束の間の非日常
「……さらばじゃ。短い間じゃったが、楽しませてくれた礼として私の
少女の右手から湧出する魔力によって周囲の空間が水面に紫を垂らしたように淀みだす。不可解な現象に困惑する魔族をよそに、紫の靄は鎖の形状に変化して魔族を捕縛した。魔族は怪訝な表情を浮かべながら振り払おうとするも、すぐに何かに気づいたように顔を歪め、
「な、なんだこの質量は……、なんだこの術式は……⁉」
「魔術によって疑似的に金属の構造を再現することで解呪を防ぎ、闇属性を応用することにより質量を付加する。大地と熱い接吻を交わしたくなければ、全力で空中制御を保って見せることじゃな」
「元魔王軍幹部である俺を……舐めるな!」
魔族は隠していた翼を広げて全力で羽ばたくも、その高度は少しずつ下がっていく。もがけばもがくほどに鎖の束縛は強くなり、ついにはもがくことすらできなくなる。そんな様子を見て、少女は一つため息をついた。
「魔族は断末魔にこそ本当の力を発揮すると言われていたが、あれは最後まで気を抜かないためのつまらん作り話だったようじゃな……さて、あとは神とやらに任せるとするか」
シリウスは再び手をかざし、目を見開いた。
「
その詠唱は息継ぎの間に魔術陣を構築したことを、そんな神業を最も簡単にやってのける少女の異常性を物語っていた。そして、瞬く間に魔族の足元に重厚な鉄門が出現し、軋みを上げながら魔族を飲み込むべく口を開ける。
「この光……まさか天界の……⁉」
「向かう先は地獄か天獄か。自分自身が一番わかっておるじゃろう。人間が信じる神はえらく人間贔屓じゃからな」
門から差し込む光が最高潮まで達したとき、光の中心から一目で美しい女のものだとわかるほどに滑らかで白い腕が現れる。それは、死者を連れ去る死神の、あるいは神の下へといざなう天使の片手。優しくなでるように筋肉質な魔族の足に触れ、包み込むように掴んだまま離さない。
「くそったれの唯一神め……! 魔王様の封印が解かれれば貴様など!」
「そんな何十年先かもわからない未来に期待するなど、魔族も人も変わらんのう。じゃが、人と違って貴様らは力を得た代わりに神からは見放されている。精々自分の力で藻掻いて見せることじゃな」
魔族は全身の筋肉を隆起させると、その体に纏わりついた鎖が鉄を打ったような金切り音を上げて弾け飛んだ。重力と束縛の枷から解放された魔族はその勢いのまま距離を取ろうとするも、門の中から出現した大量の手がその足首をより一層強い力で抱え込み、そのまま引きずり込んでいった。
「やはりまだ力を隠しておったか。じゃが、その程度の翼では自由になれないようじゃな」
そう呟いてから、「ま、私も似たようなものじゃが」と皮肉気にため息をついた。その目にはすでに敵の姿は映っていない。国すら落とす上級魔族も、今となっては籠の中の鳥。いや、人間界から魔界の果てまで追い込んだ時には、シリウスに目をつけられた時にはすでに勝敗は決まっていたのだ。
一方の魔族はついにこの状況を打開する術がないと悟ったか翼の動きを止めてうなだれる。しかし、その顔には落胆ではなく狂喜的な笑みが満面に浮かんでいた。
「だが貴様ら人間ももう終わりだ! 十年前から水面下で進めていた俺の計画はすでに半分成功しているようなもの! 人間界の主要な拠点は貴様ら冒険者によって潰されたが、その間に信託の聖餐と呪詛の魔法玉を世界各地にばら撒くことに成功した! 十数年もすれば世界は悪意と憎悪に満ちた混沌の世界に生まれ変わるぞ!」
「そうか、それは楽しみじゃな」
「……は?」
「過剰なまでに慎重な冒険者組合がなぜ私を単騎で魔界に向かわせたかわからないはずがなかろう? 他の冒険者はみな、貴様の計画を未然に防ぐべく対応した。今となっては貴様の計画とやらは死にぞこないの妄言。ただの絵空事というわけじゃ」
シリウスの言葉に完全に敗北を悟ったのか、魔族はただでさえ浅黒い顔を青ざめさせる。完全に絶望したときに浮かべるときの顔は人間も魔族も同じようだった。門から伸びる幾本もの手と魔族の羽ばたく力はまだ拮抗しているものの、徐々に魔族が門の中に引き込まれ始める。
「なぜだ! なぜ人間の分際で俺の前に立つ! なぜ人間の分際で俺の邪魔をする! 何故俺が見上げて、貴様が見下ろしている! なぜだ! なぜだあぁぁぁあ!」
「……私のほうが強いからじゃよ。いつからじゃろうな。下を見て歩くことがなくなったのは」
醜い断末魔を尻目に、足元の地面を見下ろした。先ほどまで
先ほどまでの死の世界は、魔族が作り出した亜空間だったのだ。術者を倒せば術が解けるというのはこの世界の理である。魔族を倒したことで本来の光景が戻ってくるのは当然のことだった。勝ったからと言って戦利品があるわけでもなければ、気の利いた演出があるわけでもない。ここは遊びで来るような場所ではない。だとしても、この戦いが終わったら何かあるのだと、どこか期待していた自分があった。
「……終わりましたか、シリウス様」
ふと、背後から聞きなれた声がかけられる。緩慢な動作で振り返ると、見慣れた少女と目が合った。白と金とを基調とした法衣の上から流れる金髪を靡かせ、いつの間にかシリウスの背後に佇んでいた。
シリウスは部下にこんな顔を見せられないと不敵な笑みを張り付けて見せる。
「ほう、今の今まで完全に気配を断ち続けていたか。神通力の操作も上達したようじゃな、リリア」
「
リリアと呼ばれた少女は殊更に顔をしかめて法衣を払って見せる。潔癖ともとれる態度だったが、それは称賛に対する照れ隠しの一種だということはお互いに理解していた。
「……じゃが、私の指示に逆らってついてきたことは感心せんな」
今回の任務においては彼女が魔界の深部に転移魔術を接続し、その後はシリウスが単独で任務にあたる手筈だったが、仕事が終われば後は自由と言わんばかりの顔だった。
「私はシリウス様の従者なので、死ぬときは一緒です」
「なんじゃ、私が死ぬとでも思っておったのか?」
「万に一つ程度には」
「あり得ん。私を殺したいなら神や魔王を連れてくることじゃな」
それこそあり得ない話だった。かつては魔王と呼ばれる上位魔族が人族を脅かす脅威として君臨していたが、三百年以上前に勇者と相打ちになり封印されている。その封印方法は勇者が女神に授けられたものだと言われており、今は亡き勇者本人にしか行使することは不可能。解除することも同様に不可能だった。
「もう用は済んだことですし、帰りましょうか」
「そうじゃな。上に報告をしたら、いつ来るかもわからない非常事態が来るまで待機。いつまで続くことじゃろうな」
用が済んだらここにいる意味はない。では、この世界に用が済んだと言ったら? 答えを持つものはいないだろう。
「仕方がないですよ。シリウス様が動くのには理由が必要です。それこそ、世界の危機くらいでないと釣り合わない。冒険者は仕事以外で力を使うことを禁じられていますし」
「まったく、こんな退屈な世界ならいっそ……」
その言葉を最後まで言い切れるほど若くなかった。そんなことをしても虚しくなるだけだと分かっているからだろうか。口をついたのは、もっと現実的で夢のない別の言葉だった。
「いっそ……やめてしまおうかのう。冒険者」
「シリウス様がどんな道に進もうと、お供しますよ。
どこか安心したような声音の詠唱とともに、束の間の日常は幕を閉じた。
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