第3話 氷と太陽③

「……悪夢の瘴気……」

 突如目の前で始まった瘴気の発生と共に起こった風は、長い髪をも少しばかり持ち上げて揺らした。エヴァは微動だにせず、少年の身から発散されてゆくその暗い瘴気を見つめる。

 どうやら本当に、瘴気の発生源は目の前にいるこの少年らしかった。夜色に染まった瞳が揺らいで、その度に瘴気が漏れ出すように発生していく。

 暗い闇のようなじっとりとしたそれは、少年の身に付き纏うように、けれどどこか、何かから守っているような様子すら見せながら、少年の周辺に漂い続ける。

 みるみるうちに濃くなっていき、視界はすぐに塞がれて、遂には目の前の少年以外の何も見えなくなってしまった。

 だが、エヴァはこの瘴気の中でも生きていける。どうにかなってしまうような危険はない。そしてそれは目の前の少年自身も同じこと。止める理由は特にないし、ここに居続ける理由も特にない。

 ないのに、エヴァはそこから動けなかった。

 今例えば左右のどちらかに進み、壁を探して、それを伝って歩いていけば瘴気の中を抜けることくらいは容易いものだ。地下道は基本直線で引かれていて、壁をわざわざ伝わなくともこのまま真っ直ぐ歩いてさえいけば何かにぶつかることもない。ここにいる理由などどこにもなく、なのに、どれだけこうして並べ立てても、ここから動けない。

 理由などいくら探しても見つからなかった。自身の行動に理解が及ばない。足が動かないわけではないし、瘴気がそうさせているわけでもない。けれどエヴァはそこに立っていた。

 そうして時間だけが過ぎていくうちに、徐々にではあるものの、瘴気が霧散し始める。

「……はあ、っ、はあ……」

 しばらくすると、少年はどうにか落ち着いたようで、息を荒くしながら、ちらり、夕焼け色に戻っていく瞳をエヴァに向けた。

「……君は優しいんだね」

 優しい?優しいとは何だ。エヴァは首を傾げる。

 不思議そうにしているエヴァに、少年は嬉しそうに笑った。

「僕のことなんて気にしないで、先に行っちゃえばよかったのに。そうしなかったから」

 薄まっていく瘴気の中、息を整えながら、少年はそう言ってまた微笑む。

 エヴァはといえば、何も言えなくなってしまっていた。

 本当にその通りだと自分でも感じていた。気にせずに先に進めばよかったのだ。馴れ合うつもりなど毛頭ない。貴重な自分以外の存在と出会ったからと言って、だからなんだと言うのだ。何故ここで立ち止まり、瘴気が霧散してゆく様を見つめているのか。

「ねえ、君はどうして生きているの?」

 柔らかく澄み切って、しかししっかりと響くその声で、少年はまた、同じ問いを投げかけてくる。

 どうして生きているのか?

 この死んだ地下世界で生きていける身体だからだ。生きていける存在だからだ。そう、先程までのエヴァならすんなり答えたはずだ。

 しかし、今度はエヴァは答えられなかった。

 どうして生きているのか?

 その問いの意味が、初めから違っていたことに、エヴァはこのとき初めて気づいたのだ。

「僕はね、この世界をこうしたから」

 にっこりと笑う少年の笑顔には、影が付き纏っている。

「こうしてしまったから、生きているんだ」

 柔らかな髪に、輝く瞳、そして明るいその声と、笑顔。

 少年の太陽のようなそれの奥に潜む暗い夜に、機械のように冷え切ったエヴァは、ほんの少し、ほんの少しだけ、興味を惹かれた。

「……私の名前は、エヴァ」

 気づけば、少年に対して名乗っていた。

 単調で淡白で、氷の如き機械仕掛けの少女は、感情豊かで純真無垢、無防備な明るい少年に、今この時、何かを揺り動かされていた。

「私はヒトではない。だから生きている」

 秒針と同じ速度で回り続ける、その身に宿された数多の歯車。

 問われた意味と違うと知りながら、エヴァはそう静かに告げる。そして取り付けられた黒いガスマスクを外すと、少年はその大きな瞳を見開いた。

「人じゃないの?」

「人造人間のようなもの」

 ガスマスクの下に隠されたエヴァの顔は、息を呑むほど端正で、けれど同時に、血の通っていないような冷たさを感じさせるものだった。

「人造人間……ホムンクルス……?」

「そう。私は一度死んでいるはずだから」

 淡々と告げるエヴァに、少年はただただ、ぱちくり、と目を瞬かせることしかできない。しかしエヴァは、その反応は想定内だ、と言わんばかりに、気にもとめず言葉を続ける。

「詳しいことは私も知らない。ただ、目覚めたらこうだった。それだけ」

 そう、どうということはない。ただ、あの目覚めのときから、私はずっとこう。それだけ。エヴァはそんなふうに思う。

 しかしエヴァにとってどうでもいいことは、少年にとってはどうでもよくはないらしい。

「……つまり、エヴァはもともと、人間だったってこと?」

「ええ」

 震えた声で問うてくる少年に、エヴァはそれがどうしたのか、と不思議そうに首を傾げながら肯定する。

 この少年は、よくわからない。人間とは皆こうだったのだろうか。書物で得た知識の中の、どの人間とも少し違っているように思われた。

「君は、僕を恨まないの?」

 次に少年の口から飛び出したのは、それこそエヴァにとっては本当に思いもつかない言葉だった。

 今度はエヴァが、その無機質な瞳を少しばかり見開く番だった。一体この少年は何を言っているのか。何故エヴァが少年を恨まなくてはならないのか。

「恨む理由は特にない」

「だって君にもいたでしょう、家族が!」

 何かが唐突に、濁流となって溢れ出した。必死の形相で叫びながら、少年は立ち上がって、エヴァの瞳を真っ直ぐ射抜く。

「お父さんやお母さんが、きょうだいが、君にもいたんでしょう!」

 少年の悲痛な叫び声が、地下世界の廃道にこだまする。

 少年の大きな瞳に、ひと粒だけ、大粒の涙が浮かんで、数年ぶりに廃道を濡らした。

「……殺したんだよ、僕が」

 そこまで言われて、エヴァはやっと少年の言いたいことを理解した。

 エヴァの家族。エヴァの周りにいたはずの、大切だったはずの人達。

 そういう人達が死ぬ原因を作った自分のことを、世界を殺した自分のことを、恨まないのか、と。少年はそう問うていたのだ。

「恨む理由は特にない」

 それでもエヴァは、同じトーンで、同じように、同じ言葉を繰り返した。

「……どうして」

 眉尻を下げた苦しげな少年に、エヴァはしばし思考して、淡々と答える。

「私には恨みを抱くほど記憶がない」

「……え」


 ――エヴァ、――


 母であったはずの人の最期の言葉を、私は憶えていない。

 父であったはずの人の最期の言葉も。きょうだいがいたのかどうかさえ。

「私には恨みを抱くほど感情がない」

 記憶が薄らいで、同時に、感情も忘れてしまった。

 喜びとはなんだったろうか。

 悲しみとは、怒りとは、なんだったろうか。

「私はただ生き続ける。私はただ歩き続ける。私という存在が壊れるまで。それだけ」

 たくさんのことを、どこかに置いてきてしまった。

 たくさんのことを、どこかに捨ててきてしまった。

 失くしたものはもうかえってはこない。ならば、前に進むだけだ。

 あるのは生。ただそれのみ。

 それ以外、もう、何もない。

「……エヴァ……」

 ぽつり、澄んだ少年の声が、小さく、か弱く、少女の名を呼んで、けれどすぐに、その口元は強く引き結ばれた。

 夕焼けを帯びた瞳は、どこか、更に明るい太陽のような色をしているようにエヴァには見えた。

「エヴァ、ここから出よう」

 少年の口から飛び出したのは、これまでのどんな言葉より一番、突拍子もない言葉。

「僕と外を見に行こう」

 強い意志を宿した瞳は、エヴァの黒く無機質な瞳を貫いて。

 またにっこりと優しく微笑んで、機械のようなエヴァを明るく照らした。

「一緒に行こう、エヴァ」

 差し出されたその手は、どうにも堪えきれなかったように、微動だにしないエヴァの腕を掴み、そのまま風を切って走り出した。


 ――ラルム歴1619年7月18日。現在の推定時刻、午後3時過ぎ。

 秒針と同じ速さで動く歯車とは裏腹に、エヴァの時間は加速する。

 死んだ世界が、今、動き出そうとしていた。

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