第3話 一期一会


「ママ。ママ。出た。出た」

 ドアを勢いよく押し開けて、息せき切った男が入って来るなり放った一言。

「何が出たの?」そう言いながらキープしてあるボトルを取り出す。「お仕事は終わり?」

 子供三人と猫一匹、女手一つで食わせていく手段として母が選んだのはスタンドバーであった。高利貸しから借りた資金を元手にしての乾坤一擲の大勝負は際どい所で成立していた。日銭が入る商売なら、ぎりぎり回していける。そういう判断であった。


 飛び込んで来たのはタクシーの運転手。仕事が終わらない限り一杯飲ませるわけにはいかない。

 今ほど飲酒運転に厳しくなかった時代とは言え、酒を飲ませて事故でも起こせば警察に睨まれることになる。そうなれば、こっそりと一杯飲みたさに巡回してくる警官が来なくなり、その代わりにヤクザが場所代を取り立てに来る。そうなれば、一家揃って首吊りが待っている。生きていくのに甘くない時代。人の本性が出る時代。昭和も半ばを過ぎ、すでに戦後では無かったが、まだまだ厳しい時代は続いていた。政府は税金を取るばかりでまともな公的扶助など無かったのだ。


「で、何が出たの?」

「ババアが出た」

 そう言うと男は出された水割りをがぶりと飲んだ。


 下関市の駅前を通る国道を真っすぐに辿ると、程なく道は二手に分岐する。交通量の少ない方の道の先の横手には小さな神社がある。現在はともかく、昭和の中ごろにはその道はまだ行き交う車もまばらであった。

 公衆便所などというものも整備されてはおらず、コンビニなどはまだコの字さえも発明されていない時代、催してしまったタクシーの運転手のトイレは立ち小便一択しかなかった。人が来るはずもない神社の裏手はまさに絶好の場所である。

 車を止めて貧相な街灯が一つ灯ったきりの小道を辿る。繁華街の中心部は明るいがそれ以外の場所はまだまだ闇が支配している。

 神社の鳥居を抜けて見つけた藪に向けて小便を放出しているとすぐに気が付いた。奥の方から何やら音がする。怖い思いもしたが、やはり好奇心が勝り、運転手は奥を覗き込んだ。

 申し訳程度に設置している神社の社の光りの中、薄ぼんやりとした影がせわしなく動いているのが見えた。

 カンカンと何かを打ち付ける甲高い音。その音の元は影が振りかぶる何か。


 よもや、とも思った。

 やはり、とも思った。

 それは丑の刻参りをしている老婆であった。


 丑の刻参りとは、憎い相手を象った藁人形を作り、草木も眠る丑三つ時、神社の木にそれを打ち付けるという古式ゆかしい呪いの儀式である。藁人形の胸に釘を打てば心臓が止まり、頭に打てば痴呆となり、足に打てば足を無くす。そんな荒っぽい呪いである。

 実のところ、藁人形に張りつける呪符にも一定の作法があり、服装にも厳しい掟がある。呪いを行うものは、白の装束を着て、五徳と呼ばれる昔の台所道具を逆さにして頭に被り、その上にロウソクを灯す。胸には鏡を吊るし、顔には赤の染料を塗る。

 始まりは陰陽道盛んな平安時代に端を発し、その頃には呪詛を行うのは女性のみ、呪詛の内容は愛しい男を奪われた女性の恨みを晴らすことのみ、のはずだった。時代を経るに従い、この規律は曖昧となり、内容もますます過激になっていった。

 丑の刻参りの呪詛を行う者は、行った呪いの数倍のものを支払うことになる。本来これは自分の命を支払いとして、神に願いを聞いてもらうための術なのである。そのような意味からは、まさに呪詛の本質を示す術であるとも言える。


 その老婆が丑の刻参りの作法を正しく守っていたのかは判らぬ。それでもただ一つだけ、良く知られている鉄則がある。

 もしも丑の刻参りを誰かに見られたならば、見た人間をその場で殺すこと。さもなくば呪いはその身に跳ね返り己が真っ先に死ぬことになる。相手を呪い殺すという目的を果たすことなく。


 運転手が丑の刻参りを見てしまったことを、老婆は気づいた。彼女に躊躇いは無かった。手に金槌を握ったまま、恐ろしい形相で運転手へと走り寄って来る。こうなると小便どころの騒ぎじゃない。いろいろとまき散らしながら、自分のタクシーへと飛び乗ると、命からがら逃げだした。



「というわけなんだよ」

 背後の扉を怖そうに睨みながら、男が説明する。もしあの扉が今大きく開いて、頭にロウソクを載せた老婆が飛び込んできたらと思うと、とても酔える気分ではない。

「ナンバー見られたかな?」

 見られたとしたら探される。普通の車なら運輸局が情報を漏らさない限り大丈夫だが、タクシーなのだ。会社に偽の苦情を入れられたら、どの車なのか分かってしまう。

「しばらくはあっちの方行かないほうがいいね」と母。しっかりと男が飲んだ勘定の分はメモしている。大事なのは他人の命よりも自分の家計。その通り。



 神聖な神域で立ち小便をした者にはさらに大量の小便を漏らすような恐怖を。

 神聖な神域で呪いを行おうとした者にはその報いとして死を。

 神様もなかなか粋な計らいをなさる。


 そう思うだろ?

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