第2話 井戸魂


「人魂が出るんやて」

 まだ母が小さい頃のことである。母の姉が町内の噂を聞いてきた。

 町内でも有名な気の強い母娘が住んでいる家に、人魂が出るとの噂話が持ち上がったのだ。


 その家の娘の婿として入っていたのは見るからに気の弱そうな男で、ご近所が懸念した通りに婿入り直後から妻と姑に虐められる日々が続いた。とうとう最後にはその家の井戸に飛び込んで自殺した。

 昭和初期の頃はまだ水道はそれほど普及しておらず、水は自分の家の井戸の汲み上げ水を使うしかない。つまりは自宅の井戸に飛び込むというのは残された者たちへのひどい嫌がらせとなる自殺方法であった。

その井戸から人魂が出るという噂話で近所は持ち切りだったのである。


「見てみたいね」噂を聞いてきた姉が言う。

「うん、見てみたい」と妹が答える。


 好奇心の強い少女たち、当然ながらそういう話になる。だが、二人のお父さんは信仰ばかりか教育にも熱心な牧師である。信者には寛容だが、自分の娘たちにはとても厳しい躾けをしている。だからこそ中学に入りたての娘たちが真夜中に家を抜け出すなど考えることすら許されなかった。しかも昭和の初めころの時代に、夜に少女たちだけで街中を歩こうものならば、警察か憲兵にすぐに補導されてお説教を食らうことは必定である。それも、まず両親からお説教を食らい、続いて学校の教師からお説教を食らい、さらに町内のガキ大将からお説教を食らい、親戚からお説教を食らい、隣近所のおじさんおばさんからお説教を食らう。そしてそれを何年も何年も話のネタにされる。そんな時代であった。


 好奇心を満たす代償はとてつもなく高くつく。


 だが、募る好奇心についに堪えきれなくなった二人は、夜中にこっそりと家を抜け出すことにした。

 真夜中にそうっと起きだして、二人して家をすべり出た。

 勝手知りたる町内を走り抜け、目当ての家へと急ぐ。誰にも見つからぬように注意しながら、夜の暗闇の中をようよう辿り着くと、二人して生垣に身を潜ませた。

 その問題の家はまだ雨戸を閉めてはおらず、障子越しに母娘二人の影が映っている。何やら談笑する声がかすかに漏れ出て来る。

 待つほどもなく、裏庭に設えられている井戸から、オレンジ色の淡い光が一つ、ゆらゆらと立ち上った。人魂である。

 生垣の二人が息を詰めて見守る中、その人魂は母娘の影が映る障子へ近づくと、そこでピタリと止まった。障子を開けようか、開けまいか、迷っているようにも見えた。


 自分はこうして自殺して果てたのに、妻と義母はまるで何事も無かったかのように、楽しそうに過ごしている。障子を開けて、中の二人に恨み言の一つも言いたい。言いたいのだが、また虐められるのが怖くて開けかねている。そんな風情だった。人魂が出たと驚いてくれるならまだしも、もしや何と惨めな人魂よねと嘲られたらどうしよう。死んでなお、そのような気の弱さを見せる、人間というものの何という果てしなさなのだろうか。


 二人の少女が見守る中、人魂はいつまでもいつまでもそこで迷い続けていた。


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