第5話
祥子の自宅からは宮島が見える。宮島の
喫茶店のマスターが渡したメモには、島根県奥出雲、出雲横田駅近くの蕎麦店の名が書かれていた。バイクの持ち主だった人物の息子が営んでいるらしい。
可部の街を出て二時間。車内での会話のほとんどが食べ物に関することだったのを、祥子は若干後悔していた。その挽回というわけでもないだろうが、目的地に近づいて、話題を依頼内容へと戻した。
「結局、場所より先に人が見つかっちゃったんですよね……」
「亡くなってたけどね」
ステアリングを握って正面を見たまま返した稔の言葉を耳にしても、祥子は山よりも赤く燃える雲の流れを見ていた。
「……亡くなってるだろうって予想はしてたのかい?」
若いとはいえ、さすがは探偵といったところか。言い当てられて祥子は頷いた。
「毎月七日、祖母は出掛けていました。何年か前に大雪の降った一月だけはさすがに家族に止められていましたけど、私が生まれる前から続いていたみたいで」
祥子が話し始めると、稔は少し車のスピードを落とした。
「何をしに出掛けていたのかは知ってたんだね」
「はい。一度父がバイクで出掛ける祖母をこっそり車で追いかけたことがあったので」
「聞いてもいいかな? 何をしていたのか」
今回の依頼を遂行するだけならば、そのようなことを聞く必要はないかもしれない。だが、稔にはそれを聞かねばならない理由があった。
「中本探偵事務所って、ちょっと変わっていてね。探偵社っていうと、どこも浮気調査や素行調査が主な収入源なんだけど、うちは違う。戦前に起業した時から変わらないポリシーがあるんだ」
稔の視界に目的地の蕎麦店が映り、アクセルペダルから足を浮かせてさらにスピードを落とした。
「依頼された調査によって、一人でも不幸になる人間を作ってはいけないっていうね……」
それを聞いた祥子は、腑に落ちる物を感じていた。稔が可部の街で聞き込みをしている時に見せていた相手の反応だ。誰もが何を調べているのか聞く前に、快く耳を傾けてくれていた。稔の人柄だけではなく、これまでに築いた信頼関係というものがあるのだろう。
「花を供えていたそうです。道路に。直接父から聞いたわけじゃないんですけど、母に『お墓だったら誰に供えているかわかるのに』とも言ってました」
祥子が話し終えると、車は静かに停止した。目的地の駐車場に到着したのだ。夕方の五時過ぎ、週末ということもあってか、駐車場は空車の方が少なくなっている。
「お婆さんにとって、凄く大切な人だったんだね。……じゃあ、行こうか」
外は祥子が想像していたよりも暖かかった。空に広がった雲が、昼間の熱を閉じ込めているようだ。少し重い足取りの祥子の先を、稔は空を見上げながら歩いている。入り口の前に辿り着いて、
「星は出てないね」
稔は祥子が後ろに立ったのを確認すると、そう呟いて入り口のドアを開けた。
店内は蕎麦と出汁と
「老いしもおいしい……」
「ん?」
店内に入って口にした祥子の言葉に、稔は首を傾げた。店員に席へと案内された後、稔はその言葉の意味を祥子に尋ねた。
「よくわかりません。おばあちゃんがよく言ってたんです。どういう意味か、はっきりと教えてもらったことはないんですよ。おいしい物を食べた時にも言ってたし、自分で『年を取ったな』って言った後にも『老いしもおいしい』って」
「ああ、老いしもって、年を取ってもって意味の『老いしも』ね。ふーん、響きは面白いね。老いしもおいしい、か」
稔がそう話していると、店主がメニューを持ってきた。
「いらっしゃいませ」
店主はそう言ってメニューとお茶を置くと、立ち去らずに二人に微笑みを向けていた。
「懐かしい言葉を聞きました。お客さんで『老いしもおいしい』ってよく言われていた方がいらっしゃったんで」
店主の言葉に、祥子は思わず身を乗り出した。
「あの、その人って?」
「え、ああ。私の母の古い友人です。ここ二年ぐらいはお見えになってないですけど」
二年前と言えば、祥子の祖母がバイクで転倒して車いすの世話になり始めた頃だった。あの頃の祖母は「二輪の車いすはないのか」とふざけて言っていたが、その後、日に日に元気をなくし、一年前に病気になってからは衰弱するのが早かった。正に翼をもがれた鳥だ。
「お母様の友人、ですか……」
「ええ。そうです、けど……」
祥子のただならぬ雰囲気を見て少々戸惑う店主に、稔は写真を差し出した。
「あの、この写真に見覚えはありませんか?」
店主はその写真を見て、「あっ」と小さく溢すと、祥子に視線を向けた。
「もしかして木戸さんのお嬢さん……じゃないか。お孫さん?」
「はい、そうです」
祥子は笑顔を浮かべてそう答えたが、店主はその笑顔に寂しさを感じたのだろう。若い二人が古い写真を持って訪ねてきたということもある。
「木戸さんに何かあったんですか?」
店主にそう質問され、祥子は複雑な気持ちだった。改めて祖母を失った悲しみと、遠いこの地にも祖母を慕う人がいるのだという喜びが交互に襲ってくる。
「祖母は亡くなりました。明日が四十九日で……」
長らく姿を見せなかったということもあり、店主もある程度予測していたのだろう。「残念ですね」と返した言葉の中にも、仕方のないことだと割り切るものがあった。祥子も既に仕方のないことだと認識している。残された者に寂しさはあるが、祖母本人の人生は幸せだったはずだ。
だが、改めて写真を眺める店主から零れた言葉に、祥子は少し落胆した。
「これ、どこなんでしょうね……」
「ご存知じゃなかったですか」
明らかにこの写真を見たのが初めてではない反応を見せた店主に、稔も場所を知っていると予想していたのだろう。「知らない」と首を横に振った店主を見て、小さく溜息を吐いた。
「随分前に木戸さんから見せて頂いたことはあるんです。でも、私もその時は、なんというか……。木戸さんには失礼な態度を」
それを聞いて祥子と稔は首を傾げた。店主は店内を見渡し、壁に掛けられた時計を確認した。
「あの、お食事が済まれたら、少しお時間よろしいですか?」
主人の言葉に二人は何度も頷いた。
「もちろんです。こちらこそお願いしようと思っていました。しかし、お仕事の邪魔には……」
稔たちの
「構いませんよ。蕎麦を打つ私の仕事は、午前中で終わっているようなものですから。いつも下手な接客をしては娘に叱られて『お父さんはお風呂にでもどうぞ』なんて言われてます」
店主はそう言うとレジの方に視線を向けた。そこには、稔たちを席へと案内した店員がこちらに、というよりも、店主に睨みを利かせている。
「それは手厳しいですね。それじゃあ、お言葉に甘えて」
「それでは、何をお持ちしましょうか?」
店主がそう言って祥子は慌てた。まだメニューを見てもいない。だが、稔はメニューを見るまでもなく、既に何を食べるか決めていたようだ。
「割子三枚にとろろを付けて。祥子ちゃんも同じでいいかい?」
「ふぇ⁉ あ、はいっ!」
突然名前で呼ばれた祥子は、思わず了承した。なぜ突然名前で呼ばれたのか気になったが、それは一瞬のことで、「割子三枚にとろろ」とはどういう物なのか。その聞き慣れない暗号のような言葉に、祥子の頭の中では蕎麦が舞っていた。
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