第21話 ヘラクレス へらくれす


 目の前に立ちふさがる邪魔な密林を棍棒で薙ぎ払いながら、ヘラクレスは進んだ。


 手にした棍棒は鋼鉄よりも硬い魔法の鉄木から切り出したものだ。普通の人間には持つこともできない重さの棍棒も、ヘラクレスにはちょうど良い。一振りするだけで、森の巨木も岩も、ボロ布を払うかのように砕けて消え去る。

 神の力の顕現に森が震える。

 ヘラクレスには、父神ゼウスのような変身能力も無ければ、天候を操ることもできない。しかしその魔法の怪力だけは、父神ゼウスと同等と言っても良い。それだけで、他の小神などをも遥かに凌ぐ偉大なる力だ。


 ヘラクレスは怒っていた。

 いつもいつも怒っていた。

 激怒、としか表現のしようの無い、そんな怒りだ。


 どうしてこれだけの力を持つ自分が、地上を這いずり回らなくてはいけないのだろう?

 どうしてこの偉大なる自分が、オリンポスの頂きの神の館の栄光に囲まれた場所に座り地上を睥睨する代わりに、海を筏で渡り、密林で木々を相手に格闘し、ろくでもない人間たちに混ざって泥の中を転げ回らなくてはいけないのか?

 その問いかけが常に胸の中にあり、ヘラクレスを駆り立てている。

 それは胸を焦がし続ける炎にも似て、あるいは心臓の周りにしつこくも取りついた業病にも似て、それとも空を飛ぶことのできぬことを悟った獣の叫びにも似て、ヘラクレスの魂に責め苦を与え続けている。

 その苦痛はヘラクレスの歪んだエゴを通じて外部への怒りへと転じている。

 粉々に砕けた岩の欠片が粉じんとなって視界を塞ぐ。

 それがやがて真っ赤な血しぶきへと置き換わることをヘラクレスは望んでいた。


 怒りに触発されて、昔の記憶がよみがえる。


 眼前に、自分の女房子供を打ち殺したときの光景が甦る。

 あの女は俺のことを普通の人間の旦那のように扱ったのだ。

 あなた、それを取ってちょうだい。

 そう言ったのだ。

 あのガキもそうだ。俺をことを、父さんと、そう呼んだのだ。

 まるでこの俺が、ただの人間の男のようじゃないか。


 そして、俺が女房子供を殺した後に、街の人間は、あの王は、この俺に罰を与えた。人殺しの罰として、奴隷のように仕事を押しつけたのだ。

 あのときは街を破壊することを思いとどまった。まだ自分の力にそれほどの自信が無かったときの話だ。


 だが、今は違う。

 そのつもりさえあれば、街の一つや二つ、またたく間に壊してみせる。それが神の力というものだ。それでもやはり、欲しいのは畏怖だけではなく、尊敬だ。単純に人々を殺すだけでは、それを得ることはできないと、さしものヘラクレスも理解はしていた。

 冒険の業績を上げ、さらなる大英雄の名誉と栄光を手に入れる。それはもう目の前だ。今でも不滅の名声を手に入れてはいるが、アルゴ探検隊の成果を手に入れれば、それは完璧なものになる。

 俺がギリシア随一の大英雄となれば、ヘラクレスを生ませてからはまったくの無視を決め込んでいる父神ゼウスも無視できなくなるだろう。いと高きオリンポスの王座の横に座らせて、これが自分の跡継ぎだと宣言してくれるだろう。そしていつかはその座を奪い、すべてのあまねく神々が俺の足下にひれ伏すのだ。


 妄想にどっぷりと浸かり、周囲に派手な破壊の後を残しながら、ヘラクレスはひたすら進んだ。

 やがて密林が途切れると、目指す館が見えて来た。

 キルケーの館だ。想像していたよりもずっと立派で豪勢だ。

 ヘラクレスは舌舐めずりをした。ついに、その時が来たんだ。

 館の周囲をうろついていた猛獣たちがヘラクレスに向かって唸り声を上げると飛びかかって来た。

 だが、ただの獣の牙で、ヘラクレスがまとっているネメアーのライオンの皮を貫けるわけがない。猛獣たちは何もできぬまま、ヘラクレスの棍棒で頭を砕かれて死んだ。

 人間に戻る夢を抱えたまま。

 襲って来る獣たちを薙ぎ払うと、ヘラクレスは棍棒を館の壁に叩きつけた。館の堅固な大理石の壁がまるで砂でできているかのように崩れ、大穴が開く。

 ヘラクレスに取っては、ごく日常の見慣れた光景である。

 壁をもう三つほど吹き飛ばすと、ついに大勢が詰めかけている館の中心へと辿りついた。

 巨大な木のテーブルの上に、山のような御馳走が並んでいる。その前に肉食獣に囲まれた形で、アルゴ探検隊の連中が並んでいる。その横に立っているのは、この館の女主人と思われた。恐れらくはあれがキルケーとかいう女だ。

 いい女じゃないか。ヘラクレスはにんまりと笑った。この食い物も、この酒も、この女もすべて俺のものだ。それにこいつらの命もだ。

「逃がさないぞ」それだけ宣言した。

 恐ろしく重い棍棒を右手だけで振り回しながら、左手で料理を鷲掴みにして貪った。

 筏に乗っての長い航海生活の間は、ろくに食べていなかった。今までは食糧の手配などは全てお供の者たちがやっていた。今回はお供たちの多くは、旅の途中での騒ぎに巻き込まれて死ぬか、逃げてしまった。

 筏で海に出て初めて、食糧と水を積み込まずに大海原に出ればどうなるのか、ヘラクレスは理解したのだ。幸いというべきか、餓死する前に海の怪物がヘラクレスを見つけて、その貴重な肉を提供してくれたから何とかなったのだが。

 ヘラクレスの初めての一人旅は、散々な結果に終わったのだ。

 酒の壺を掴むとこれも一気に飲み干す。どおお、と声に成らないざわめきがアルゴ探検隊の席から沸き起こった。

「俺が飯を食うのがそれほどうれしいのか。俺が酒を飲むのがそれほど珍しいのか」ヘラクレスが喚く。

「わたくしの館でそれほど派手に食べ、派手に飲んだのはそなたが初めてじゃ」

 キルケーが笑った。その口の端がにんまりと上がり、ぞっとするようなほほ笑みを形成する。

「乱入者はそれなりの罰を受けるが良い」

「抜かせ! 罰を受けるのはそちらだ」ヘラクレスが吠えた。

 その肩の筋肉が盛り上がる。棍棒が唸りを上げ、テーブルに打ちおろされた。料理もテーブルも共に砕けて宙に跳ね上がる。空中に飛び上がった大きな肉の塊に食らいつくとヘラクレスは突進を始めた。

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