第35話 頭蓋骨が多すぎる!②

「ひぃっ……」

 わかっていて持ちあげたのではなかったせいだろう。眼窩がんかのくぼんだ頭蓋骨を間近に見て、押し殺した悲鳴が漏れる。蝋燭を取り落としそうになり、慌てて持ちなおした。

 足下を照らして、また悲鳴を上げそうになる。壁の凹みに吹きだまるようにして、白骨化した頭蓋骨が累々とそこにあった。

「う……こ、これは……」

 霊廟に入れられた遺体という感じではない。たとえ地震があって石棺のなかにあった骨が片隅に集まったのだとしても、数が多すぎやしないだろうか。

「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……」

 重なっている骨をより分け、横一列に並べながら数えていくと、大きな頭蓋骨が十六、小さな頭蓋骨が五つあった。一カ所に固まっていたと言っても、自然に集まったにしても不自然だった。暗くてよく見えていないから、水のなかにも落ちている可能性は高い。つまり、少なくとも二十一人の死体と言うべきだろう。

「琥珀国の霊廟には十一体の白骨があり、わたしが確認したのは四体だけ。万が一、ほかの骨がここに集まっていたとしても、数が多すぎる」

 ――奇妙だ。一列に並べて、蝋燭の炎に照らしながら頭蓋骨を眺めていると、なにか引っかかるものがあった。

 違和感だ。ほんのわずかな染み、綻び。見えていて見えていないもの。

 夏月のなかで、その違和感が、なにかがおかしいとしきりに訴えている。

 

 あるいは、この部屋のなかに、この違和感を解読するなにかが隠れていないかと、蝋燭を掲げながらうろついているうちに、沓の先が水に触れた。

 さっき落ちた水だろうか。どうやらこの部屋は、祭壇のあたりだけがやや高く、ほかは低くなっているようだった。

「つまり、入口は水のなかにある?」

 どうせ全身が濡れているんだし、足がつくうちは先に進めようと水のなかを進んでいくと、急に足下から水が這いあがってきた。

「水面が高くなって……あっ」

 声をあげたときにはもう遅かった。水流に足を巻きとられるようにして、水のなかに体が沈んだ。

 そういえば、祭壇も水で濡れていたことに、いまさらながら気づく。

 天井までそんなに高くない風穴なのだろう。水嵩が増してくると、部屋は一気に逆巻く水で溢れかえる。部屋のなかが水で埋まれば、さっき落ちた穴から元の場所に戻れるのではなどと考えたのは一瞬だけだ。渦巻く水流に呑まれて、体はぐるぐると水のなかに沈んでいくばかり。苦しいと思う余裕もないくらい苦しい。

 ――水のなかで溺れるというのはこんなにも苦しいことなのか。

 子どものころに井戸に落ちそうなところからはじまり、夏月の十六才の人生のなかで、何度、水難の相が出ていたのだろう。兄弟子が助けてくれなかったら、とっくに溺れて死んでいたように、死と隣り合わせだった事故は何度もあった。

 蝋燭の火は当然のように消えていたが、持っていた硯だけは握りしめていた。

 自分の命の炎が消えた。消えてしまった。

 ――わたしの天命もここまでか。

 そう思った瞬間、苦しさのなかで、冥府の王の顔が頭をよぎる。

 ――『おまえの顔には死相が出ている』

 そう警告されていたはずなのに、真剣に受け止めていなかった。あるいは、死すべき運命さだめが来るのなら、それも仕方ないと、心のどこかで諦めていたのかもしれない。

 自分は死んでも仕方ないのかもしれない。そう思う一方で、ああ、でも、と夏月の心の片隅で抵抗する声がかすかにある。握りしめた硯の重みと、背中にしょった巻物と。そして、水流で乱れた髪を意識したとき、ようやく簪のことを思いだした。

 ――『代書屋の働きぶりに免じて、ひとつ、埋め合わせをしてやろう。おまえの命が危機に遭ったら、三度だけ助けてやる。どうしても進退窮まったときには、泰山府君の名を呼ぶがいい』

 冥府の闇は、泰山府君の御殿のなかだけが極光の輝きが揺らめいて、美しかった。

 神々は現世に生きる人間たちの苦渋を高御座から眺めるだけの存在だ。

 夏月のことを蟻と同じだと言った気まぐれな冥府の支配者は、幽鬼を地獄に追いやり、苦役につかせる残酷な神なのかもしれない。

 それでも、夏月にはいま、ほかに手段がなかった。体のなかに息が残っているかどうかも怪しい。空いたほうの手でどうにか簪に触れ、

「泰山府君、どうかお助けください」と呟いた。実際には、「ごぼっ、ごぼぼぼ」と口から泡が出てきただけで、まともな言葉になっていなかったが。

 また水の流れが速くなり、水底に引きずりこまれていく。

 苦しさのあまり、ふつり、と意識が途切れた。


        †     †     †


 少女の乱れた髪が縦横無尽に広がる様は、水流の見えざる手で命が奪われていくかのようだ。意識の途切れた体を気まぐれにもてあそび、さらに深い闇の底へと運んでいく。

 しかし、夏月の最後の祈りが神に届いたとき、冥府に並んだ、数多ある天命の蝋燭のなかで、いまにも消えそうにゆらいでいたひとつが、また炎の勢いをとりもどしていた。

 夏月の髪に挿した簪の先で、銀細工の狼が光を放ちながら揺れる。

 光を放ったまま、銀の狼はふぅっと大きくなり、まるで生きているかのように四肢を伸ばした。水のなかを感じさせない動きで、しなやかに跳躍する。人の体より大きくなった銀色の狼は、水流のなかで跳躍した姿のまま、足下から白い霊符に包まれていった。

 丸く霊符に包まれた姿は、かいこまゆになった姿を思わせた。

 霊符でできた張り子の繭だ。

 その真ん中でひらひらと揺れていた一枚が剥がれ、二枚剥がれ、そこから忽然と骨張った手が現れた。いくつもの指輪をはめた長い指が、硯を握りしめた手を掴む。死すべき運命をここから捻じ曲げようとする、強引な介入だ。ただの人間にできることではない。白い霊符は意志を持ったように蠢き、見えない壁となって水流に抗っている。手は、その霊符の繭のなかに夏月の体を強引に引きずりこんだ。

「水流反転」

 ただ一言、声が響いた。

 泰山府君の術である。人間が使う法術は祭壇を作り、術具を駆使した上で、長々しい祭祀や呪句を必要とするが、神の指先はわずかに動かすだけで岩が砕け、短い呪言は雷を呼ぶ力を帯びている。神が力を必要とするのはむしろ、足下にいる蟻を踏まないように動き、発した言葉で嵐を呼ばないように細心の注意を払うほうなのだった。

 繭の玉となった霊符は光を放ちながら、ゆっくりと上方へ移動していく。水底へ渦巻いていた水は、さかしまになり、今度は元来た場所へと竜巻となって巻きあげられていった。

 霊符の繭は、祭壇の近くへと浮遊していくと、そこで無数の蝶の形に変化して解き放たれ、なかから現れた青年の白い袖のなかへと収まっていく。

 もし、その様子を見ている者がいれば、長衣の袖は長いとは言え、そんなにいくつもの札が収まるのだろうかと不思議に思ったことだろう。残された数枚の霊符は、夏月の体を床に下ろしてから、顔を照らすように光り輝いた。

 青白い顔は、蝋でできているかのように青白く、冷たい。

「おい、代書屋」

 泰山府君が呼びかけても、ぴくりとも動かなかった。

 膝をついて、霊符を一枚額に貼り付けると、すっと夏月と唇を合わせた。

 神の恩寵というのは、衣服の裾に触れただけでも絶大な効果がある。ましてや、冥府の王、泰山府君は黄泉がえりの術で知られる神だ。夏月の魂を冥府へと連れ去ろうとした『死の相』を祓い、強引に現世へと繋ぎ止める術は、お手のものだった。

 白く透き通っていた頬に赤みが差し、急に水を勢いよく吐きだした。ごほっ、ごほっ、と苦しげな咳を吐き、水をどんどんと吐きだしていく。

 のどが逆流する苦しさなのだろう。ただでさえ濡れていた頬に涙を流している。ぜぇぜぇと荒い息を繰り返しているのは、呼吸が戻ってきたせいだ。

 霊符の明かりに照らされた夏月は、白い長衣を纏う貴人を見上げて、

「泰山府君……」

 とかすれた声を漏らした。

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