第36話 頭蓋骨が多すぎる!③

「おい、代書屋。神がわざわざ『おまえの顔には死相が出ている』と教えてやったのに、あっさりと死にかかるとはどういう了見だ」

「それは……申し訳ありません……」

 尊大な態度でそしられて、弱っていた夏月はすぐに謝った。

 かまちを乗り越えそこねてうかつに冥府に落ちたのと違い、水流のなかでもがき、溺れ死ぬというのは精神を削られる『死』だったのだ。泰山府君を前にして、言い訳をするとか反論をするほどの気力が湧いてこない。床に寝転んだまま、ぐったりとしていると、泰山府君がすっと立ちあがった。

「まぁ、よい。ちょうどいいところに呼び出してくれた。これに関しては礼を言う」

「ちょうどいいところ……ですか?」

 どういう意味だろうと好奇心が鎌首をもたげる。今度は体の怠さより知りたい気持ちが勝った。体を起こした夏月は、ずぶ濡れの襦裙の袖や裾を絞る。霊符という明かりがあるなか、泰山府君の前で襦裙をめくっていいものかという羞恥心は、この際、気にしないことにした。

 後宮の奥、迷路じみた霊廟の奥の、どこが『ちょうどいいところ』なのだろう。もし夏月が泰山府君の立場だとしたら、こんな危険な場所に呼びだされたくない。しかも、夏月はまだ天原国の祖霊廟に閉じこめられたままなのだ。

いびつさ、綻び、狭間の隙間にはまりこんで、誰の目にも触れないもの……奇遇だが。私も捜し物をしててな」

 どこか満足げな顔をした神は、水流が暴れたせいで、ばらばらになっていた頭蓋骨をひとつ、床から拾いあげた。

 ひとつ、またひとつと、さっき夏月が並べていたように頭蓋骨を並べていく。大きい頭蓋骨と小さい頭蓋骨と――。冥府の王には、このものたちの生前の姿が見えているのだろうか。あるいは先日のように、蟻の生前の姿などひとりひとりを気に留めてなどいられないと言うのだろうか。おそらく、後者だと夏月は思った。

「このところ、冥府では死者の帳尻が合わないのだ」

「死者の帳尻が合わないとはどういうことでしょう?」

「生者は生者の、死者は死者の戸籍で管理されている。だからこそ、死後、冥府の法廷へと呼びだされた幽鬼は生前の罪を裁かれる。だが、生者の戸籍から外れたはずなのに、所在不明の死者が増えているのだ」

「それは……」

 去年の夏のことを思いだした。酷暑のせいだったのか、運京はずいぶんと人死にが多くて、後宮でもずいぶんと人が死んだ。夏月が初めて冥府の法廷に行ったときの幽鬼の混雑具合を考えれば、何人か、とりこぼしがあっても不思議はないように思えてしまう。

「一度に人がたくさん死んだあとは冥府に向かう道に迷う者が多く、行方不明者がよく出るということでしょうか」

 祭りや市で、人混みにまみれて迷子が出るように、冥府への道も幽鬼が多いとはぐれてしまうというのは、いかにもありそうなことだった。しかし、夏月のささやかな考えはあっさりと一蹴された。

「それはまた違う話だ。たとえば、死んだことがわからずに現世に残る幽鬼というのがいるだろう。ああいうのは冥府に下りていないと思うかもしれないが、城隍神じょうこうしんなり土地公なりがちゃんと把握しているのだ。死と言うものを理解していない赤子の幽鬼もそうだ。城隍神の神像を御輿に担いで城市を巡る祭祀があるだろう。ああいうのに惹かれて、まずは土地神の元へ送られ、それから冥府にやってくる。幽鬼というのは、最後には必ず泰山に還る……それが世界の理なのだ」

 人の魂魄は、死後、泰山に向かうのだと言う。

 泰山が死者の集まる山と言われ、泰山府君が冥府の王と言われる由縁である。霊廟の真っ暗な胎内で、冥府の王自身から聞いていると、やけにまことしやかな話だ。夏月までもが幽鬼になった心地がしてくる。

「しかし、稀に死者の勘定が合わないことがある。小さな小石と同じだ。ほんのわずかな衝撃で転がった小石はほかのなにかに紛れ、あるいは誰の目にも触れない隙間に入りこみ、簡単には見つからなくなってしまう――そういう行方不明の幽鬼というのが、定期的にいる。それで先だってから、地上と冥府を行き来して調査をしていたのだが……問題が起きるとしたら、後宮というのはうってつけの場所でな」

 確かに後宮というところは、言葉では言い尽くせない独特の空気がある。

 貴人から官卑まで、二千人以上の人間が狭い匣のなかで暮らすせいだろう。目には見えない人の情念、大きな声を出してはいけない張りつめた空気、人の目に常に監視されて、どこかしら息を詰めてしまうような、謎めいた空間だ。

 それでも、冥府の王から『問題が起きやすい場所』などと示唆されるのは予想外だった。

 貴人の佇まいをしているくせに、地上の王の住まいには手厳しい。

「でも、泰山府君。後宮というのは琥珀国でもっとも安全な場所だと言われました」

 拗ねた子どもがむずかるように、夏月はささやかな反論をした。

 少なくとも、夏月はそう聞いている。一度、後宮に入ってしまえば、簡単に出られない代わりに、後宮は琥珀国のどこよりも守られているのだと――。

 外威から城市を守るために城壁という匣で囲い、その内側をまた、黒曜禁城を守るための城壁で囲い、さらにその内側の、衛兵に守られた匣のなかの匣が後宮だ。ぐるりと築地塀がめぐらされた通路には見張りが目を光らせ、幽鬼でさえ入りこむ隙間なんてないように見える。

「地上の人間にとって隙間なく作られた場所こそ、幽鬼が迷いこんで出られない場所なのだよ。後宮というのは呪術的な結界に守られており、いかな泰山府君と言えども簡単に侵入できない場所でな」

「結界……でございますか。泰山府君のお力でも簡単に壊せないほど強固な結界なのですか?」

 上の階に泰山府君像が祀られていたことからすると意外な気がして、夏月はちらりと泰山府分の左手を盗み見てしまった。

 今日もまだ治っていないようで、巾を巻いたままだ。

 ――神様というのは自分の傷を治せず、結界を壊すこともできないほど無力なのだろうか。

 などという夏月の不躾な視線に気づいたのだろう。泰山府君は決まり悪そうな顔をして、左手を袖に隠してしまった。神様のくせに、そういう仕種はやけに人間くさい。

「別に壊せないことはない。しかし、結界を壊してどうなる? 城の巫術士ふじゅつし、道士、陰陽士を相手どって戦うのか? 幾人かの行方不明の幽鬼を探すためだけに、そんな面倒事を起こしたくない。私は琥珀国に戦争を仕掛けるわけではないのだからな」

「つまり、結界は壊せるが、ひっそりと忍びこむのは難しい……と。それで、わたしに城勤めを勧めたのでございますか?」

 この神がどこまで予想して助言してくれたのだろう、などと考えるのは馬鹿げている。

 なにせ、泰山府君は夏月の禄命簿を見て、運命の行く末を知ることができるのだから。

 夏月の遠回しな非難に対して、釈明するつもりはないようだ。

から呼んでもらって助かった。いい働きをしたぞ、代書屋。褒めてつかわそう」

 夏月など人間にとっての蟻と同じだと言い、蟻ごときの命を気まぐれに救っておいて、この物言いというのはどうなのだろう。さすがは神だ。傲慢にもほどがある。

「矮小な蟻の身で泰山府君のお役に立てて光栄に存じます」

 呆れた心地になりながらも、拱手して頭を下げておいた。命を救ってもらったことは確かだからだ。それに、霊廟というのは、やけに神妙な気持ちにさせる場所でもある。

 綺麗に並べられた大小の頭蓋骨が夏月にささやいてくるようだ。

 物言わぬ頭蓋骨なのに、その存在は雄弁だ。

 自分たちは助けてもらえず、冥府にも行けず、こんな場所にうち捨てられているのだと切々と夏月に訴えてくる。

 ――生きているのだから、命の恩人には感謝なさい……。

 ――頭を下げるだけで生きていられるなら、いくらでも頭を下げなさい……。

 そんな言葉にならない声を聞いていると、体はぶるぶると震えて、寒さで気が遠くなりそうな状態でさえ、生きている証左に思えてくる。

「この……頭蓋骨は……」

 小さいほうの頭蓋骨を拾いあげ、夏月は言葉を詰まらせた。

 新しい頭蓋骨のなかでも、ひときわ小さいそれは、大人のものではない。手のひらに載る軽さに、ぎゅっと胸が苦しくなる。

 泰山府君は夏月の感傷などものともしないらしい。そっけない口ぶりで言う。

「おそらくは帳尻が合わないうちのひとつだろうな。おまえはもうわかっていよう。後宮という結界に封印されたこの場所は、天原国の祖霊廟なのだ」

 王を弑逆し、国を滅亡させてもなお、この土地深くに根づいた因習を簡単になかったことにはできない。風穴を破壊することも、またできない。

 ――すでに滅亡した国。もう忘れ去られていくもの。

 けれども、滅ぼした側の琥珀国の王だけは、自分たちの犯した罪を忘れられなかった。

 後宮という匣のなかの匣の奥に、自分たちの秘密をひっそりと隠したまま、誰にも見られないように、けれども失われないように、琥珀国の霊廟で覆い隠してまで祭壇を残した。

 泰山府君は長い足で祭壇の奥へと移動し、天原国の王の頭蓋骨を手にして言う。

「ここは琥珀国のなかにあって琥珀国ではない……いわゆる隙間の場所なのだ。滅亡した王国のなかの唯一残った霊域――その天原国の祖霊廟を覆い隠すように、琥珀国の祖霊廟を作り、そのまた外側を後宮の結界で封じている。普通の幽鬼では、呪術的な結界を越えて泰山に還ることができないのだろう」

 泰山府君が指先で印を結び、いくつもの霊符を操ると、頭蓋骨から白い靄のようなものが浮かびあがってくる。このまま行列のように連なって泰山へ還るのだろうか。

 夏月は神の行いをじっと見ていた。

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