第27話
「ねえ、高殊。浙冶を見なかった?」
夕食後、樊季が部屋から出て来た高殊を捕まえて尋ねた。
「そういえば、見てないですね。部屋にいるんじゃないですか」
「部屋にもいないのよねー。またどこかに出かけたのかしら」
今日の朝、浙冶は起きてくるなり、二、三日ここに留まりたいと言い出した。長葉明で売れるような新しい商品を物色したいとのことだった。しかし、一日中どこかに行ったきりである。いや、夕方に一度帰ってきたようだが、食事もせずにまた出かけたらしい。
樊季は昨日のことが気がかりだったが、浙冶の様子はいつもと変わらなかった。それどころか浙冶の頭の中は仕事のことでいっぱいのようだった。樊季としては話をもう一度したかったが別の機会でいいかと考え直し、今日は城市を歩き回ったのだ。が、それも一日で飽きた。
「割符って浙冶が持ってるでしょ。馬車を使いたくても使えないのよねー。城市の外に出てみたいんだけど」
預けた荷と馬車は割符がないと動かせない。外に出るなら馬車を必ず使えと浙冶に言われていたが、肝心の浙冶がいないので馬車が出せない。ためしに預かり所に行って事情を話してみたが、やはり首を縦に振ってはもらえなかった。
「近くを歩くくらいならいいかしら。璃鈴を誘って出かけてみようかな」
「いいんじゃないですか。喜ぶと思いますよ、璃鈴さんは。ああ、でも、浙冶さん、帰ってきたみたいです」
宿の一階から、亭主に何かを頼んでいる浙冶の声が聞こえた。樊季は階下に降りていって浙冶に声をかける。
「遅かったわね。どこ行ってたの? ご飯、すませちゃったわよ。あんたはどうする?」
見ると浙冶は疲れ切っていた。頭を横に振っている。
「いや、今日はもういらない。まだやることがあるからな」
「もしかしてまた出かけるの?」
ああ、と浙冶は答えるのも億劫そうに言う。よく見ると目の周りに隈ができている。
「今日はもういいじゃない。明日にしたら?」
さすがに心配して樊季が止める。昨夜の態度も気になる。一瞬見せた表情は、誰にも話せない思い詰めたそれであった。が、当の本人は聞く耳を持たず、ぼそりと呟いただけだ。
「ようやく捕まったからな」
続けて、じゃあな、と言って浙冶はまた外へ出て行った。樊季は「大丈夫かしら」としばらくそのまま立ち尽くしていたが、ふと、思い出した。
「あ、馬車!」
浙冶の疲労困憊ぶりに驚いてしまって、割符を借りるのを忘れてた。
「仕方ないっすね。まあ、明日の朝、また聞いてみりゃいいんじゃないっすかね」
高殊は軽く提案した。
「ええ、仕方ないわね。明日早起きして浙冶に借りるわ」
樊季はそう言ったあと、「おやすみ」と言い残し、部屋へ戻った。
***
外が何やら騒々しい。目を開けるとすっかり日が昇っていた。
「やだっ! 寝坊しちゃった! 浙冶はもう出かけたかしら!?」
急いで身支度を整えて部屋から出ようとすると、戸を叩く音が聞こえてくる。返事をして開けてみると、そこには浙冶が立っていた。疲れが表情に残っているが元気そうである。
「今、面白いもんが下を通ってくぞ」
樊季が何のことかと尋ねる前に、浙冶は勝手に部屋に入り窓を開けた。抗議の声を上げようとしたが、浙冶はそれを身振りで制し、窓の下を指差した。
「ほら、あれ。見てみろよ」
「わぁ!」
樊季は一気に機嫌を直した。
窓から大通りを見ると、そこには、婚礼の行列が通っていくところだった。たくさんの人の行列の真ん中に、紅く長い布で縁取るように飾りつけられた屋根付きの少々豪奢な馬車がある。新郎が新婦を迎えに行き、その馬車に乗せて自分の家に連れて行くのである。
花嫁が乗っているはずの馬車を見やったが、残念ながら人前には姿を現さないことになっているのでどんな花嫁かは分からない。そして、その手綱を引くのが新郎のはずなのだが、樊季たちのいる部屋からは死角になっているため、あいにくとこちらも姿を確認できなかった。
「わぁ~素敵な花嫁行列ね!」
樊季は眼を大きく見開いて、明るい声を上げた。庶民が一生の中で、豪勢で華美な装いを許される唯一の行事。そうはいっても、平民の一般的な婚礼内容儀式の内容は、樊季が主役となるであろう尹家とのそれには遠く及ばない。
平民の娘の婚礼衣裳は、簪を髪に挿し耳環を付け真紅の大袖を着るのみだが、樊季は父親の財力の関係もあって、鳳冠を頭に頂き大袖の上に絢爛華麗な刺繍の肩掛けを羽織ることになる。馬車や人の数や持ち物も桁違いとなるはずだ。それでも樊季は、慎ましやかな目の前の花嫁行列を憧れの眼差しで見つめていた。
「どこのお嬢さんの婚礼かしら?」
もっとよく見ようと思って窓から身を乗り出したところで、浙冶に首根っこをつかまれて窓から引きはがされた。
「ここから落ちたらシャレにならん。他人の婚礼なんかでそんなにはしゃぐなよな。もう少し待てばお前だってあそこに座るだろ、もっと豪勢なやつに」
「もうちょっと丁寧に扱ってくれないかしら?」
不満そうに言う樊季に、浙冶は鼻で笑いながら言い放った。
「そんなことをする理由が、どこにも見当たらないんだが」
「嬰舜さまなら、女性に対してこんなに手荒な扱いはしないわよ」
「あーそうかい。あいにく俺は、育ちが悪いもんで。品行方正な貴族の倅なんかと比べるなよ」
一昨日の暗い表情と昨日の疲労困憊状態が嘘のような、浙冶の口の悪さである。前にここに来たときにもこんなことがあったわねと、樊季はずっと昔のことのように思い出した。
樊季は「そうね」とだけ返し、婚礼の一行が見えなくなるまで飽きずに見送っていた。
やがて一行が行ってしまうと、樊季はほうっと満足げなため息をつき、夢見心地でうっとりと言った。
「こんなところで花嫁行列が見られるなんてね」
そして、「覚えててくれたの?」と小さく尋ねた。
旅の最初のほうで樊季は「花嫁行列を見たい」と言っていた。その願いを聞いてくれたのかと思ったのだ。が、浙冶からの返答はない。会話だけは続いた。
「花嫁も花婿も顔は見えなかったな。衣裳ぐらい見たかっただろうが、まあ、仕方ないな」
そこで、衣裳といえば、と樊季は何かを思い出したようだった。
「そういえば嬰舜さまね、出発前に、婚礼衣裳をたくさん贈ってくださったのよね。まだ候補の衣裳がほかにもあるからって、後日贈るって文に書かれてたわ」
「そりゃあ良かったな、何でも持ってるうえにとっても優しい旦那さまで」
「誰かさんと違ってね」
いつも通りの樊季の嬰舜自慢。が、婚約者に思いを馳せて熱っぽく夢見るようないつも通りの喋り方ではなかった。そのことに浙冶は気づくわけもなく、半ば呆れ、半ば面白がるかの表情をする。
「まあ、縁起はいいわな。そろそろあの一行も無事に着いたころだな」
「無事って?」
「大通りにわざと石をまいて馬車を躓かせるバカな連中が時々いるんだよ。他人の幸せを妬んだ卑怯なやつらな」
「そうなの? そんなことしてどうなるの?」
樊季は目を瞬いてキョトンとした。その様子に浙冶はふっと笑ったが、答えなかった。
「あぁ、そうだ。そういえばお前に言うの、忘れてたわ。あと半時したら出発するからな。用意しとけよ」
突然の宣告に樊季は慌てる。
「ええっ? もう行くの? あんた、そういうことは前もって早く言いなさいよね!」
ご飯も食べてないわよーと言いながら樊季が部屋から出て行った。おそらく大急ぎで朝ごはんを食べるのだろう。どんなときであろうと樊季が食事を欠かすなんてありえない。
窓が開け放しになっている。これから貴族の妻になるとは思えない粗雑さである。
浙冶は窓を閉めようと手をかけた。ふと、花嫁行列の行った方向を見やる。が、すでに影も形も見当たらない。そのまま眼下の大通りを見回すと、窓をゆっくり閉め、部屋を出て行った。
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