星夜の桜
西野ゆう
第1話
それは初めて彼女の身近で起きた死から始まった。
二〇〇九年十一月七日土曜日。
この日は家族総出で朝から自宅の掃除を念入りにしていた。翌日の日曜日は、祥子の祖母の四十九日だ。親戚を迎える居間は特に時間をかけて掃除している。試験期間までにはまだ余裕がある祥子も、当然その手を忙しく動かしていた。だが、動いているのは手だけではない。連動しているのかと疑いたくなるほど、口もよく動いていた。
「四十九日ってさあ、亡くなって四十九日目にやるんじゃないんだね」
祥子は拭き掃除が終わったフローリングに、ホットカーペットを敷きながら口にした。祥子と反対側でカーペットの角を伸ばしている母は、それに相槌だけを打って手を進めている。
「ぴったし四十九日目でやらなきゃいけないって法律でもあればさ、水曜日に学校休めたのに」
その言葉にも、母はやはり「そうね」と短く答えるだけだった。
「あー、汗出てきちゃった。ねえ、これ、出すの早すぎない? 今日なんて予想最高気温二十五度って言ってたよ。夏日だよ、夏日。……よいしょっと。あとはテーブル戻したら終わり?」
祥子は敷き終わったカーペットの上で肩幅に足を広げて立ち、左手を腰に、右手の甲で額の汗を拭った。
「祥子、どうせなら真ん中に立って。角を引っ張るから」
「ん……」
母の申し出に、言われた通りカーペットの真ん中に立つ祥子の視線は、膝をついてしゃがむ母の頭に向かっていた。最近本人が増えてきたと言っていた白髪は、綺麗に明るめのブラウンに染められている。
祥子はカーペットの周りをまわる母に合わせて、なんとなく身体を正面に向けていた。しゃがんでカーペットの角を持つたびに、何やら母が祥子には届かない大きさで呟いている。どうやら思ったように皺が伸びてくれないカーペットに悪態を吐いているようだ。
「もうっ!」
ついつい大きくなった声が母の口から零れて引かれたカーペットは、祥子の身体をほんの少し揺らした。
それでも半年の間折りたたまれていたカーペットの皺は思うように伸びてくれず、母は自分の両膝を思い切り叩いた。その音がリビングに反響してしまうほど、それはもう思い切り。
「祥子の言う通り、早いかもね……。でも、せっかく拭き掃除までしたんだもの。今日やらない手はないでしょ?」
母はそう言って自分の身体をカーペットの上に投げだした。正座の状態から、ヘッドスライディングをするかのように。そして寝返りを打って仰向けになると、そのまま目を閉じた。
「お母さん、この皺が伸びるまでここで重しになってるから」
一度横になってしまうと、中々起き上がらない母だと認識している祥子は、首の骨が軋むほどガクリと項垂れた。
「お昼ご飯はどうするの?」
時刻はまだ十一時前だったが、食べることをこよなく愛する祥子にとって、休日の昼食というのはテストの結果よりも気になる。
「うーん……。今日はカップ麺さえも面倒ね。ピザ、かな。おばあちゃんも好きだったし、ピザ」
祥子は、母が最初に「ピザ」と言葉を発した瞬間に、リビングの隅に避けてあるテーブルの上のスマホを掴んでいた。
「お父さーん! お昼はピザだって! マルゲリータでいいよね!」
祥子は和室の掃除をしていた父に向かって叫んだ。
「おう! あとチキンな。フライドチキン。手羽元のヤツ」
父は真面目に掃除をしているらしく、リビングに顔を出すことなく声だけ返した。
「おばあちゃんは何かリクエストある?」
祥子はそう言って壁に飾られた写真を見上げた。写真の中の祖母は、バイクに跨って両手でVサインをしている。
「あれ? なんだろ?」
A4サイズでプリントアウトした写真。その写真を収めた額縁の奥から、小さな三角形が顔を覗かせている。祥子は食卓の椅子を踏み台に、額縁と壁の間からはみ出した三角形の頂点を摘まんで引き抜いた。少し厚めの紙だ。大きさは祥子の手のひらと同じくらいの長方形。そこには細い毛筆で文字が書かれていた。
――神の矢を運ぶペガサス跳ねる空
淡く照らして星夜の桜
「おばあちゃんが書いたのかな?」
祥子はその文章を三度繰り返して読んだ後、紙を裏返した。
セピア色に変色した写真だ。人物は写っていない。写っているのは二台のバイクと一本の樹。おそらくこれが桜の樹なのだろうと推測するも、フラッシュの光は桜の花の前に立ちはだかる闇に吸い込まれたのか、その姿を照らしていない。また、
「どこなんだろ……」
好奇心は祥子のピザへの興味をも殺していた。
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