第20話 不意の来客
湾に停泊したままのアルゴ号の船首で、魔法の女神像はふと顔を上げた。
風の中に、ある匂いを感じ取ったからだ。潮の香りに紛れてはいるが、これは間違いなく、あの男の匂いだ。
魔法の女神像はアルゴ号の船首に備えつけられている。船の竜骨に直結する肋材の上に固定されていて、上半身はともかく腰から下は動くこともできない。だがそれでも話ができる以外にまったく何の手段も持たないわけではない。イアソンたちも知らない、いや、創造主である怪物アルゴスでさえも知らない、ささやかな隠された能力を持っている。
それは今回の冒険行の裏のスポンサーから提供されたものだ。
小さな羽虫が飛んできて、女神像の耳に囁いた。
「そう。判ったわ。あなたはお行きなさい」
羽虫は去った。
次の羽虫が飛んで来て、見て来たことを囁いた。
「あら。ついにキルケーは本性を現したわね。果して間に合うかしら」
女神像の目となり耳となる小さな虫たち。小さな小さな魔法。使えるのはそれだけだ。使っていいのはそれだけだ。誰にも気づかれずに、秘かに使える小さな魔法。
情報を集め、状況を理解し、考える。そしてイアソンの相談に乗る。偶然に見せかけて、状況を少しだけ操作する。
アルゴ探検隊を救うために、雷を飛ばしたり、海を二つに割ったり、そういう大きな魔法は使えない。使えば、この冒険行の裏にいる黒幕の存在がばれてしまう。
いまやアルゴ探検隊は神々の注目の的だ。三大巨神たちは言うに及ばず、その他の無数の神々も、この冒険に注目している。神々の戦いのルールに従い、神々の権力争いの舞台となっているのだ。
本来は無関係なはずの小神たちでさえも、この冒険の結果に賭けることで参加している。当然ながら、どの神もこの冒険に横槍を入れたがってはいるが、三大巨神が睨んでいる以上、迂闊に手は出せない。そんな状況で魔法の女神像が本来は持っているはずのない魔法の力を使ったりすれば、大変にまずい事態に発展する。
もし秘密が暴かれれば、天界を真っ二つに分ける大戦争が勃発するだろう。それだけは避けなくてはいけない。
イアソンを助け、この冒険を成功させる。それは重要な使命の一つだが、それよりも重要なのは、魔法の女神像をこの冒険に送り込んだ黒幕の秘密を守ること。
そのためにイアソンが死に冒険が失敗したとしても、致し方の無いことだ。イアソンも駒の一つならば、アルゴ探検隊も駒の一つ。そして女神像もまたただの駒にすぎない。
大事なのは、駒を操るプレイヤー。
さほど待つまでもなく、大きな筏が船体にぶつかる衝撃が、船の後ろから伝わって来た。
後部甲板がきしみを上げて、船の喫水線が大きく沈み込む。
よくもまあ、何を食ってここまで大きくなったのだろう。女神像はそう思った。
ぬっと大きな顔が女神像の横に突き出す。
「おかえりなさい。ヘラクレス。今までどこに行っていたんです?」
女神像はほほ笑みを浮かべてそう言った。今は味方を装って、この恐ろしい半神半人をやり過ごすしかない。
「船のやつらはどこだ。イアソンは? 他の英雄たちは」
まるで燃える石炭で作ったような瞳だわ、と女神像は思った。ヘラクレスの父親のゼウスも怒らせるとこれほど怖い神は無いが、ヘラクレスの方がもっと恐ろしい。何故ならヘラクレスは始終怒り狂っているからだ。
「皆なら、キルケーの館ですわ。なんでもこの島の主のキルケー様が大歓迎の宴を開いてくれるそうですから」
「キルケーだと? 知らんな。どうせこの片田舎の島の間抜けな領主なんだろう。歓迎するなら真の大英雄の俺の方なのに。あの詐欺師のイアソンたちを宴に呼ぶなんて」
でっかい足を船から張り出したままの渡り板に降ろして、ヘラクレスは肩に担いだ棍棒を振り回した。
「飯だ。酒だ。女だ」単純な要求を喚く。「その前に復讐だ。血だ。殺戮だ」
間違っても、平和で優雅な夕べを過ごす、なんていう要求は無いんでしょうね。女神像はそう思ったが、口にはしなかった。ヘラクレスは行動した後に考えるのが常だ。神の、それもギリシア最強の神の力を引く者は、何も考える必要はない。ただ、その力を揮うだけで、後は何とかなる。
「この俺様を裏切り、この俺様を騙し、この俺様の冒険を奪い、この俺様を馬鹿にした。奴らはみんな皆殺しだ」
ヘラクレスの巨体から、今までに殺した人々の血の匂いがまき散らされているかのようだ。振り回す棍棒が体に当たりそうになり、女神像は慌てて言葉を継いだ。
「仕事が終わるまでここで待っていますわ」少し間を切る。「それとも帰りもあのイカダになさいますか?」
「真の英雄がイカダで帰還だと? そんなみっともない事ができるか。俺はアルゴ号の船首に立って、黄金の羊毛を肩にかけて、イオルコスの人々の絶賛を受けながら、砂浜に足を下ろすんだ」
「この立派なアルゴ号の上に、その立派なお姿が金色の後光に包まれて立つ。考えただけでも心が震えますわ」
女神像はお世辞を言う。ヘラクレスの肥大した自我は、それを当然のように受け取り違和感を感じない。アルゴ号を破壊するつもりで来たのに、そのことはすっかりと念頭から消え去っていた。
たった一人でアルゴ号に戻って来たとしても、一人ではアルゴ号を動かすことはできない。ヘラクレスの持つ神の怪力ならば、アルゴ号に綱をつけて引っ張ることはできる。だが、体一つではこの巨船を操作するのは無理だ。アルゴ号はそのようには作られてはいない。ヘラクレスに取ってアルゴ号は無用のものなのだ。
その事に気づけば、気付いた時点でアルゴ号は破壊されるだろう。ヘラクレスが癇癪を起こせば、その父神であるゼウス以外には誰も止められない。
島の奥へと歩み去るヘラクレスの後ろ姿を見つめながら、女神像は動きを止め、ただの木像へと変じた。ここから先は、ただこの賭けの結果がどうでるのかを待つしかない。
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