エレフセリア創世記

さけお

プロローグ

第1話 氷と太陽①

 ラルム歴1607年。

 繁栄を極めた世界に生きる人々は、ある日を境に生きる場所を失った。正体不明のの有毒ガスが発生、世界を蹂躙し始めたのである。

 前触れなどがあったわけではなく、唐突な出来事だった。発生した地点を完全に封鎖してみても、不思議とどこからか漏れ出していく。まだガスが及んでいないはずの地域にも突発的に発生するといった事案も起こった。発生地点は屋外であるという見立ても、とある民家の閉め切られた一室で発生したガスにより否定されてしまった。

 発生源は大陸最大の軍事国の首都とも、辺境の小さな農村とも言われているが、最早真実は定かではない。どこかを中心に発生していると思われた有毒ガスは、しかしその中心を特定する間もなく、どこからともなく押し寄せた。ガスが発生した場所には、枯れ木のような茎や葉に毒々しい色の花を咲かせる新種の植物が発見され、文字通り、世界を毒色に染めていった。

 この世の全てを蹂躙していく有毒ガスは、現代の技術では全く解析不可能な代物であった。構成している物質が何なのかすら判別がつかない。何を原因にして発生しているものなのかも、いくら調べても何ひとつわからないと言う。この有毒ガスは後に悪夢の瘴気と呼ばれ、人々の死と共に、歴史に名を刻んだ。

 その悪夢から逃れるべく、吸えば即死、などと噂された謎の有毒ガスが現時点で唯一不可侵である場所として地下を挙げ、人々は巨大なリスクを背負いながらも、否応なく地下深くへと拠点を移すこととなる。

 しかしながら、逃げ延びるも、あくまで緊急の措置でしかない。まるで水を濾過するようにしてなんとか確保した空気と、残った食糧の全てや衣服の類等、最低限生きるのに必要な代物を、無理矢理広げた地下空間へ運び込んだに留まった。太陽の光はなく、作物も、いくら技術があると言えども限られた空間の中では全人類を満たせるまでには至らない。時折ガスマスクと防護服を装備し誰かが地上へと向かってみても、有毒ガスの充満した地上に生き物が食べられるものなどあるはずもない。

 地上には、瞬く間に絶望が広がった。地下とて、ガスを構成しているものが何なのかわからない以上、完全に遮断することは不可能であった。溶けた瘴気は人々の体を徐々に蝕み、同時に飢餓が心をも蝕んだ。時には殺し合い、時には寄り添うようにして、人々は次々と、地下にて死を迎えていった。

 ラルム歴――そう数えて良いのなら、現在、1619年。

 千年以上続いた文明は、それを紡ぎ積み上げた人類は、音もなく、滅亡を迎えていた。


 ――はずだった。


 規則的な機械音と共に、地下世界を歩む足音が、ひとつ。

 それは人の形をした、けれど人のような空気を一切纏わぬ少女であった。

 小さな顔には、黒く機械的で、少女にはひどく不釣り合いなガスマスク。暗い灰色を帯びた長い髪は腰まで届き、足音と共に揺れている。頭部、腕部、脚部と、少女の細身な体のところどころ、ボロボロの布を被っただけの服の穴から、大小の歯車がいくつか顔を出していた。

 おおよそ人とは思えぬ風貌のその少女は、歩きやすいようある程度だけ整備されていた廃道を、既に薄汚れた白いブーツを履いて、迷うことなく進んでいく。

 道の端には、誰かがつけていたのであろう、当時大量生産されたガスマスクが、土に汚れて散乱している。その横には頭蓋骨らしきものもある。おそらくそこで誰かが、為す術もなく死んだのだろう。

 けれど少女は、そんな様子になど目もくれない。無機質な黒い瞳で、ただじっと前だけを見据えていた。

 少女の名はエヴァ。

 死んだ地下世界を、ただ1人、生きている者である。



 ******



 ラルム歴1619年7月18日

 現在の推定時刻——午後2時半

 地下廃道 B3階

 

 時計の秒針と同じリズムで、その身体に取り付けられた歯車が、回り続ける。

 エヴァは、今日もまた、立ち止まることなく歩き続けていた。もうそろそろきっかり10年が経とうとしている。

 消えかかった電灯と片手に持った小ぶりなライトを頼りに、土や岩の類が剥き出しになっている廃道を真っ直ぐ進んでいく。出会うのは白骨死体と、転がったガスマスク、ただそれだけ。ここ数年で元々地下に生きていた生物の姿もあまり見なくなった。

 ところどころ、崩落したと思われる箇所から、例の瘴気が漏れ出していたりもする。地上から地下へと流れてこようとする瘴気の侵入を防ぐべく、何重にも塞いだその跡が、瓦礫の中で潰れていた。

 しかしエヴァにとっては漏れ出した瘴気すらどうでもいいことだった。見向きもせず、見慣れたもののように横を通り過ぎていく。実際地下に漏れ出した瘴気はここ1年は珍しくもなんともない。地下世界にこのガスが充満するのも時間の問題だろう。

 エヴァは、最早この世に生きているのは、生きていけるのは自分しかいないことを知っていた。

 顔面に取り付けられたガスマスクは彼女が目覚めたそのときからそこにあったものだったが、このガスマスクを外しても、この死んだ世界で生きていくことが可能であった。

 ——もう何年も、同じような景色の中、同じような音を聞いて、同じリズムを刻んでいる。

 エヴァは、もう何年も声を出していないせいか、自分の声も忘れてしまっていた。少女らしい細く高い声だったのか、似つかわしくない太く低い声だったのか、鼻にかかっていたのか、かかっていなかったのか、優しげだったのか、そうではなかったのか、最早何も思い出せない。しかしだからと言って、声を出そうという発想はない。

 もう彼女の中には何もなかった。あるのは生、ただそれだけだった。こんな何もない空っぽの永遠が、これから先もずっと続くのだ。そう信じて疑わなかった。

 

「――誰か、そこにいるの?」

 

 幻聴でも聞いたのだろうか。エヴァは真っ先にそう思った。

 誰もいない、誰も生きられないはずの地下世界で、知らぬ少年の問いかけを聞いた気がしたのだ。それも、これまで何度も耳にしてきた機械仕掛けのそれではない、生の音だ。

 ずっと同じリズムを刻んでいたはずのエヴァの足取りが、久方ぶりに止まる。何が起きたのか、このたった一度では判断し切れない。エヴァは息を殺し、耳をすませ、辺り一帯の音を拾う。

 それはあまりにもイレギュラーな出来事だった。この死んだ世界で、生身の人間が生きているはずがない。生きていけるはずがない。

 しかしエヴァは決して動揺はしていなかった。脈拍も特に変化はない。イレギュラーな出来事に少々の警戒心を持った、ただそれだけのことに過ぎない。

 目の前の状況を正確に把握し、あらゆる可能性を想定して、対処する。その様子はさながら、機械のようだった。

「ねえ。返事をして、そこにいるんだよね?」

 また、同じ少年の声がする。

 少年の声は静まり返った廃道に響き、エヴァの鼓膜を揺らす。それは確かに紛れもなく、生の人間の声だった。機械特有の音がしない。

 であれば、人間が生きているということか?エヴァは思案する。エヴァの中に残された記録によれば、地上に悪夢の瘴気が充満し始めたのは約12年前で、それはつまり、この声の主が、この何もない地下世界で、12年生き抜いていたことを意味する。

 では果たして、そんなことは可能なのか?食糧などとうの昔に尽きていた。この10年、エヴァはほとんど歩き通しだった。これだけ歩いてもまだまだ先のありそうな地下世界を散々歩いて、本などがまだ生きているところでは本から知識を得た。各地に散乱した白骨死体と共に、人間の生きてきた痕跡を幾度となく目の当たりにしてきたが、どこにも、ただのひとつも食糧などなかったし、食糧を生産していたであろう場所もとうの昔に朽ち果てていた。

 最も現実的な可能性としては、エヴァと同じか、或いは似たような存在であるということだったが、エヴァの知識の中に似たようなものがいるという情報はない。この世に現存するであろう書物のうち、そこそこは割合を占めそうなほどには書物に積極的に触れてきたが、禁書や密書の類の中にもそんな記述は見たことがなかった。

「ちょっと待ってて、そこにいてね」

 今行くから、という少年の言葉の直後、エヴァの前方に見えていた十字路の左側から、何やら金属と金属が倒れたようにしてぶつかり合うような音が騒がしく響いた。それと同時に、少年のものらしき足音や、何かに驚いた様子の少年の声が忙しなく聞こえる。それらの情報から、どこか崩れかけの部屋から出てきた、といったところだろうか、とエヴァは推測する。

 すぐに金属音が止むと、駆けてくる少年の軽い足取りがどんどん近くなってきて、エヴァはほんの少し身構えた。

「――人だ!」

 曲がり角から飛び出してきた少年は、全くの無防備で、無知で、純真な、夕焼けを帯びた大きな瞳で、エヴァの無機質な黒い瞳を射抜いた。

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