第8話 アミュコス王の拳闘試合


 それからしばらくは順調な航海が続いた。イアソンはときどき背後の海を不安そうに見つめることもあったが、怒り狂った男たちを乗せた船が追いかけて来ることもなく、穏やかな風が横をすり抜けていくだけだった。

 食糧の半分が消費された頃に、温かな海流が作り出す薄くて白い靄に包まれた島影が見えた。小さな漁船が何隻か漁に出ているのが見える。

 帆の操作に張り付いていた船員たちが歓声を上げた。

 軽い既視感にめまいを覚えながらも、イアソンは目を細めて島を隅々まで見つめた。豊かな緑。それに綺麗な水もありそうだ。島と一言で言っても、意外と大きい。港の奥に街があり、山裾を少し登ったところに結構大きな宮殿らしきものがある。

 漁船の幾つかが接近してくるアルゴ号の巨体に気づき、慌てて港へと戻る。アルゴ号が接岸するころにはすでに港は歓声を上げる人々で一杯になっていた。

「嫌な予感がする」イアソンが暗い面持ちで言った。

「どうしてですかい。イアソンの旦那」舵取りが持ち場を離れてやって来た。一度船が止まれば舵取りはもう何もやることが無い。

「見たことも無い異邦人が大歓迎されるにはそれなりの理由があるに違い無い」とイアソン。

 それまで私はただの彫像よ、との様子を装っていた船首像が、イアソンの発言に眉を上げて見せた。同意の印だ。

「考えすぎってもんですよ。旦那」

 カラカラと大きく笑うと、舵取りは上陸の準備を始めた。つまり自分の髪に櫛を通して、よれよれの服の裾を伸ばそうと引っ張ったのだ。

 やがてアルゴ号の甲板から渡し板が下ろされ、陸上とつながると、街の歓迎団が上がって来た。開口一番。

「ようこそ。ベブリュクスの国へ。噂に聞くアルゴ探検隊の方々ですね」

 イアソンは頭痛がした。


 行く先々でアルゴ号よりも噂の方が先行しているならば、目的地のコルキスに着いたときはどうなっているだろう?

 コルキス国の軍隊が煌めく槍を手にして待ち構えているというのだけはごめんだ。


「ささ、皆さま、どうか、街の広場へ。今日は明日の祭りのための準備として、御馳走を用意してあります。酒もたんと用意してあります」

 街の顔役らしき老人がアルゴ号の船員たちに声をかけるのを見て、イアソンは眩暈を覚えた。どうみても話がうますぎる。

 だが、止めようがない。

 アルゴ号の乗組員たちは満面に笑みを浮かべて船を下り始めた。その中で一人、イアソンだけは渋い顔をしている。周囲を睨みつけるが、別に危険なものは無さそうに思える。島民も武器を隠し持っているようには思えない。それでもイアソンは警戒を緩めなかった。

 老人についていった先には大きな街の広場があり、すでに宴会の席が設えてあった。

「この島にはあの山に位置している王宮を取り巻く形で十二の街があります。どの街も一年に一回、それぞれの月に合わせて祭りをするようにアミュコス王より命じられております。今月は我らの街の番で明日がその祭りの日だったのです」

 イアソンに席を勧めながら、老人はテキパキと指示を出した。女たちが酒を注ぎ、御馳走をテーブルの上に所狭しと並べる。

「祭りの主役はその街で一番力が強くて、元気な若者が選ばれるのです。今年はこの子が選ばれました」

 老人が手招きすると、海風にさらされ日に焼けた肌を持つ健康そうな青年がイアソンの前にやってきた。

「しかし、彼の家は母一人子一人の世帯。因果は含ませましたが、惨いことには違いありません。ところがそこに、噂に名高い英雄たちで有名なあなたたちアルゴ号が御到着されたのです」

 老人と青年が揃って地面に土下座をした。

「まことにもってありがとうございます。このご恩は決して忘れません」

「まず、事情を説明してくれ。何もかも。包み隠さずに」

 いまや悪い予感に蒼い顔色となったイアソンが、老人の手を引いて立たせた。幸い、周囲のアルゴ乗組員たちは酒を飲むのに大忙しで、イアソンの周囲で何が起きているのかに気づいていない。

「アミュコス王との拳闘試合に来たのではないのですか!?

 有名なポセイドン神の息子であるアミュコス王のことです」

 青年が呆れたように言った。

「この辺りでは無敵で通っている人なんですよ」

 イアソンの膝から力が抜けた。街の地面に直接敷かれた敷物の上にぺたりと座りこむ。無意識の内に手が伸びて、近くにあった酒ビンを掴むと、長いストロークの一飲みで、その強い酒をすべて空にした。

「御老人」イアソンが目の前の敷物を指さす。老人が座るのを待って、また口を開いた。

「どうも俺の耳にアブが飛びこんだらしい。良く聞こえなかった。アミュコス王の話だよな?」

 老人がうなずく。

「で、アミュコス王は誰の息子だって?」イアソンは次の酒ビンに手を伸ばした。

「ポセイドン様です。海の神様の」

 イアソンはまたグビリと酒を飲んだ。

「すまん。誰かが、また俺の耳を塞いでしまったらしい。その何とか言う王様は誰の息子だって?」

「ポセイドン様です。ギリシアの三大巨神の内の第二席のポセイドン様です」

「で、ポセイドン神の息子がどうしたって?」

 イアソンの目の焦点が失われた。何としても、この現実だけは認めてはならない。

「この島のアミュコス王は、ポセイドン様の息子なのです。孫でも親戚でも無く、直系の息子なのです。しかも・・」

「聞きたくない」イアソンは断言して、自分の耳を手で塞いだ。

 青年がイアソンの後ろに回ると、その両手を抑えて耳を塞げないようにした。

「しかもアミュコス王はポセイドン様の大のお気に入りなんです」

 ここぞとばかりに長老が畳みかける。

「アミュコス王は毎月の祭りのときに拳闘の試合をして、相手を打ち殺してしまうのが好きなんです。今月はあなたたちが選ばれました。アミュコス王と戦ってください」

 イアソンは気絶した。いや、これから英雄になる人物の名誉のために言っておくが、単に酔いつぶれただけなのかもしれない。

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