第4話
「ようやく涼しくなってきたね」
時刻は三時を回り、陽は可部の西に
「高校生もスマホか。俺も変えるかな……」
稔が祥子の手元を見て呟いた。祥子の手にはこの夏に発売された端末が握られている。
「友達もみんな持ってますよ」
祥子が言う「みんな」は「全員」という意味ではない。子供が使いがちな「みんな」だ。稔もそれは承知していたが、こんなところで老いを感じるにはまだ若すぎる。
稔は苦笑しながら自分の携帯をポケットから抜き出した。ストラップの端を摘まんでブラブラと吊るし上げられた携帯は、あちこちに擦り傷を負っていた。
「これ、もう四年使ってるんだよね」
その携帯が「まだ使える」と訴えかけるように、小さな表示窓を光らせて短い音を鳴らした。
「おっ、鮎川からだ」
頼んでいた公園のリストが届いたようだ。稔はメールの全文をダウンロードした。
「……ん?」
そこに書かれていたのは、鮎川の父が行ったことのある公園のリストだけではなかった。彼が仕事で回る公園は、広島市内と近隣の一部地域だけだ。どうやら気を回して、それ以外の地域で可能性のある公園やキャンプ場などをピックアップしてくれたようだ。数はそれほど多くない。だが、広範囲に散らばっていて、全ての場所へ足を運ぶのには相当な時間を要するだろう。
「今日は役所も休みか……。まあ、役所に聞いたところで、公園に植えられている木の種類が答えられるとも限らないけど」
稔は独り言のように呟きながら、親指を忙しく携帯のボタンの上で躍らせてから折り畳み式の携帯を閉じると、祥子の方に向き直った。
「ちょっと、コーヒーでも飲もうか」
「はい」
祥子は特別喉が乾いていたわけでもなかったが、稔の言い方にコーヒーを飲むだけではないという含みも感じたのでそう即答した。これから向かう喫茶店でも情報を集めるはずだ。
それにしても可部という街は色々な表情があると、祥子はほんの数時間歩いただけでこの街が気に入っていた。
稔は旧街道から国道の方へと向かって歩いている。国道へ出ると角に銀行があって、その隣のビルに稔が目指していた喫茶店があった。二階の店舗へと上がる階段の上り口に小さな看板が置かれている。分厚い板が貼られた階段を一段上がるごとに、焙煎されたコーヒー豆の香りが強くなってきた。
「いらっしゃいませ」
先に立つ稔がドアを開けると、カウベルの音と共に女性の声が聴こえた。
「こんにちは」
稔に続いて祥子も頭を小さく下げると、女性はニカッと笑った。
「なに? 稔君、とうとう彼女できた?」
「違うよ。依頼者。仕事」
稔はあらかじめそう言われることを予見していたかのように、素早く、且つ短くそう否定した。
「えー、でもわからんよー。これから先付き合ったりして。ねえ?」
女性は水をカウンターテーブルに置きながら祥子に向けてそう笑いかけていたが、祥子はそれに苦笑で答えるしかなかった。稔も呆れている様子だ。
「俺はホットで……木戸さんは?」
祥子は渡された手書きのメニューを一瞥してすぐに決断した。
「私はエスプレッソで」
祥子がそう伝えると、カウンターの奥の半畳程度のスペースに引っ込んでいたマスターが顔を覗かせた。
「ブレンドワン、エスプレッソワンでーす」
女性がマスターに伝えると、マスターは「ん」と返事らしき声を出して、エスプレッソマシーン上部のカップウォーマーに並べられたカップを手にした。
なんだかいかにも職人って感じだな、と祥子は思ってその動作を眺めていたが、祥子と目が合った瞬間、マスターもニカッと笑った。
「稔君の彼女だって?」
稔が否定していた言葉は聞こえていなかったのか、マスターも同じことを言った。
「だから違うって。で、マスター。ちょっとこれ見てもらいたいんだけど」
マスターが首にぶら下げていた小さなレンズの老眼鏡をかけて、稔が渡した写真を見た。
「お、初代ザッパーが二台並んどる。ええのぅ、誰の写真?」
「あ、私の祖母のなんですけど……」
祥子が肘を脇に付けたまま小さく手を挙げると、マスターは「へー」と目を丸くさせて再び写真に目を落とした。その様子を見ていた祥子も口には出さなかったが、「へー」と感心していた。同じ写真でも、人によってまるで着眼点が違う。ここのマスターはバイクが好きなようだ。
「で? この写真がどしたんね?」
「タンクにステッカーが貼ってあるでしょ? どこのツーリングチームのかわかるかなあって」
稔の言葉を聞いて、マスターは写真と目との距離を微妙に動かしながら凝視し、やがてカウンターの奥へと消えた。
「あの、バイクの持ち主は後でも……」
祥子が小声で稔に言うと、稔は「わかってるよ」と優しく微笑み、さらに続けた。
「でも、相手がわかれば直接聞けるだろう? 時間もないし、多方面から攻めないとね」
「……そうですね」
やや俯く祥子に、稔は少し首を傾げた。
「お待たせしました」
写真に集中するマスターと交代してコーヒーを淹れていた女性が、二人の前にカップを置くと、祥子は大きく息を吸った。
「あー、いい匂い」
ついさっき曇って見えた祥子の表情も、細い湯気が立つエスプレッソを前に明るくなっていた。それを見て稔の表情も柔らかくなる。
祥子は小さなエスプレソカップに、茶色い
「おねえさん、コーヒー好きなんだ。高校生?」
「あ、はい。そうです」
祥子はそう答えると、エスプレッソに沈んだザラメを掬って口に運んだ。疲れを吹き飛ばす甘味と、頭を冴えさせる苦みが同時に襲ってくる。今度は軽くかき混ぜ、カップの半分ほどを一気に喉に流し込んだ。鼻を抜ける香りは爽快ささえ感じられ、至福の一杯と呼ぶにふさわしい。祥子はその感想をひと言で発した。
「おいしい」
あまりにも美味しそうに飲む祥子を見て、普段メニューも見ずにブレンドばかりを飲む稔も、今度はエスプレッソを飲んでみようと思わされていた。
「うんうん。……あ、そうねえ。へー。……うん、ありがとう。ほいじゃあ、また」
会話を終える挨拶を電話の相手と交わしながら、マスターが奥から戻ってきた。
「稔君、誰のバイクかもわかったでー。百万じゃの」
思わぬ進展に、祥子は
「金額設定が子供じゃん……。で、どこの誰?」
「うん。わかったんじゃが、もう亡くなっとるって。ほい、この人」
マスターはそう言いながら、メモした紙を稔へと渡した。
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