第13話 動く岩


 その難所の名前はシュムプレーガデス。


 そこは海峡である。

 二つの海をつないでいるのはここのみで、後は切り立った岩肌と深い森に覆われている。船を捨てて先に進むのでない限り、この海峡を通り抜けなくてはならない。

 だが問題が一つある。

 この海峡には岩が幾つか浮いている。魔法のかかった岩だ。その岩の群れは海峡を通り抜けようとする船を襲い、沈めてしまうと恐れられている。


 預言者ピーネウスはアルゴナウタイの未来にその岩を見て、警告を与えた。もっと多くのことをイアソンは聞き出そうとしたが、それは失敗に終わった。ピーネウスは多くを語らなかった。一つの助けのお返しには一つの助け。それが掟であった。

 かってのピーネウスはお喋りで、漏らしてはならない情報を安易に漏らし、それが神々の機嫌を損ねる結果へと繋がった。今や彼は学習し、必要最低限のことしか教えなくなっていた。

 まあいいさ、とイアソンは思った。

 どのみちピーネウスは神々の不興を買っているのだ。ハルピュイアが捕まったとなれば、遅かれ早かれ次の怪物が送られて来るに違いない。ここでぐずぐずして新しい難題を押し付けられるよりはさっさと先に進んだ方が良い。


 シュムプレーガデスの岩たちを動かしているのは、またぞろどこかの神がかけた呪いだ。この海峡を渡る船を沈めろ、というのがその呪いの本体だ。もし一隻でも船を逃せば呪いは解け、動く岩は動かなくなる。つまり身動きしないごく普通の岩に戻るのだ。

 だが、この岩たちはしぶとい。呪いをかけられたのは随分と昔に違いないのだが、今に至るもそのまま動きまわっているということは、誰もこの海峡の突破に成功していないということだ。

 イアソンはただ無言で船首に立ち、残りの時間を過ごした。その深い黙想に恐れをなし、残りの乗組員たちは近づかなかった。


 こうして英雄は形作られる。

 人の上に立ち、難問に立ち向かい、悩む振りさえしていれば、仕事をサボっていても誰にも非難されない。それどころか逆に尊敬されることを覚えて、とんでもない怠け癖がついていくのだ。


 海はシュムプレーガデスの海峡を境に、深い青からやや鮮やかな緑色を帯びた、どちらかと言えば浅い海に変わる。海水面の高低差が穏やかな海流を生み、海峡の先へと流れ込んでいる。

 海から突き出した岩が散在する海峡の手前で、アルゴ号は停止した。大きな錨が下ろされ、危険な水域へアルゴ号が流されるのを防ぐ。

 海峡の付近だけは海水の温度差によるものか、霧が湧き見通しが悪いが、ときおり霧の合間に見える新しい地の姿が、乗組員の心に希望を生んだ。


「鳥を持って来い」

 イアソンは命じた。預言者ピーネウスの話では、2つの岩の間におとりとなる鳥を放してやれば、2つの岩は鳥を狙って衝突する。一度衝突した岩は互いにある距離まで離れる必要があり、アルゴ号はその隙に海峡を抜けることができるだろう、ということであった。

 カゴから放たれると、鳥は真っ直ぐに陸地目がけて飛んでいってしまった。

「ありゃあ」

 呆れたように誰かが言葉にならない言葉を漏らした。

 考えれば当たり前だ。鳥がそう簡単に狙った方へ飛んでくれるわけもない。何度か苦労した末に漸くその内の一羽が海峡の側に飛んだ。

 動く岩がどれかは判らなかったが、どの岩もぴくりとも動かない。

「俺たち、あの爺さんに騙されたのかなあ」舵取りが呑気に言った。

「そうは・思いたく・ない」

 イアソンは一言一言を噛みしめるかのように言うと、次の命令を出した。

「ボートを降ろせ!」

 イアソンは慎重であった。彼はとうの昔に、この冒険が一筋縄ではいかないことを学習していたからだ。これが吟遊詩人の歌う物語ならば、動く岩は鳥を潰そうとし、その隙をついてアルゴ号は先へ進むことができるとか、そんな話になるだろうに。実際にはアルゴ号は巨船で、そこまで機敏には動けない。

 ボートの中に糸で縛って飛べなくした鳥を置くと、そのまま海流に任せて流した。

 皆が見つめる中、小さなボートはアルゴ号を離れると海峡をゆっくりと進んだ。動かぬ岩の一つに触れて船はくるりと回転したが、後はそのまま何事も無く海峡の真ん中へと進む。

「平和だ」イアソンの横でボートを見つめていた航海長がつぶやいた。

 その言葉を聞いたかのように、海の中の岩が一斉に身震いした。まるで一つの岩の振動が海峡から突き出している全ての岩に伝染したかのようだった。

 岩が白い波を蹴立てて動き出した。

「二つどころじゃないぞ」誰かが叫んだ。

 流されていたボートが無数の岩に取り囲まれ、衝突され、砕かれ、そして沈没していく様を、全員が無言の中に見詰めていた。

「話が違うぞ」イアソンが食いしばった歯の間から言葉を漏らした。

 皆と同じくこの有様を見ていた船首の女神像が奇妙な歯ぎしり音を立てた。それに答えて、一応安全な距離にいた近くの岩が同じような音を立てて返す。

「あれはこう言ってます」女神像が説明した。

「岩が喋るのか。答えるのか。岩と話ができるのか!」イアソンは驚愕した。

「喋るし、答えるし、できます」苛立ちを隠さず、女神像は答えた。

「黙って大人しく聞きなさい。預言者ピーネウスがハルピュイアを捕まえたとの噂が怪物たちの間に流れたのです。お陰で、ここの魔法の岩たちは警戒しました。ピーネウスがお喋りにも自分たちの秘密を漏らしたと知ったのです。それで岩たちは努力の末に数を増やし、ピーネウスの策に対して戦略を練った、ということです」

 女神は腕を組んだ。

「厄介なことになりましたね。もうここの岩は戯れに空飛ぶ鳥を襲うことも無ければ、いかなるごまかしも受け付けないでしょう。海峡中に隙間無く配置された動く岩の間を突破する手段が果してあるものかどうか」

 すぐにアルゴナウタイ会議が開かれた。もはや定例である。

「誰か何か良い知恵はないか?」イアソンが尋ねた。尋ねながらもどうせ駄目だろうという諦めの気持ちが湧きあがる。このメンバーの中から少しでも使える可能性のあるアイデアが出た試しはない。

「強行突入をしよう」と航海長。「この船は頑丈だぞ。少々の岩の激突にも耐えられるだろう」

「もし耐えられなかったら?」誰かが言った。

「海の藻屑だな」イアソンは締めくくった。「他に意見はないか?」

「帆を全開にして、皆で全力で漕げばどうだろう。運が良ければ岩の間をすり抜けることができるかも」一等航海士が指摘する。

「アルゴ号はギリシアで一番でかい船だ。でかいという事はつまり重いということで、重いということはつまり遅いということだ。怪力自慢の英雄たちが満載されているならともかく、我々が全力で漕いでもそれほど速くは進めないということだ」

 イアソンは指摘した。

「他には?」

 部屋に沈黙が降りた。

「ここから陸路を行くことはできるか?」

 イアソンはピーネウスに貰った地図を広げた。シュプレーガヌスの海峡の部分に小さい文字で、「陸路は不可」と書いてある。あのジジイ、何もかもお見通しだ。心の中で毒づいてからイアソンは地図を閉じた。

「ここから引き返すという手もありますぜ」舵取りの男が言ったが、全員がその発言を無視した。

 思い出したくもないが怪力自慢のあの英雄がここに居れば、邪魔になる岩を一つ一つ砕いて進むという荒業も出来ただろう。空を飛べるあの英雄たちがここに居れば、魔法の岩の間を飛び回ってそれらを撹乱することもできただろう。いやいや、中には岩が大好物というような英雄もいたのかも知れない。

 だがそれもすべては夢のまた夢。ここにいるのは、とイアソンは周囲の人々を見渡した。ここにいるのは英雄ですらない、ごく普通の人間たちばかりだ。

 ごく普通の人間だから、ごく普通の人間としての解決法を取るべきだ、とイアソンは気付いた。

 部屋から飛び出し、船首に走る。

「物は相談だが」イアソンは女神像に言った。

「この海峡を無事に通すように岩たちを説得してくれないか」

「無駄なことだとは思いますけどねえ」

 女神像は冷たく答えたが、それでもあの不思議な声を使って魔法の岩たちと話をしてくれた。

「駄目だそうです。この海峡を越えようとする船は一隻残らず沈めると宣言しています」

「冷血め」イアソンは思わず毒づいてしまった。

 女神像がそれを忠実に岩語に翻訳する。すぐに岩から返事が届いた。

「彼らに取っても死活問題だそうです。もしこの海峡を船が一隻でも通り抜けてしまえば、魔法は切れて、彼らは元の物言わぬただの岩に戻ってしまうそうです」

「どちらかが死なねばならないなら、それは奴らだ」

 イアソンはそう宣言すると腕組みをした。それから目を細めて、海峡を覆う靄の合間を睨んで、指さす。

「さっきの砕かれたボートの破片が海峡を抜けているぞ。あれはどうして襲われない」

 再び岩語の応酬。

「あれは木切れです。船ではありません」女神像が説明する。

「でも船だって木でできているんだ。現にこのアルゴ号だって木でできている」

 イアソンは食い下がった。何か大事な部分に来ているという予感があった。

「オールも帆も無い木はただの流木だと言っています。彼らに取っては微妙な違いがあるようですね。まあ、実のところは彼らの予算の問題でしょうね」

「予算?」イアソンは一瞬話の筋を見失った。

「予算です。魔法と言えども無限に魔力を使えるわけではありません。本来は二つの岩を動かすだけの魔力しか与えられていなかったのに、あそこまで岩を増やしてしまったのですよ。使える魔力はぎりぎりと言うところでしょう。だから何でもかんでも砕いてしまう代わりに、自分たちで決めたルールに従って、目的を果たすに足りるだけの行動に抑えているのです」

「そんなものなのか?」

「そんなものなのです。潤沢な予算なんてものは、この世には存在しません。

 ああ、もう、岩語って嫌い。喉が痛くなる」

「よしわかったぞ」

 イアソンは叫ぶと、船室に戻り、何やら船員たちと相談して、またもや甲板に出て来てた。

 大声で宣言する。

「海の上に橋を作る。それで向うの海に渡る。アルゴ号を分解して、向う側でもう一度組み立てる。ありったけの木切れを持ってこい!」

 部下たちに命じて、アルゴ号のあちらこちらから板を持ってこさせて、海に投げ込んだ。それらはみな穏やかな海流に乗って海峡を越えて行く。

 岩たちはぴくりとも動かなかった。魔法の岩とて動けば疲れる。無駄なことはしたくないようだった。狙いは船だ。特に目の前にいるこの巨大なアルゴ号は素敵な獲物。そのためにも力を温存しなくては。

 船員の一人が手を滑らせると、ボートをつないでいたロープを切ってしまった。アルゴ号の船腹から飛び出したボートは無人のまま海の上を漂い始める。そのまま魔法の岩たちの縄張りに流されて行った。しかしボートの中にオールも帆もないのを知って、岩たちは動きを止めた。流木は襲わないと言った手前、過剰に反応するのを手控えている。

「あれを取り戻せ!」

 イアソンが怒鳴ると隣にいた船員を突き落とした。海に落ちた船員は慌てて傍を流れされていた木切れに掴まったが、そのまま海峡へと一緒に流され始めた。

「くじ引きに負けたのだから仕方が無いな」

 イアソンは小さくつぶやくと、周囲の船員に救助を命じた。

 ロープが何度も投げられたが、結局落ちた男には届かない。男はそのまま海峡へと流されて行く。

「旦那。どうするんです。確かにああやって板きれに掴まって海の上を泳いでいけば、この海峡は越えられるけど、じきにサメにやられちまうのが落ちですぜ」

 航海長が眉をひそめながらわざと大声で言った。

「もしわたしを見捨てたら、酷い目に合わせますからね」白い歯を脅すかのように見せながら女神像が宣言した。

「船を捨てるわけにはいかん。それにこの海峡を迂回する道は知らない」とはイアソン。

 イアソンは船縁に立つと、魔法の岩目がけて大声で叫んだ。

「糞ったれな岩どもめ。俺は必ずやここを突破してみせるぞ!」

 それに答えて魔法の岩たちがギチギチと音を立てた。どうやら岩なりの笑い声らしい。

「ついでに言っておきますが、岩は糞なんか垂れませんよ。私もそうですが」

 女神像が突っ込みを入れた。

「それは君は木彫りの像だから」イアソンがやや呆れたように言った。

「違いますよ」女神像は静かなほほ笑みをみせた。

「それは私が美人だからです。美女はトイレになんかいかないものです」

 イアソンは頭を抱えて見せた。それから十分に岩の注意を引きつけたと判断して、大きく手を振った。

 その合図を受けて、海峡の向こうに流されかけていた男が、密かに近づいていた無人のボートに乗り込んだ。ここに来てようやく何が進行しているのかに気付いた岩たちが一斉に動き始めた。

 パニックと言ってよい。お互いぶつかりあいながら、男の乗るボートへと殺到した。

 手遅れだった。イアソンを狙ってアルゴ号の傍にまで寄ってきていたお陰で、海峡のほぼ反対側にいる男のところまでは距離がある。

 男は今まで自分が掴まっていた木切れを持ちあげると、それで船を漕ぎ始めた。

「これはオールだ!」

 大声で叫びながら。岩に追い付かれまいと必死で漕いだ。追い付かれれば、ボートは破壊され、ついでに男の体もすりつぶされる。命が懸っているだけに真剣だ。じきに男を乗せたボートは岩が動ける範囲を越え、海峡の反対側に辿りつく。

「海峡を抜けたぞ。船で!」イアソンが大声で宣言した。

 魔法の岩たちが一斉に抗議のきしり音を上げた。

「インチキだ、と言っています」女神像が説明する。

「いや、俺たちは正しく船でこの海峡を越えたぞ。あれはオールで進むボートだ。つまり立派な船だ」

「木切れはオールではない。従ってあれは漂流する流木であって船ではない」女神像が岩語を代弁する。

「オールであるかどうかは、木切れの形ではなく、その働きで決まる。木切れでも、人の頭を殴れば棍棒と言えるし、水を掻いたらオールとなる」

 魔法の岩たちはしばらく抗議の声を挙げていたが、次第に静かになり、やがてまったくの無音となった。

「納得したのか?」イアソンが女神像に尋ねた。

「少なくとも魔法の力はあなたの主張を受け入れたようですね。魔法が抜けて、ただの岩に戻ったのですよ」

 また岩が動き出さないかとしばらく様子を見てから、イアソンは出航の命令を下した。


 シュプレーガヌスの岩はもう動かない。ついにアルゴ号は旅の半分の危難を突破したのだ。

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