第41話 冥府の王、灰塵庵で鶏鍋を囲む②

「あの幽鬼は、ただ背中に荷物を背負っていると思ったのです。そういう客は少なくありませんから……」

 行商のついでに寄っていく者、わざわざ遠くから運京まで来て手紙を頼む者。彼らはみな背になにがしかの荷物を背負ってやってくる。従者を連れて荷物を持たせているとか、運京のなかでもごくごく近隣の人がふらりと空身でやってきたのでないかぎり、客が荷物を持っているのはだったのだ。

 でも、違った。あの霊廟に累々と重なった白骨死体を見たいまなら、違いがよくわかる。

「幽鬼の客は……死んだ赤子を背負っていたのです……」

「以前に会ったときの記憶を思いだしたか?」

「はい。おぼろにですが……同じように蝶の襦裙をお召しでしたので」

 後宮に代書をしに出かけたときのことだった。後宮の妃はいくつもの階級に別れているが、正四品の下級の妃だと笑っていたことをかすかに覚えている。下級の妃であっても、絹の着物を纏う妃が荷物を背負って歩くわけがない。

 ――自分の子どもでもないかぎりは。

 動かないし泣かないから、子どもだと気づけなかったのだ。

「名前に関しては……受付をした台帳を見れば、わかると思います。可不可、可不可いますか?」

 夏月は声を大きくして、隣の部屋で控えているはずの執事を呼んだ。どのような身分の客かわかっていないだろうが、泰山府君の態度は庶民のものではない。服装は冥府の法廷で見たときとは違い、肩当てや小手をつけた礼装ではないが、それでも十分に貴人の佇まいだ。貴族の御曹司が気楽な格好を装って街に出かけたときに、本人としては精一杯下町風を気どったつもりなのに、上品な生まれや育ちが隠しきれない服装になってしまったとでも言うような、品のいい着流し。

 ――まさかこの方が神様だとはわかるはずがないし……勤め先の上司だとでも思っているのでしょうか。

「なにかご用でしょうか」

 隣の部屋から顔を出した可不可は、控えめに夏月の斜め後ろに立った。

「可不可、以前に後宮で代書をしたときの台帳を見せてちょうだい。この間、行ったときのではなくて古い台帳のほうです。確か、後宮での仕事も最初から台帳を作っていたはずですね?」

 夏月は食事を終えて口元を巾で拭うと、「失礼」と先に食卓を離れる非礼を詫びてから、作業にかかった。


 文机には、次から次へと古い台帳が並べられた。

 蝶の襦裙を着た妃が、夏月に代書を頼んだことがあるのは間違いない。

 それが袍子やほかの女官が言うように、瑞側妃だとしたら、彼女はまだ生きている。くだんの幽鬼は瑞側妃ではなかったということだ。それでも、どうにも引っかかる。袍子という少年宦官の言葉も引っかかる理由のひとつだった。あの少年は、夏月の代書屋を瑞側妃から聞いた言っていた。しかも、幽鬼の客が夏月を指して「先生」と呼んだのと同じく、少年も「先生にお願いすれば間違いない」などと似たような言葉を吐いていた。

 それらすべてを無関係だと言うのは、無理があるのではないだろうか。

 夏月が『灰塵庵』で代書屋をはじめたのは、運京に来てからのことで、まだ二年ほどしか経っていない。駆け出しの代書屋なのだ。たまに後宮で代書屋を開いていると言っても、運京で名が知られているわけではないし、見た目はただの小娘だ。『先生』と呼ばれる柄ではないと、夏月自身、よくわかっている。

「後宮で代書をはじめたのは、秀曲お姉さまが後宮入りしてしばらく経ってからだから、昨年……一昨年からでしたか?」

 年が変わってすぐのころは、どうしても前の年の感覚が抜けなくて、去年というのが、すぐ前の年なのか、そのさらに前の年のことかわからなくなってしまう。だからこそ余計に、台帳という記録は重要なのだ。曖昧な記憶を、記録によって正確なものにできる。

 ――『人間の記憶というのは、意外と思いこみや思い違いによって正確さを欠く。だからこそ、正確な記録というのは年を経るごとに、宝玉に等しい価値を持つようになるから、記録をとっておきなさい』

 それもまた、師匠の教えのひとつだった。

 正確には夏月が言われたものではない。兄弟子の誰かに諭していた言葉を、そばで聞いていただけだ。そのときは、訳もわからずに聞いていただけの言葉が、ときを経て唐突によみがえり、「ああ、こういうことだったのか」と腑に落ちることがある。記録に関してもそうだった。

 このときまで夏月は、台帳というのは、収支を確認する勘定帳簿の、覚えがきだと思っていた。あるいは、顧客名簿の整理のために書いているにすぎないと、そんな印象を抱いていた。

 紐で綴じた帳面をめくり、指先でひとつひとつ確認していく。

 ときおり、紙の裏が滲んで裏移りしていたが、文字そのものはきちんと読めた。本家で使っている台帳用の紙を融通してもらったおかげだ。できるだけ、薄くて頑丈な紙というのはそれなりのお値段がするため、代書屋の収入だけでは手が出ないのだった。

「やはり最近の帳簿にはなさそう……記憶にないくらいだから、少し前に請け負った仕事でしょうか」

 去年の夏より前の記憶は、頭に靄でもかかったかのように判然としない。たくさんの人の死に関わると、辛いからだろう。どうしても、前後の記憶が曖昧になる。師匠のところにいたときの古い記憶より、運京に来てからのほうが記憶の欠落が多いのは慣れない環境のせいもあるかもしれない。はっきり覚えていることと欠落している記憶とが渾然一体を為していた。

 一方で、古い記憶というのは不思議と、いつまでも色鮮やかに心のなかによみがえる。思いだすたびに、その記憶に水をやり、肥やしをやっていて、芽吹きのときが来たら見事な花を咲かせるかのように。

「お嬢、古いほうの台帳をお持ちしました」

 可不可がやってきたので、後宮での仕事を示す表題を竹簡に書き、同じ文字がある場所を探してもらう。可不可はほとんど字が読めないが、同じような字を探すくらいのことなら慣れているからだ。

「あ、これもそうですか?」

 示された台帳の記録を夏月が確認すると、それがちょうど探していた台帳だった。丁寧にひとつひとつ目で追いかけていくと、燭明宮の瑞側妃という文字が目に入ってくる。

 後宮は広い。差出人の住所の代わりに、居住する宮の名前を書きつけてあったのである。

「宛先は……やはり二通。一通は幽鬼のものと同じ……楽鳴省護鼓村。もう一通は、やはり宣紙で宛先は……ない」

 指先に書かれた文字を確認して、頭を整理する。おそらく、宣紙の手紙は自分で出すつもりでいたのだろう。

 後宮のなかにいる誰かに送るための手紙なら、使いを頼むだけでいい。わざわざ外に持ちだして駅伝に頼むより、自分の使いに運ばせたほうが確実だし、すぐに返事がもらえるはずだ。

 袍子のものと一緒に出した幽鬼の手紙は、店の者に届けてもらっていた。可不可が店の者と話したところ、家の者は留守だったそうで、そういうときは隣家の者が受けとっているとのことだった。

 小さな村では珍しくないことだ。

 娘がひとり住んでいたという話で、去年からずっと帰ってきてないのだという。

 ――その娘も去年から、出稼ぎに出たのだろうか……。

 夏月の頭のなかで、違和感がぎしぎしと音を立てて、迫ってくるようだった。

 台帳の文字を指先で追いかけながら、記憶を呼び覚まそうとするのに、備考欄を読んだところで頭を抱えてしまった。

「差出人が後宮の側妃で、恋文とあるからには、陛下への手紙だと思いますが……」

 夏月はそこで唸ってしまった。

 姉の紫賢妃からも恋文を頼まれたことはある。有名な詩歌と絡めて、会いに来てほしいなどと切々と訴えるのが恋文の常套句だ。特に相手からの要望がなければ、夏月もそう提案したはずだし、漢詩に詳しくない客なら、代書屋にお任せということも少なくない。意外にも、恋文というのは代書屋の腕の見せどころなのだ。九十九回も婚約破棄された身で自慢するのもなんだが、夏月もたくさんの恋文を手がけている。

「国王に宛てた手紙ではないなら、できた子どもも大っぴらにできなかったであろうな」

 いつのまに背後に立っていたのだろう。泰山府君が肩越しに台帳をのぞきこみながら、夏月の考えを見透かしたように言う。

「陛下! 陛下ですよ……泰山府君。ほかの人のいる前で呼び捨てはまずいと思います」

 自分で口にしておきながら、『泰山府君』という呼びかけも奇妙に思われるのではないかと思い、そこだけ声を潜めてしまった。生き物の生殺与奪を握る神であっても、この場に神がいるなどと喧伝するのは世迷い言だとしか思われないだろう。

 ただでさえ、『黄泉がえりの娘』などと不名誉な噂を立てられているのに、これ以上、不可解な娘だという噂はごめんこうむりたい。

 しかし、冥府の王は夏月の事情を斟酌してくれる気はないようで、美しい眉間に皺を寄せて、不機嫌さを露わに言葉を続けた。

「なぜ私が人間の王ごときに気を遣ってやらねばならぬのだ……琥珀国の王と言えば、天原国の王統を弑逆した簒奪者だ。礼を尽くす謂われなどな……っ」

 大きな声ではなかったが人に聞かれたら困ることを滑らかに話され、夏月は慌てた。考えるより先に、冥府の王の口を手で封じる。

「人間の世界で調べ事があるというなら、もう少し、人間の世界での振る舞いを学びましょうか、府君」

 ただ、府君と言うだけなら、県知事というのと同じだ。大きな一族の家長をそう呼ぶこともあるから尊称としても通用する。神の名を大声で叫ぶよりましだろう。

 夏月としては自分の首を守るため、あるいは一族郎等の安全のためにした行為だったのだが、違う意味で生命の危機が迫っていたらしい。

「……紅騎、代書屋は悪気があってやっているわけではない。剣に手をかけるではない」

 はっと振り向いた夏月は、殺気をみなぎらせる紅騎を見ることになった。

 これがまさしく前門の虎後門の狼というやつだろうか。頭を抱えてしまう。

 台帳をひととおり調べた夏月は今日一日のことを振り返っていた。

 霊廟に閉じこめられていた死者の魂魄は泰山府君が戻ったことで、泰山へ還ったのだろう。しかし、まだ謎は残っていた。

 ――もし、蝶の襦裙を着た女性が燭明宮の瑞側妃なら、なぜ彼女は生きているのだろう?

 子どもだけ流したと言う可能性はある。

 しかし、灰塵庵に現れた幽鬼は死者だった。女性はもともと陰と陽で言うなら陰の気が強いと言われているが、死者が放つ影の気配があった。それは間違いない。

 ――もう一度、天原国の祖霊廟に入ればわかるだろうか。

 霊廟は城を守るとされており、古い城は霊廟を中心に作られる。夏月は頭のなかで地図を描くようにして自分が歩いた後宮と祖霊廟の位置の関係を記憶しようとしていた。

 ――風穴の祖霊廟を動かせるわけがない。だから……。

 考えごとをするうちに、微睡みかけていたのだろう。肩を叩かれてはっと我に返る。

「代書屋、疲れたなら先に休んだほうがいい。ただし……今宵は客が訪ねてこよう。代書屋の看板は下げたままにしておいたほうがいいぞ」

 泰山府君はそんな予言を残して、ふらりと帰ってしまったのだった。

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