第40話 冥府の王、灰塵庵で鶏鍋を囲む
「泰山府君、どうぞこちらにお帰りください」
と呼びかけると、ふぅっと煙が立つように、白い長衣を纏った貴人が灰塵庵の狭い室内に現れた。
ずぶ濡れの夏月がどうにか家に辿りつき、備え付けの温泉で体を温めて人心地ついたあとのことだった。
夏月を突き飛ばすようにして、現れた神に近づいたのは紅騎だ。
「泰山府君! お帰りなさいませ……お体のほうは大丈夫ですか? お怪我などなさっていませんか?」
夏月が神の体に埃でもつけたかとでも言わんばかりだ。紅騎は泰山府君の衣を手で払い、しわひとつない袖をわざとらしくも整えている。
城門を出た夏月は、泰山府君の使い――紅騎が用意していた馬車で灰塵庵まで戻ってきたのだった。
「うむ……特に問題ない。紅騎も役目を果たしてくれたようで、なによりだ」
夏月がいることなど忘れたかのように、部屋の真ん中に泰山府君を座らせようとする紅騎を制して、泰山府君はちらりと横目で夏月に視線を向けた。意外なことに、本当にすぐ帰ったかどうかを心配されていたようだった。手を振って自分はもう大丈夫だと示すと、神は満足げに微笑んだ。
それにしても、狭い。体格のいい青年がふたりも入るには、灰塵庵は小さすぎた。狭い店のなかがさらに狭くなったように感じて、どことなく息苦しい。さらに言うなら、人が詰まった店のなかで傍若無人に振る舞うお偉い人というのは、想像以上に煩わしかった。
「代書屋、久しぶりの陽界で私は疲れた。夕飯を用意するがいい」
どこの我が儘な大尽がやってきたのかと言わんばかりに好き勝手を言われて、命の恩人相手と言えども頭を抱えてしまった。
「申し訳ありませんが、ここは侘びしい庵暮らしなのです。貴人に出すような夕飯の支度などしておりませんよ」
ここは、とっととお帰り願おうと思った矢先、窓の外から可不可の声がかかる。
「お嬢……お嬢。夕飯でしたら、客間のほうに用意してあるので奥にお連れしてください」
機嫌よくそんなことを言われて、夏月のほうが驚いてしまった。
「ちょっと可不可、どうしたのです? 本家から余分な食材でもいただいたの?」
心配になって、ひそひそと窓越しに話しかければ、
「違いますよ、お嬢。あの方たち、上等なお客様なのでしょう? 代書の仕事だと言って先払いでお金をくれたんですよ!」
などと言う。いつのまに金なんて払ったのだろう。泰山府君は呼び出したばかりなのだから、可不可がやりとりするとしたら紅騎しかいない。
――わたしが温泉に浸かっている間に可不可を懐柔するなんて……。
油断も隙もないとはこのことだろう。夏月が後ろを振り返ると、紅騎はすました顔をして茶を飲んでいた。
「泰山府君の分もお茶を淹れていただきましょう」などと催促までされてしまった。
「お金って冥銭じゃないの? だってこの方は……」
冥府の王なのだ。持っているお金と言えば、冥銭に決まっているだろうと可不可に言いそうになり、慌てて手で口を押さえる。
「なにを言っているんですか。間違いなくちゃんとした銀ですよ、ほら!」
舟形に固めた銀を袖のなかからとりだす可不可は、ひどくうれしそうだ。
しかし、銀とは。夏月は目を瞠ってしまった。
「私が地上の報酬を持たないと思ったか。あさはかだな……さて、■我が山裾には野草や茸もたっぷりと自生していたはず。夕飯に舌鼓を打つとしよう……話はそのあとだ、代書屋」
人様の家に上がりこんでおいて、この言い様はどうなのだろう。しかし、今日は命を助けられたばかりなので、泰山府君に頭が上がらない。夏月はやむなく、ふたりの客を奥へと案内していった。
もともと、温泉を利用した別宅だったので、店を開いている庵の奥にはちゃんとした客間がある。飾り文様が施された欄干に、夏月が筆をふるった衝立。囲炉裏には炭火を熾してあり、部屋はあたたかかい。
予想に違わず、鍋であった。ずぶ濡れで帰ってきた夏月の体が冷えないように、という気遣いもあるのだろう。茸や山野菜で出汁をとったなかに、鶏肉をふんだんに入れた水炊きは食べると体が温まるからだ。
「今日もまた……死にそうな目に遭ったのに、生き延びてしまいました」
湯気が立つ鶏肉を箸で掴み、はふはふと口内を火傷をしないように気をつけながら食べると、旨味が口のなかに、そこからじわりじわりと体中に広がる。醤をつけて食べてもいい。辛みと旨味が混ざった風味は、鶏肉の味を引き立てるから、なおさら箸が進む。
「天命が尽きるまで、その生を全うする。よいことではないか……鍋の代わりを頼む。肉と水餃子をいっぱい入れてくれ」
「府君は人間の食べ物をずいぶんうれしそうに召し上がりますね……」
「料理に貴賤はあるまい。美味しいものを美味しいときに食べる。それのなにが悪いのだ」
「なにも悪くはありませんけれども……」
ただ意外だっただけだ。冥界の法廷での超然とした姿を知っている身からすると、自分の家で「泰山府君が鍋を食べているぞ」というのは、夏月が『黄泉がえりの娘』などと嘲笑われるより奇怪な光景に見える。
夏月の考えていることなどお見通しだったのかどうか。冥府の王は新しく椀に盛られた肉だの水餃子だのをひとしきり食べたあとで、唐突に話題を変えた。
「ところで、代書屋。深夜に訪れた幽鬼の、奇妙だと思った理由を考えてはみたのか」
そう言いながら、給仕をしてくれている老婆にまたおかわりを頼んでいる。遠慮がないにもほどがあると夏月は呆れてしまったが、代金をすでにもらっている以上、なにも言えなかった。可不可から四六時中赤字を埋めるように訴えられている身としては、銀の代金はそれほど魅力的だったのだ。
「考えは……しました」
――『幽鬼の代書にしても、変な客だったな』
――『よく思いだしてみるがいい。いつもの客と同じだと思って意識の外に追いやりながらも、小さな染みのような違和感はおまえの内側から広がっていたはずだ』
なにを分けて考えろと言われたのか。あのとき感じた奇妙さはなんだったのか。
「あの幽鬼の客が以前にも訪れた客だったからではないかと思います」
違和感を覚える状況にはいくつかの定型がある。
たとえば、町人のなかでひとりだけ豪華絢爛な衣服を見せびらかすと言ったように、状況にそぐわないこと。たとえば、顔がそっくりな双子なのに、黒子の位置が違うといった、似て非なるもの。たとえば、いつもと同じように話している相手が隠し事をしていたりして、挙動がおかしいという日常との違い。部屋に泥棒が入ったときに家具を動かしたり、物の位置をほんのわずか動かした場合の、既視との相違――指を折って数えあげながら、自分が感じた違和はどれなのだろうと、記憶をたんねんに浚った。
「あの幽鬼に感じた奇妙さは、以前に代書を依頼されたときと同じ服装、同じ言葉を口にしたのに、違うところがあったという違和感でした」
よく似ている二枚の判じ絵のように、片方にはなにかの間違いが隠されている。
夏月はあの幽鬼と以前に会ったことを覚えていない。それでも、頭のなかにはかすかに記憶が残っていたのだろう。無意識に、その残滓のような記憶とあの夜見た客との違いを見いだし、染みのような違和感となって夏月のなかに広がっていたのだ。なのに、そのあと幽鬼に襲われたことで、もっと奇妙な部分――依頼内容が混濁していたとか、言葉が支離滅裂になって襲ってきたとか、そちらに目を奪われて、最初のわずかな綻びが見えなくなってしまった。
代書屋は、同じ客と重ねてやりとりすることがある。文字の読み書きができない人は一生そのままと言う人が多いし、客の人となりがわかっている店で頼むほうが、的確な言葉で代書をしてもらいやすい。代書をした手紙を出してやれば、返事がきたときに、同じ代書屋に読んでもらいにくる客は多いのだ。そのほうが勝手がわかっているからだ。
だから、客の変化をいつも気にかけていなさいと、師匠から言われたことがあった。
羽振りがよさそうなのか、服装に繕い物が多くなったのか。にこにこと機嫌がよさそうなのか、うつむいてため息ばかりついているのかどうか。
その違いを気にかけて、ともすれば慰めの言葉をかけてやりなさいと言うのが、師匠の教えだったはずなのに、夏月は守れていなかった。運京のような都会では、客はそのときで便利な店を選ぶだろうと、手紙の代書をいつも同じ人に頼みに来るとはかぎらないからと、心のどこかで諦めるようにして、客と深く関わることを避けていたのだ。
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