」


「価値観のちがいですね」


「そういう君は、どう思ったの?この作家さんのファンなんだよね」


「はい。大ファンですよ。だから、大抵今回はこういう書き方なんだね!と受け入れます」


「毎回文体が変わる作家さんなの」


「いいえ。この作者さんはそんなには変わりません。先輩に先に読んでもらった本と、今返してもらった本の間に、作者さんの中で変化があったとしか」


「今も、この書き方なの」


「文体は柔らかくなったなって思います。読者層が広がったんじゃないかな。でも、内容はあまり変わりません。この本だけ、内容がいつもと違ってたんです」


「この一冊だけ」


「だからこの本から読み始めた人は、他の本を読んで、思ってた作風じゃないって思う人が多いみたいです。snsのレビュー見てても、初めて読んだって人が多くて、そんな人が他のこの作者の本を読んで合わなかったって書いてる人多いので」


 私は、彼女に返したばかりの本を横目に見た。私たちの間に置かれた鞄に、大切にしまわれた本。 その中身は、恐ろしいくらいに相手が好きだと言い募る主人公の物語だった。その言葉はどんどん連想的につながっていき、窓辺に佇む想い人の空間を埋めていく。白く儚いレースのカーテンが幾重にも吊された窓辺。そこには本当に想い人が立っているのかどうかも明示されない。ただ主人公がその人が居ることを信じて、返されることを必要としない言葉を吐き出し続けていく。終始、主人公とその想い人だけが出てくる。天気は薄曇りだが、世界は灰色に明るい。


 はじめに読んだ時は、ただただ言葉を読み進めていたので気に留めることはなかった。あまりにはっきりしない、不自然な空気感。恋愛小説を読んでいるはずなのに、不気味な童話の世界を歩いているように感じた。主人公は言葉を使い果たし、やがて疲労から想い人のいるはずの窓辺の下で、そっと眠ってしまう。そんな主人公のもとへ、やっと想い人は姿を現し、やさしく主人公へと労いをかける。そしてあたたかい毛布を掛けてくれると、そっとその場を離れていく。残った主人公は、静かに涙を流し、終わる。


 結局二人が結ばれたのか、いったいこれはどういう物語だったのか。愛の物語だと言われれば、そう受け取れるかもしれない。けれど、その前に読んだ物語と、あまりに詰め込まれる力が違ったのだ。あの生きることに必死にしがみつくような物語と、誰かの足下に蹲って振り向いてくれるのを待つだけの物語。言葉が、ひたすらにやさしくなっていたことも、印象を振り回した。後輩の勧める順番で読まなければ、自分で選んで読み進めたままだったなら、淡い恋情の物語として読み終え、棚へ返していただろう。


「作者さんの親しいひとが、亡くなったあと、書かれたそうです」


 その言葉に、私は思わず彼女をつよい目で見ていた。後輩は、分かっていたような顔をして、私の目を受け止めた。


「先輩も、誰かを亡くしたんですか」


 ぱりんと、耳元で何かが割れた。私自身の影が、見えない窓硝子を割って、身を投げたようだった。本体の私も、そんなふうに軽々と生を投げ出せたら良かったのに。そう思ったら、唇が震えながら、跳ね上がった。


「そう、見えるの?」


「どうでしょう」


 私と彼女は、空になった缶を手の平でいったり来たりさせながら、目を合わせ続けた。


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