第2話 氷と太陽②

「こんにちは!いや、こんばんは?おはようかな?」

 飛び跳ねるように駆け寄ってきて嬉しそうに笑う少年は、見た目としてはエヴァと同じくらいの年頃——12、3歳といったところだろうか——に見えた。

 廃道に取り付けられていた消えかかった照明と、エヴァの持った灯りに照らされたその少年の髪は、色素の薄い金髪に見える。細くしなやかな髪質のようで、目にかかりそうな前髪が、ほんの少しの風にもサラサラと揺れていた。

 服装はといえば、上下揃いの白い無地のTシャツに白い無地の半ズボンといった、囚人すら思い起こさせるようなもので、当然ながら土に汚れ、乾いた泥がそこかしこに付着していた。足元はといえば痛々しいほどの素足で、少し道を外れればほとんど整備されていないようなこの地下世界の道のりを歩いてきたのだすれば、彼の足の裏は今頃傷だらけのように思われた。

 まだあどけなさの残る幼い顔立ちの少年は、エヴァの姿を見ても、自分以外の存在がいたということ以外には特に驚きもしていないように見受けられ、エヴァは目の前の少年を化け物か何かでも見るかのようにほんの少し目を細めた。

「君の名前は?」

 そんな視線に気づいているのかいないのか、少年は何も気にしていないように屈託のない笑みを浮かべて、キラキラと輝く期待の眼差しを向けながら名前を問うてくる。

「名乗る名前なんてない」

 目覚めのときから、背を向けて歩き出したときから、一度も発していなかったエヴァの細く鼻にかかった声が、ガスマスクを通して廃道の空気を揺らす。

 ああ、そういえば、私はこんな声をしていた。エヴァはそんなことを思った。

「そうなの?じゃあ僕とお揃いだね」

 思いもしなかった返事に、エヴァは目を瞬かせた。

 なんで?だとか、教えてよ、だとか、そんな返事が返ってくるものとばかり思っていた。これまで触れてきた物語の類には、大概そのように書いてあった。

 お揃いという言葉の意味を図りかねた。事前に発したエヴァの台詞からして、名乗る名前がないという点について揃いだと言っているのであろうが、エヴァにはその意味がわからない。

「僕も名前がないんだ。だから好きに呼んでよ」

 名前がないとはどういうことだ。エヴァはまた思考する。

 これもまた書物や遺された映像の類からの推測に過ぎないが、この少年はどうにも嘘が上手そうには見えなかった。今この状況下で、正体不明の相手に対して名を隠すメリットは幾らでも思いついたが、しかし同時に、今この状況下だからこそ、それはメリットにはなり得なかった。名前がないというのはおそらく事実なのだろう。見た目通りの年齢だとすれば、悪夢の瘴気が発生した頃に生まれた子ということになるだろうから、もしかしたら捨て子だったのかもしれない。

 けれど、ならばどうして、この少年は今ここで生きているというのだろう。

 エヴァが見る限り、同じ存在には見受けられなかった。ということはおそらく、真っ当な生命体であるはずだ。人間以外の何かにも見えそうにはない。

 仮に生身の人間だとして、それが何故、こんなところで平気な顔をして生きているというのだろう。

 ガスマスクもつけずに、たった1人で。

「あなたと馴れ合うつもりはない」

 シンプルに突き放せば、少年の表情はわかりやすく沈む。

 しかしその表情には、突き放されたことによる悲しみよりも、何かその裏に潜む影のようなものが垣間見える。エヴァはそんな表情の変化に対してほんの少しの違和感を覚えたが、これまで得てきた知識と違うその様子が一体全体何を示すものなのかまでは、わからない。

「ねえ、聞いてもいい?」

 馴れ合うつもりはない、と突き放した直後にも関わらず、質問をしようとしてくるので、言葉が理解できなかったのだろうか、と考える。しかし傷ついたような顔をしていたので理解はしていたと推察され、エヴァは少年のペースが読めずにいた。その上、そんな顔をしていた割に、すぐに先程までのような満面の笑みを見せている。エヴァにはどうにも理解し難い。

「馴れ合うつもりは」

「君は」

 続きを言おうとして、けれど少年の透き通った声がそうさせてくれなかった。

 先程までと同じ、純真無垢で無防備な、子供のような明るい声——の、はずだ。

 はずなのに、何故だかエヴァはその続きを再度口にするのを躊躇った。

「君は、どうして生きているの?」

 投げかけられたそんな問いに、エヴァは淡々と、それはこちらが聞きたいことだ、と思った。

 謎の瘴気に満ち、死んだこの世界で、ガスマスクもなしに平然とした顔で笑っている。彼は何だ?何故生きている?そう思わずにはいられない。

 名も持たず、こんな世界で当たり前のように生きているこの謎の少年に対する疑念は、ますます大きくなっていく。

 しかし、彼からしてみれば同じことなのかもしれない、ともエヴァは考える。目の前には、この世界で生きているはずがない、自分以外の何か。状況はどちらからしても同じなのかもしれない。

 だからと言って、安易にその質問に答えるような単純さはエヴァにはなかった。それを教える意味も、意義も感じられない。何より、目の前にいる彼は、信用に値しない。

「それはこちらの台詞。あなたは何故生きているの」

 機械的な声音で問いに問いで返せば、少年は面食らったような顔をして、けれどすぐにまたにっこりと笑った。

「何故って、僕だからね。世界をこうしたのは」

 その言葉の意味を理解するのに、しばしの時間を必要とした。

 それはつまり、こういうことか。

「……あなたがこの、悪夢の瘴気の元凶だということ?」

「そういうこと!」

 有り得ない。そう思う反面、エヴァは機械のようにあらゆる可能性を思考する。

 確かに、彼が悪夢の瘴気の元凶なのであれば、この死んだ世界で彼が生身のまま生き続けていることにも一応説明はつく。しかし、それだけでは足りない。

 エヴァが書物や遺された映像から得た知識によれば、瘴気は、どこかを中心にして波状に世界を呑み込んで行ったとされているが、どうにもおかしい、とエヴァは頭の片隅で思っていた。瘴気を分析できないからと言って、その中心を特定することすらできないなど有り得ないことだ。まして、局地的に見れば散発的だったかもしれないが、世界全体で見れば波状に呑み込んで行ったということがわかっている。確かにそう、そこかしこに記されているのだ。中心地が割れないはずがないのである。

 仮に人智の及ばぬ何かの力——霊魂だの魔力の類だのといった力が同時に発生していたとするなら話は別なのだが、そうなってくれば、その手の信じ難い噂もまたすぐに人々の耳に入っていたはずで、そういう得体の知れないものほど、どこかに記述が残っているものなのだ。が、そういった記述は少なくともこれまでに触れた書物の中には、恐怖心からくる根も葉もない軽い噂の範囲から出る域のものはどこにも見られなかった。

 ——仮に中心は早々に発見されていたとして、しかしその中心にいたのが、1人の人間だったのだとしたら?

 単細胞で臆病な連中がまず殺害を試みるだろう。しかしそれは寸前で歯止めがかかるはずだ。殺したからと言って、それで瘴気が止まるとは誰も断言してくれない。それどころか、閉じ込められていたものが溢れ出すように、一層ひどくなることすら考えられる。この世から消す、という一見最も手っ取り早い処分方法は、リスクが大きすぎるわけだ。

 ならば、その人間をどうする?

「なるほど」

 呟かれたエヴァの言葉に少年は心底驚いて、その表情からは笑顔が消えた。

「信じるの?」

「仮にあなたが発生源だとするならば、瘴気の中心が見つからない、なんていう有り得ない話にも辻褄が合う」

「……どうして?」

 至極冷静に答えるエヴァに、少年は先程までの笑顔が嘘のように、その大きな瞳を揺らす。

「瘴気を消すためには人体実験が必要だから、邪魔が入るわけにはいかない。当然秘匿される」

 じっと見つめるは、少年の肌に刻まれた数多の惨い傷跡。

 容赦なく放たれたその言葉に、少年は1歩、何かに怯えたように後ずさった。

 夕焼けを帯びた瞳がひどく揺れている。彼が発生源だとすると、おそらくは、エヴァの想像した通りのことをされてきたのだろう。囚人のような服装についても納得がいくというものだ。エヴァは確信を得た。

「同時に、生身でこの地下世界を生きているのにも説明がつく。だから――?」

 そのとき、続いて並べようとしていた推測を、エヴァは止めた。

 揺らぐ夕焼けを帯びた瞳が、突如、夜の闇の色に染まっていくのを目にしたからだ。

「あなたは――」

 一体何だ?

 そう問おうとした、次の瞬間。

「ぁああぁあ……っ!」

 恐怖に満ちた声を上げながら、少年は震え、自身をきつくきつく抱いて、膝をついた。

 ――少年の身から、夜色を帯びた暗い瘴気。

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