第43話 やさしい幽鬼の殺し方②
しかし、一方的に自分が虐げられていると思いこんだ相手というのは厄介だ。話が通じない上に、感情に駆りたてられて必要以上の力を出すことがある。
「か、可不可……ッ」
声にならない声で執事の名前を呼んだが、近づいてくる足音は聞こえない。おそらく眠ってしまっているのだろう。不思議と、夜の客が訪れるような夜は闇がいっそう濃く、みんな深い眠りについてしまうようだ。家人が起きてくることは滅多になかった。そう気づいたとたん、どこか遠くで甲高い
――鬼嘯だ。
首を絞められて意識が遠のきながらも、夏月の心臓はどきりと予感に震えた。
正直に言えば、泰山府君の言う夜の客はどちらなのだろうと思っていた。
女官を殺した犯人は祖霊廟の奥深くに天原国の祖霊廟があることを知っている者――つまり、後宮で暮らす誰かだ。
その後宮を、祖霊廟に入った女官がびしょ濡れの姿で歩き回ったのだ。
犯人が夏月の噂を聞いたら、自分の秘密が知られたかもしれないと疑っただろう。
遺体は木乃伊化せずに白骨化し、衣服は見当たらなかった。
おそらく、あの風穴に流れる水は泡の出る水なのだ。
風穴のなかに死体を捨てれば、泡の出る水の効果で衣服は溶けてぼろぼろになり、遺体は土葬より早く白骨化する。なかに広い空間が広がっており、ときおり水が風穴のなかで溢れていることを知っている者なら、全身濡れた夏月を見て、肝を冷やしたことだろう。
もし犯人が一刻も早く夏月の口を塞ぎたいなら、今夜やってくる可能性は高かった。清明節の祭祀が終われば、滅亡した国の祖霊廟は、また深く深く忘れ去られるはずだからだ。
ちりん、と簪が金属のこすれる涼やかな音を立てた。
泰山府君のくれた簪は、意識が落ちそうなときでさえ、耳によく響く。まるで、夏月の生命が危機に遭遇したときには、早く呼び出せと催促されているようだ。
首を絞められて抵抗する力を失った夏月に対して、瑞側妃は刃物を持っていることを思いだしたのだろう。顔についた墨を袖で拭って、刃物を振りかざした。その鋭利なきらめきを目にしたとたん、夏月のなかに残っていたわずかばかりの躊躇が吹き飛んだ。
「泰山府君! お助けください!」
声が出なかったが、心のなかでは叫んでいた。簪の助けは三回までという言葉がよぎったが、どのみち、ここで死んでしまったら先はない。そもそも、神に助けてもらうという奇跡を当てにして生きるのは夏月の性分ではない。
――たぶん……いや、きっと。
自分が神というものに対して、どういう感情を抱いているのかすらわからないまま、夏月は意識が遠のきそうになるのを感じていた。死が近づくときはいつもそうだ。不思議なほど冷静な気持ちになって、意識を失う自分をどこか客観視している。
――やはりわたしは死ぬのか。助けを呼ぶのが間に合わなかったのか。
夏月のなかにあるのは諦めと言うより、ただの事実だった。振り下ろされる刃が体に刺されば、血が飛び散るだろうというだけ。
どこかに感情を置き去りにしたまま、時系列と事実の関連性をただ眺めている。
それは冥府で天命の蝋燭を眺めていたときのように、凝縮された一瞬を濃密に味わっているような時間だった。一瞬が一刻にも一日にも感じられる奇妙な感覚だ。なのに、その引き延ばされた時間に割って入るように、扉を叩く音がした。
「ごめんください……代書をお願いしたくて、やってまいりました」
女の声がしたとたん、時間が急に元に戻った。まるで体から離れていた魂が急に呼び戻されて、目の焦点があったかのように、意識の焦点がはっきりした。
「入るがいい」
夏月の代わりに、勝手に答える声がした。傲慢だが、響きのいい声だ。扉の外までよく聞こえたのだろう。新しい客はすっと音もなく扉を開けて、店のなかに入ってきた。夏月に振り下ろされようとした刃物は、霜衣を纏った手に掴まれて、あと少しのところでとどめられていた。
「先生……私の手紙、出してくださったんですね……ありがとうございます。やっぱり代書は先生にお願いしないと、だめですね。ほかの代書屋に頼んだときには、この人、返事をくれなくて……いますぐいつものところで待っていると、そう言ったのに!」
今度の客は、蝶が舞う図柄の襦裙を纏った幽鬼だった。
泰山府君は幽鬼からも生きている客からも夏月を守るように前に立ってくれている。神の白い衣に触れているからだろうか。不思議と呼吸が楽になってきた。
「あとからいらしたほうのお客様は――そう、先日、子連れでいらした……瑞側妃ですね?」
夏月は幽鬼と先に来ていた客の顔を見比べながら言った。
「ええ……そうです。先生、私のこと、覚えていてくださったんですね。うれしい……」
幽鬼になったとは言え、生前の美しさは面影が残っている。拭い去れない陰のある顔が微笑むと、つい寄り添ってやりたくなる、儚げな美女だった。
幽鬼の名前は瑞側妃。
生きているほうの客も瑞側妃。
こうして一度にふたりの顔を見れば、一目瞭然だった。
「おふたりは双子の姉妹でいらっしゃるのですね?」
泰山府君の背中に守られているという安心感に力を得て、夏月は訊ねた。
女の顔を見ているうちに、過去の記憶がよみがえる。
後宮で代書屋を開いたときに訊ねてきたのは、幽鬼になった姉のほうだ。
まだ駆け出しの代書屋にすぎない夏月のことを『先生』と呼んで、恋文の代書をしたときもとてもよろこんでくれた。話しぶりやちょっとした表情がやさしげで、感じのいい妃だった。
一方で、今日、夏月を殺そうとした妹のほうは初対面だった。ちょっとした声音や仕種から、妹のほうは悋気が強そうだとわかる。おそらく、宦官の少年が懐いていたのは姉のほうなのだ。そして、どこかの王子の誘いに絆されてしまったのも。
夏月の問いかけに、幽鬼は一瞬とまどっていたようだった。それは、長年、秘密にしてきたことを口にするとまどいのようでもあり、また、死んでしまったがゆえに、強い執念以外は忘れてしまって、問いかけの意味がわからないようでもあった。
すると、なにを思ったのだろう。羽毛扇を広げた泰山府君が、冥界の裁判をするときのように声を発した。
「燭明宮の瑞側妃――またの名を楽鳴省護鼓村の莫容寿……享年二十四才。おまえの境遇と死に至った経緯を、いまここで話すがいい」
響きのいい声が狭い店のなかを圧倒すると、一瞬、夏月はここが冥界の白州で、頭上には極光が瞬いているかのような錯覚に陥った。
あるいはそれが神の術だったのかもしれない。
死後裁判を行う泰山府君の声は、相手の記憶を引き出し、おのれのことを話したくなるような力がこめられているのだろう。幽鬼は、神に対して一礼すると、「では、お話しします」と自分の身の上を語り始めたのだった。
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