第14話 コルキス国


 アルゴ号がいかに巨船であるのかは、周囲を進む船と比べてみれば判る。小船の上から驚きの顔で見上げている人々を、こちらは眼下に従えて、アルゴ号は進んだ。

 すでにここはコルキスの領海である。コルキスへ向かう巡礼たちが船を連ねて進んでいる中を、大きさこそ違えどアルゴ号も同じようにして進んでいる。ときたま遠近感を間違えた船がアルゴ号との衝突を避けようと、触れるべくもない距離なのに慌てて舵を切るのが、イアソンにはおかしく感じた。

 季節はまさに夏の盛りだ。イオルコスを出たときは春の最初の日だったのに。

 首尾よく黄金の羊の毛皮を手に入れてすぐに故郷に引き返したとしても、冬になる前に辿りつけるかどうか。一度極寒の冬の季節に入ってしまえば、海は荒れて航海は格段に難しくなる。途中の島々で補給を得ようにも、食べ物は容易には手に入らないだろう。街の市場でさえも、食糧は貴重品となり高騰する。アルゴ号の金庫室が空っぽになるのはそう遠い話ではない。もし、旅の空で一文無しになれば、アルゴ探検隊はアルゴ強盗団に化けるしかない。それとも手に入れた黄金の羊の毛皮をどこかで売り飛ばすかだ。そうなればこれはもう完全に本末転倒だ。何のために冒険に出たのか判らない。

 来るべき未来。それもそう遠く無い内に迫って来る未来を考えると、汗ばむ陽気にも関わらず、イアソンの胃の腑は冷えた。

 空っぽの金庫。

 船員の誰にも相談できない、探検隊のリーダーだけが知るおぞましい秘密だ。


 他の乗組員たちはイアソンのそんな思いに気付きもせずに、満面の笑みを浮かべながらきつい甲板仕事に応えている。目的地はもうすぐそこだ。

 イルカたちが現れアルゴ号の巨体の周りで跳ねまわる。イルカにとってもアルゴ号は珍しい代物らしい。


 コルキスについたらどうするのか、まだ何も決まってはいなかった。


 周囲の巡礼船の群れを見れば判る。コルキス王が金の羊毛の返還要求を認めるわけがない。これほどの富を生み出している人気の品なのだ。大勢の巡礼がひっきりなしにコルキスを訪れる。まさに金の羊毛は打ち出の小槌そのものだ。これらの国の内外からの客たちは大量の金銀を落としていく。金の欲望の前には、論理も説得も通るものではない。こちらの要求を知れば、きっと宴会と称して誰もいない広間に案内されて、そこでアルゴ号の乗組員たちは皆殺しに遭うだろう。


 ではどうする?


 夜にこっそりと金の羊毛に忍び寄り、盗んで来るか。

 だが、盗難に関してはコルキスの人々も十分に警戒しているだろうから、容易なことではあるまい。

 アルゴ号の乗組員すべてに武器を持たせて殴りこむという手もある。結果はこちらの全滅だろう。装備は十分あるのだが、何といっても兵隊の数が違う。いくらアルゴ号が巨船だとは言っても、軍隊をまるごと乗せて来ているわけではない。ヘラクレスのような半神半人の怪物が五十人もいれば力技も可能だが、アルゴ号にいるのはごく普通の男たちだけだ。


 アルゴ号は重々しく向きを変えると、慎重に港に接近する。何分この船は重量があるだけに喫水が深い。下手なところに接岸すると、たちまち座礁してしまう。アルゴ号の航海士たちは英雄でこそないが職業船員としては一級で、そこは手慣れたもの。難しい操船を軽々とこなし、問題なく接岸すると、ロープで固定した。

 イアソンの合図で渡し板が下ろされると、この巨船の噂を聞いて集まって来た見物人の前に垂れ幕が下ろされた。一番声が大きいことで選ばれた甲板長がどら声を張り上げる。

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。ギリシア一の品物の数々。特に今日は今ギリシアで最先端を行く、見事な甲冑に武器ぞろい。大安売りの大売り出し。冷やかし歓迎、買う人はもっと歓迎。さあさあ遠慮なく見ていってくれ」

 甲板にずらりと並べらているのは磨きこまれた武具の数々。本来はアルゴ号に乗っている英雄たちのために用意されたものだから、かなり良いものだ。それにやや劣るのが乗組員用の装備ということになるが、こちらもそれほど悪くはない。どれも一度も使ったことが無い新品であるから、傷もへこみも無い。

 ピアピカの剣に、見事な模様の彫り込まれた盾。指揮官用の兜の上では煌びやかな飾りが揺れ、胴体に見立てた木に被せられている鎧は陽光に輝いている。

 最初は恐る恐るアルゴ号を覗いていた人々も、やがて珍しいもの見たさに船に上がって来た。すかさず乗組員たちが色々な品物を持って来て並べると売上の口上を述べ始める。どれも途中の港で買って来た私物で、故郷に帰ったときの土産にするつもりだったものだ。

 最初の銀貨が手から手へと渡り、代わりに商品が渡される。やがてアルゴ号の船上は商売の声で充ち、それに釣られて他の商人たちも集まって来た。たちまちにして船上に即席の市場が出現した。

 イオルコスもギリシアの中では田舎の国だったが、コルキスも本来ならば僻地と言ってもよい場所だ。イオルコスでは流行遅れになったものでも、ここなら最先端で通る。イアソンはみるみる溜まって行く貨幣を見ながら、奇妙な幸福を感じていた。今なら貿易商人の気持ちが良く判る。名誉を求める冒険も良いが、富を求める冒険も捨てがたい。

 街から軍隊がやって来ると、そんなイアソンの気持ちを無残にも壊した。

「なんだなんだ」アルゴナウタイが騒ぎだした。

 武装兵たちがイアソンを取り囲むと、アルゴ号の上から客たちを追い払う。

 兵たちが掲げた剣の中から恰幅の良い男が現れた。

「私がコルキスの王だ」

 思わずイアソンは跪いて臣下の礼を取った。

「そなた達が我が国の宝を奪いに来たアルゴ探検隊の連中か」


 イアソンの腹がずんと重くなった。


 やはり噂というものはこの世の何物もよりも速い。それには簡単な訳がある。

 旅人が新しい国に持ち込むとき、他国のゴシップ話こそもっとも喜ばれ、軽くて、しかもどこでも通用する通貨だからだ。金貨が通用しないスパルタでさえ、噂話だけは歓迎される。どの街の酒場の連中も、楽しい話は歓迎だ。人々の興味を引く話は一杯のスープになることもあれば、一杯の友情に満ちた酒になることもある。しかも一度話してしまえば、それを聞いた相手はすぐにライバルになる。一度聞いた話に余分な笑顔を向けるお人好しはそうそういない。だからこそ、噂話というものは真っ先に話さねばならず、常に旅をする人々の先頭を駆け抜けて行くことになる。


「何か誤解をなさっているようですね」イアソンは必至の嘘をついた。

「我々はイオルコスの貿易団です。こうして商品をあちらこちらで売り歩いているんです」

 王の目が細くなった。アルゴ号の甲板をさっと睨みつける。色とりどりの布、奇妙な装飾の壺に、かなり嵩の減った武器や防具の山。

「英雄たちはどこだ、大勢乗せていると聞いたぞ」

「英雄ですか?」イアソンは周囲を見回した。「どうやらここにはいないようです。そうそう、随分と昔になりますがヘラクレスとかいう男を乗せたことがあります」

 ギリシア中に轟き渡る偉大なる名前だ。

「そいつだ」コルキス王が叫んだ。「そいつを出せ」

「とうの昔に下しましたよ。そうだな。船にいたのは一週間ほどで、途中の港に置き去りにして来たんです。船賃が無いとか言っていましたんで」

 王の兵隊たちはしばらく船を調べていた。何人かの将校が帰って来ると、報告した。

「英雄らしき人物は誰もおりません。居ても吟遊詩人だけです」

「軍隊は?」

「それもおりません。売り物の鎧や剣はありますが、それも残りわずかです」

「ではこれは本当にただの貿易船なのか!?」

「自分にはそのように見えます」将校は報告を締めくくった。

「コルキスの王様。いったいどのような噂をお聞きになったのでしょう?」

「いや、そなたが知る必要はない。恐らくどこかの心無い者が讒言したのであろう。歓迎するぞ。貿易船は。是非ともゆっくりしていってくれ」

 船の下でざわめきが上がった。

 美しい女性が一人、アルゴ号のタラップを上がって来た。

「お父様」

「おお、メーディア」コルキス王が言った。

 素早く動いたのはイアソンだ。本能と言ってもよい。手近に展示されていたネックレスを手に取ると、女性の首に巻き付け、その前に跪いた。

「美しい姫君。わたくしめはイオルコスの王子イアソンと言います」

 自分でも自信のある最高の笑顔をメーディア姫に見せた。

「是非とも、お見知りおきを」

「ようこそ。イアソン。貴方をお待ちしておりました」

 メーディア姫がほほ笑んだ。

 動かぬ彫像の振りをしていた船首の女神像が、片方の眉を少しだけ震わせた。

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