第3話
祥子は所長に代わって向かいに座った息子の稔に、まずは自分の願いを伝えた。
「その写真の場所が知りたいんですけど……」
祥子がその先の無茶な願いまで口にできたのは、お好み焼き屋で稔の笑顔を見たからだろう。この人なら少々の無理も聞いてくれる。できる、できないはあるだろうが、最善を尽くしてくれるはずだ。そう感じていた。
「できれば今日中にその場所に行きたいんです」
「今日中に? どうしてまた……」
祥子の予想通り、稔は少々怪訝な表情は見せたものの、それを面倒な話だとは捉えていないようだった。
「明日が祖母の四十九日なんです。天国に行く前に、最後に連れて行きたくて」
その話を聞いた稔は、微笑みを浮かべて頷いている。
「なるほどね。でも、天国じゃなくて極楽浄土なんじゃないかな?」
「え?」
「何が違うのだろう」と顔に書いてある祥子に向けて、稔は再び微笑んだ。
「とにかく急ぎましょうか。最悪法要までに間に合えばいいとしても、あと二十時間もないでしょう。誰とこの場所に行ったのか、というのは? それも急ぎですか?」
「いえ、それは急がなくてもいいと思います」
その依頼は祥子の父の依頼だ。夜のツーリングデートの相手が誰だったのか。それに全く興味が無いわけでもない祥子だったが、父に騙されたことに対するちょっとした怒りが、祥子にそう答えさせた。
この写真は、父の手によってあの場所に隠されたに違いない。祥子はそう考えていた。
「わかりました。それじゃあ、早速行きましょうか」
思わぬ言葉と共に立ち上がった稔に、祥子は再び「ふぇ⁉」と変な声を出してしまい、慌てて自分の口を手でふさいだ。
「『行きましょう』って、もうどこかわかったんですか?」
「そうだったら良かったんだけどね。残念ながら……。これがどこかを知りたいだけじゃなくて、今日中に行きたいんでしょう? それなら一緒に行動したほうがいい。もちろん、木戸さんにお任せしますけど」
「行きます! 一緒に調べます!」
考えるまでもなく、祥子は稔と共に調査する道を選んだ。
「まずはここで聞いてみよう」
稔について歩いていた祥子は、「ここ」と言って稔が指さした先に首を傾げた。築百年近く経っているであろうその建物には「鮎川醤油醸造所」と右から左に書かれた木製の看板が掛けられていた。
「なぜ醤油屋なんかに」という祥子の疑問は置いてけぼりに、稔は鮎川醤油醸造所の門を潜った。
「こんにちは」
稔が敷居をまたいだ所で声を掛けると、奥から若い男の声で「はーい!」と返事があった。
「いらっしゃ……なんだ、稔かよ」
「忙しいとこすまん」
「忙しくねえよ。嫌味か?」
速いテンポの会話に、初めてこの二人のやり取りを聞いた祥子でも、毎回同じような言葉を交わしているのだろうと容易に推測できた。
広い土間の奥へと進む稔に続いて、祥子も建物の中へと入った。
「お邪魔します」
「稔の彼女?」
「違うよ。依頼者」
稔は祥子が照れる暇も与えず否定した。
「で、おじさんに聞きたいことがあるんだけど。いるかな?」
「いるよ。ちょっと待ってろ」
男がそう答えて長い暖簾を潜り奥へと消えると、「親父ぃ!」という声が二度聴こえた。
やがて静かになった土間を、祥子は改めて見渡した。そこは醤油を扱っているようには見えない。壁の棚に並んでいるのは一升瓶などではなく、アンティーク雑貨の数々だ。それでも微かに醤油の匂いが香っていて、特別醤油と縁があるわけでもない祥子をも懐かしい気分にさせた。
「いらっしゃい、稔君。聞きたいことがあるって?」
現れた主人は、目が合った祥子に軽く会釈しながら稔の前に立った。
「お休みのところすみません」
稔が「お休みのところ」と言ったのは、その主人が起毛の肌着に股引という格好をしていたからだろう。
「この写真なんですけど、どこだかわかりませんか?」
主人は写真を受け取ると、雑貨が並ぶ棚へと向かって歩いた。そして、棚に置いてあったアンティークのスタンドルーペを格子窓側へ移動させ、写真を覗き込んだ。
「うーん、どこか水辺のようだね。これは桜かな……」
「多分そうだと思います。裏にヒントが」
「ヒント?」
主人はルーペの下から写真を出して裏返した。
「ああ、確かに桜とは書いてあるね。しかし意味まではわからんなぁ。わしは和歌の類なんか詠まんし。でも、桜だとしたら間違いなく整備された公園だろうね。どこの公園かってとこまではわからんけど」
主人は唇を少し噛んで申し訳なさそうに写真を稔に返した。
「そうですか。でも、おじさんがわからないってことは、仕事で行かれていた公園じゃないってことですよね?」
「うーん、そうだと思うけどな。だけど、わしが公園の整備を手伝い始めたのは、ほんの五年前だし。その前にこの木が朽ちていたり、逆に木が増えていたりしていたら……。まあ一応今まで行った公園のリストだけは、すぐに纏めて息子経由で教えてやるよ」
「すみません、助かります」
頭を下げる稔に倣って、祥子も頭を深く下げて鮎川醤油醸造所を去った。
すぐに大きな手掛かりが掴めるとは思っていなかった祥子だったが、想像以上に難しそうだと感じていた。やや肩を落とす祥子の一方で、前を歩く稔はそれなりの成果を得たと満足していた。
「次はここで聞いてみるから」
五分と歩かず次の目的地に着いたようだ。足元ばかりを見て歩いていた祥子が、稔の声で顔を上げた。そこにあったのは、これまた歴史のありそうな建物だったが、先ほどの鮎川邸とは違いコンクリート造の建物だった。共通点は看板の文字だ。壁にはやはり右から左という向きで「サヤシ写真館」と書かれていて、その下にはSINCE1913とある。つる草模様の装飾がされている壁には、馬を繋ぐための金具もそのまま残されていた。
今度は「なぜ写真館なんかに」などとは祥子も思わなかった。写真のことを写真館に尋ねるのは当然のことだ。だが、稔の意図はそうではなかったらしい。
「こんにちは」
扉を開けて稔が声を掛ける。可部という街の商売人は、店頭に立っていないものなのだろうか。今度も奥から「はーい!」と返事があった。女性の声だ。そして、祥子もまさかとは思っていたが、顔を出した女性は醤油店の青年と同じ反応をした。
「なんだ、稔ちゃんか」
「忙しい時分に申し訳ありません」
「いいのよ。根詰めてたから、丁度息抜きしたかったし」
醤油屋とは違い、この写真館は本当に忙しいようだ。写真館というものを一度も利用したことがない祥子には意外に思えたが、稔の言葉で得心した。
「もう修学旅行は全部終わりましたか?」
「昨日ね。でも、昔に比べたら楽になったわ。現像しなくてもいいんだもの。データを纏めてCDに焼いて終わり。卒業アルバム用の写真も、生徒さんがピックアップしてくれるからね。で、稔ちゃんの用は何?」
稔は早速写真を女性に手渡した。裏側を上にして。
「『神の矢を運ぶペガサス跳ねる空、淡く照らして星夜の桜』か……。ふーん、ロマンチックで綺麗ね。でも、少し自信家。彼氏を勇猛なペガサスに例えているとしたら、作者は星明りに淡く照らされる桜の花よ。自分を桜に例えるなんて。それとも、そうでありたいという願望かしら」
女性は表の写真を見ずに稔へ返そうとした。
「表の写真も見て下さい」
稔に言われて女性が表を見ると、眉間に皺を寄せた。
「随分焼けてるわね。皺もついてるし、持ち歩いていたのかしら」
「それ、どこかわかりますか?」
稔の後ろからひょこっと顔を出した祥子が女性に尋ねた。
「あら、可愛らしいお嬢さんね。この方の依頼?」
女性は祥子の質問に答えるよりも先に、稔にそう質問した。
「そうなんです。で、撮影場所なんかはわかりませんか?」
「これだけじゃねえ……。でも、こんな立派な寒桜が一本植えられている所なんて、そう多くはないと思うけど?」
「寒桜、ですか?」
稔と祥子が異口同音に発した。
「ペガサスっていったら、秋の大四辺でしょう? 秋の大四辺が見える時に咲く桜なんだから寒桜じゃないの? 捏造かもしれないけれど……」
女性の言葉に、稔と祥子は目を合わせた。その女性が言うには、短歌は基本的に小説と同じらしい。見たまま、感じたままを三十一文字に写すわけではない。多少なりとも事実を改変してより良くするのが常らしい。それを聞いた祥子は、写真には写っていない満天の星と、桜の花、さらには美しい思い出をファインダーから覗こうとする祖母の姿も写真の中に見えた気がした。
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