第2話
見つけてしまった写真を、再び壁と額縁の隙間に押し込むのは忍びない。祥子はすっかりカーペットの上で動かなくなった母に小さな溜息を落として、写真を片手に父がいる和室へと向かった。
「ねえ、お父さん」
祥子が父の背中に声を掛けると、父は床の間を乾拭きしていた手を止め「んー?」と言いながら腰に手をやり背中を伸ばした。その姿を見て「年寄り臭い」と思った祥子だったが、それは口に出さなかった。
「この写真、見覚えある? どこで撮った写真だか知らない?」
祥子がそう言って、見つけた写真を父に差し出すと、父は「いいや」と首を傾げて写真を裏返した。そこに書かれた文字を見ても、やはり首を傾げる。
「この写真って、どこにあった?」
祥子が壁に掛けてある祖母の写真の裏に挟まっていたと告げると、父は無精ひげの生えた顎を左手でさすった。どうにもわざとらしい動きだ。十秒ほどもそうしていたであろうか、何かを思いついたらしい父は、立ち上がって押入れを開けた。
「お父さんはこの写真、今まで見たこともなかったし、多分お母さんも見たことないだろうね。親戚の誰かか、弔問に来た誰かか……」
そう話しながら祥子の前に戻ってきた父の手には、年賀状の束が握られていた。祖母に送られてきたものだ。年賀状を束ねていた輪ゴムを外すと、一枚ずつ確認していった。
「あった。ここに聞いたらわかるかも」
そう言って父は僅かに笑みを浮かべて一枚の年賀状を祥子に渡した。
「中本探偵事務所? おばあちゃんの知り合いに探偵なんていたの?」
文面側を見ると、印刷された文章と絵の隙間に、ボールペンで「お元気ですか?」とひとことだけ書かれている。
「なんか胡散臭い……」
「ん? なんか言ったか?」
祥子が呟いた言葉は、父には届かなかったようだ。祥子も父に届けるつもりで発した言葉ではなかったので「なんでもない」と返して続けた。
「おばあちゃんの壁の写真って、お葬式の直前にお父さんが飾ったんだよね?」
「そうだよ。もちろんその時には何もなかった」
祥子の顔を覗き込むようにそう言った父の視線を躱すように、祥子は年賀状を眺めた。
「……
中本探偵事務所。住所は広島市
「それじゃあ、電車賃とご飯代を渡しとこう。本当は車で乗せてってあげたいけど掃除があるから、ね。お父さんまで出掛けたら、お母さんに怒られちまう」
父は、リビングで眠る母の様子を伺いながら、クローゼットハンガーに仕舞ってある背広から財布を取り出した。
「今は暑くても、夜は冷える。上着、持って行けよ」
写真と一緒に一万円札を差し出した父に、何と言えばいいのか、胸に広がるモヤモヤをどう表現したらいいのかわからないまま、祥子は手を伸ばして「ありがとう」とだけ口にした。
「先方には孫娘が行くって電話しとくから」
「うん、わかった。じゃあ行ってくるね」
ちょっとした冒険へ出発だ。祥子は写真と一万円と少しの興奮を胸に、まずは駅へ向けて自転車のペダルを踏みこんだ。
道を歩けばお好み焼き屋にあたる。
祥子が可部駅を出て中本探偵事務所に向かって歩き出すと、五分も歩かぬうちに三軒のお好み焼き屋があった。そのいずれもスルーしてきた祥子だったが、それは決してお好み焼きが嫌いだったわけでも、一人で店に入るのが恥ずかしかったわけでもない。広島駅で乗り換えの際、売店でサンドイッチを買い、ホームで電車を待つ間に紅茶と共に胃の中へ収めたばかりだったからだ。
「四軒目……。私の我慢も、仏の顔も三度までだもん。仕方がないよね。ここまで歩いてきたし」
高い空に向かって言い訳をした祥子は、店に入って鉄板の前に座ると同時に「肉玉そば」と幸せになる呪文を唱えた。
「普通のそばでいいの?」
祥子のオーダーを受けて、恰幅のいい婦人がヘラ同士を擦って小気味良い音を立てながら聞いた。
「えっと、普通じゃないのって?」
祥子が聞き返すと婦人は少し笑みを浮かべ、カウンターの隅に座ってマンガを読みながらお好み焼きをつつく学生風の男の前に立った。
「ちょっと頂戴ね」
夫人はそう言うと、返事も待たずに青年が食べているお好み焼きのまだ手を付けていない部分をヘラで切り取り、鉄板の上を滑らせて祥子の前まで運んだ。
「辛子を練り込んであるそば。ちょっと食べてみて」
「え、じゃあ、いただきます」
予想外の展開に、祥子は少々戸惑いながらも有難く目の前のひと切れを口へと運んだ。婦人は祥子の反応をじっと見ている。ひと切れを奪われた青年は、器用にマンガへ視線を向けたままで、ヘラをお好み焼きと口の間で往復させている。見ず知らずの女子高校生に、自分のお好み焼きが食べられているとはまるで気づいていない様子だ。
祥子は顎を動かすごとに表情を変えていた。
「目は口程に物を言うって、こういうことなのね」
婦人は自分の心の内から零れた言葉に、幸福そうな笑みを浮かべて頷いている。それ以上に幸福そうな顔をしているのが祥子だ。
「おばさん、これ……」
言葉を探している。「おいしい」というだけでは伝えきれない何かを言おうとしているのが理解できて、婦人はそれだけで満足だった。
「ピリ辛麺でいいね?」
婦人がオーダーを改めて確認すると、祥子は三度頷いた。
「はいっ。お願いします」
婦人が「はいよっ」と答えて、鉄板の上に生地で丸い円を描いた。その上に振りかけたかつお粉が上昇気流で舞う。千切りにされたキャベツが鉄板の上で新緑の山を築いたとき、カウンターの隅に座っていた青年が立ち上がった。
「ご馳走様でした」
カーゴパンツのポケットから抜き出した拳を広げ、そこに握られていた硬貨をカウンターに置くと、青年は祥子の方を見た。二人の目が合うと、青年は少し笑った。
「おいしかったでしょう? 今の時期の、固くて甘みの強いキャベツだから特に。麺の辛さとキャベツの甘さがお互いに引き立て合っている」
祥子は面食らった。取られたのを気づいていないものとばかり思っていた。その驚きのせいで、立ち上がって頭を下げたときに変な声が出た。
「ひゃいっ! ……いや、あの、ご馳走になりました。すごくおいしかったです」
「だってさ、おばさん。よかったね」
青年は笑ってそう言い残し、マンガを本棚に戻して店を出て行った。
「ご馳走様でしたあ」
何とも言えない充実感を胸に、店を出た祥子は駅から歩いてきた道を戻っていった。
「いやいや、お好み焼き食べに可部まで来たんじゃないんだから」
満足しすぎて本来の目的をすっかり忘れて帰ろうとした自分の脚を拳で叩いて、祥子はスマホの地図で中本探偵事務所の場所を確認した。
うだつが上がった家屋が並ぶ街道沿いに、中本探偵事務所が入っている雑居ビルがある。祥子が入ったお好み焼き屋まで戻ると、そのビルは目と鼻の先だった。
エレベーターのない四階建てのくたびれた雑居ビル。そのビルの外側には、探偵事務所があるとわかるような看板などはない。恐る恐る祥子が階段を上って四階まで行くと、「中本探偵事務所」と書かれた小さなプレートが貼られているドアがあった。
中で何人かが談笑する声が漏れ聞こえてくる。祥子がイメージしていた探偵事務所とは随分違う雰囲気だ。ノックをするとその談笑が止み、中年の女性の声で返事があった。
「すみません、木戸といいますけど……」
祥子がそう声を掛けながらドアを開けると、カウンターの向こうに立てられたパーティションから、声の主の女性が顔を覗かせた。
「
「はい。お邪魔します」
祥子が後ろ手にドアを閉めると、再びパーティションの奥に姿を消した女性が、空の湯呑をお盆にのせて出てきた。
「そこのソファーにお掛けになって下さい」
女性が指し示したソファーの向かい側には、スーツ姿の男が座っていた。祥子は、刑事ドラマの警部役で出てきそうな渋いオジサンだ、と感想を持つと同時に、誰かに似ていると感じたが、それが誰かはわからない。
その渋いオジサンが懐に手を入れた。拳銃を抜き出して構えたら様になるだろうな、と妄想していた祥子だったが、当然手に握られていたのは拳銃ではない。名刺入れだ。
「所長の中本です。お父さんから大まかな話は聞いています」
差し出された名刺を受け取り、祥子は頭を下げた。名刺には、「中本探偵事務所 所長 中本
「では、早速例の写真を見せて頂いてもよろしいですか?」
「はい」
祥子は父に感謝した。人見知りをするタイプではないが、それでも探偵事務所という日常からは少し外れた場所だ。多少なりとも緊張していた。一から説明するとなれば、それなりに手間取っていたかもしれない。
祥子が写真をテーブルの上に出すと、所長は手に取り、すかさず裏を見た。そこに文章が書かれていることも聞いていたのだろう。
「なるほど。面白い短歌ですね」
「短歌?」
祥子が首を捻っていると、所長は声に出してその短歌を読んだ。
「神の矢を運ぶペガサス跳ねる空、淡く照らして星夜の桜。……短歌でしょう、これ」
確かに短歌のリズムだった。文字を目で追っていただけでは気づかなかったが、実際に音にすると心地よい響きがあった。
「で、この写真が撮られた場所と、一緒に居たのが誰かを特定すればいいんですね?」
「え? 私は場所さえわかればそれで……」
「……そうか。なるほどね」
祥子の返事を聞いて、微妙な間があった。それに、何が「なるほど」なのか。写真を見つけてからのことを思い返していた祥子が、少しずつ眉間に深く皺を掘っていった。
「お父さんめ……」
祥子の独り言が耳に入ったのか、所長がニンマリと笑った。
「とりあえず、早速これがどこか調べてみましょう」
所長は祥子にそう言うと、事務所の奥に向かって声を掛けた。
「
「はい」
返事と共に祥子の前に姿を現したのは、お好み焼き屋にいたあの青年だった。
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